悪くない奴らが成功できるための日記

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悪くない奴らが成功するには、イエスの復活の意味を理解すること

2013-03-30 10:55:39 | 成功法則

イエスが、十字架に架けられ6時間後(午後3時ごろ)、息を引き取ります。(マルコの福音書第15章34~37節) その直後、幕を上から下まで真二つに裂かれるのでした。(マタイの福音書第27章51節) 

このエピソードは、ヘブル9章8節、10章19節によって説明がされています。「前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていません。しかし、今は、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」。

 

イエスの生涯は、神の子として地上で生き、臨終もまた、神の子として息を引き取ったのです。このイエスの死は、私達人間の罪を取り除いて、死を滅ぼしたのです。そして新約の時代が始まるのです。 

さて、本題に入りましょう。 

「イエスが十字架につけられた日は、金曜日で、翌日の安息日(土曜日)のために備える日でした。また、その安息日は過越の祭りの日でもあるので、ユダヤ人達は、死体を十字架の上に残しておかないように、その日のうちに埋葬することを総督ピラトに願いました」(ヨハネの福音書第19章31節)。

ユダヤの律法によると、十字架刑は最悪の死刑にあたり、その死人を十字架に長い間置いておくことは地が汚れるなどの理由で、「安息日」までに死人を十字架から引き降ろさなくては、なりませんでした。そのため、イエスの弟子アリマタヤのヨセフが総督ピトラに願って、金曜日の夜にならないまでに、イエスの死体を至急引き降ろしたのです。

 

「アリマタヤのヨセフは、金持ちで有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」(マルコの福音書第15章43節)

彼のお陰があって、総督ピラトは、イエスの死体の引き降ろしを至急に許可したのです。そして、アリマタヤのヨセフの個人の新しい墓を提供してくれたので、イエスを埋葬することが出来たのです。 

またアリマタヤのヨセフがイエスを埋葬するとき、律法学者で最高法院の議員のニコデモも参加しています。このことは、イエスがすでに彼等を、キリスト教信者にさせていることなのです。 

しかしユダヤの大司祭や最高法院の議員達は、キリスト教信者達がイエスの死体を盗み、メシアが現れたなどの不安があったために、総督ピラトに駆け寄り、安息日の間、番兵を出して監視してもらえるよう交渉しましたのです。そして許可が出、それでも心配なので、祭司達は墓に行き封印をしたのです。 

イエスの弟子たちは、ここではアリマタヤのヨセフとニコデモを除けば、他の男性の弟子達は1人もいないのですが、ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女性達が、埋葬の手伝い等をするために出かけて栗のです。それらの女性達を4福音書から追ってみます。

このように、イエスの埋葬に参加していた女性達は、マグダラのマリヤ、クロパの妻マリヤ、イエスの母マリヤとその妹サロメの4人とされています。これらの女性が次のシーンで重要な立場となってくるのです。 

前記の様に番兵が墓の前で、一晩中眠らず監視をしていました。しかし、香料を持った女性達が、安息日明けの早朝、墓を訪れると、墓の入り口を塞ぐ大石(円形)が脇に転がされていて、開いたままになっていたのです。

   

イエスの埋蔵のエピソードはマタイの福音書第27章57~61節、マルコの福音書第15章42~47節、ルカの福音書第23章50~56節、ヨハネの福音書第31~42節に記載されているので参考にして下さい。 

そしてイエスの復活が起きたことの告知をする天使が、女達の前に現れるのです。 

「すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。」(マタイの福音書第28章3~4節)

「墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。」(マルコの福音書第16章5節)

「そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。」(ルカの福音書第24章4節)

「白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体の置かれていた場所に、1人は頭の方に、1人は足の方に、座っているのを見た。」(ヨハネの福音書第20章12節)

 

何故、イエスの復活の告知が、弟子達ではなく、イエスに従って付いて来た女性達に、最初に知らされたのでしょうか? 

当時の女性たちの地位は、ほとんど認められていなく、男達の世界が全て指導権、社会的身分をコントロールしていました。そのため、女性達が告知を受けることは、事実上考えられないことなのですが、イエスの告知は、違って、ボトムズアップ形式でエピソードが起きているのです。 

女性達はガラリアから一緒に行動し、イエスの受難の週でも、イエスをずっと見守っていたのです。この忠実さは、使徒ペテロでさえ出来なかったことなのです。彼はイエスに3回嘘を付いているでしょう。 

そして、告知を聞いた女性達は、使徒達に伝えるのですが、信じてくれなかったのです。ここが男性の見栄なんのです。この見栄は、罪に当たるのです。イエスは、彼等を女性達を通じて、テストしたわけです。 

キリストの復活は何を意味しているのですか?

 

聖徒パウロが、コリント人に書いた第1の手紙第15章に、「復活」に関しての聖徒パウロの考えが詳しく記載されているので、この手紙から紹介しましょう。 

「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(15章3~5節) 

この節では、イザヤ書53章や詩篇16篇に記されている、「復活の預言」が成就したことを述べているのです。

 

以下は福音を広めた使徒たちの言葉です。 

ヨハネの福音書第3章16節、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と述べられています。 

第一のペテロの手紙第2章24節、「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、貴方がたは、癒やされたのです。」 

ヘブル人への手紙第2章14節、「そこで、子達はみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して下さるためでした。」 

イエス・キリストは、私達人間に対して、信じる全ての人達を救済し、復活させる約束を、イエスの死で示してくれたのです。 

アダムによってもたらした「罪」、即ち「死」は避ける事が出来ないのですが、イエス・キリストの死と復活による勝利、つまりサタン・悪魔に対しての勝利を私達人間に、自ら証明したことなのです。

 

神は、神と同様の形で作られた私達人間を愛しておられます。このことを絶対に忘れないで下さい。ですので、悪くない奴らが成功するには、この神の愛を知ること、即ち、イエス・キリストの死と復活のことを理解することで、サタン・悪魔との戦いに勝つ事が出来るのです。 

そして神の愛と恵みに感謝、感謝、感謝することです。


悪くない奴らが成功するには、イエスの十字架での7つの言葉を少しでも理解すること

2013-03-29 18:43:36 | 成功法則

聖金曜日(グッド・フライデー)がまた来ました。イエスは、屈辱、激痛に耐え、十字架にかかりましたが。この十字架の6時間をもう少し見てみましょう。

 

イエスは、以下の7つの言葉を私達人間に語り、残したのです。 

なぜ、この7つの言葉が重要なのでしょうか?  

イエスは、十字架の刑を自分から逃げようとすることはしなかったのです。また今までのような色々な奇跡を起こして、「自分は神の息子」であることを証明して、私達人間を信用させようとすることはしなかったのです。

むしろイエスは、無罪にも係わらす、「十字架での死」によって、罪人として他の人間と同様な死に方をしたのです。 

そのことによって、イエス、すなわち「神の息子」であることを「死」によって証明させ、私達人間達のために、本当の神であることを示したのです。それが「復活」となって証明されたのです。 

以上のことを理解してください。十字架の死に行く間の7つの言葉の内容を1つずつ紹介していきます。 

第1番目の言葉: 父への赦しの祈り 

「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書第23章34節)。 

 

「父よ」と声を掛けます。この最初の言葉「父」は、イエス自身が「神の子」であることを証明しているのです。それまで神を「父」と呼べるのは、イエスのみでした。ユダヤ人達は、「神」と読んでいますが、決して「父」と呼んだことは無かったし、「父」と呼ぶことは無礼なことと成っていたのです。 

またこのときのイエスは、鞭に打たれ、十字架を背負った後、釘を手首(手)と足に刺された激痛に苦しみながらの言葉だったのです。それなのにイエスは、私達人間が何をしているのか解らないと、父に赦しを求めたのです。決して自分だけのために助けを求めた訳ではないのです。私達人間のためになのです。このことを忘れてはならないのです。 

第2番目の言葉: イエスが私達に残した約束 

「まこととに、貴方に告げます。貴方は、今日、私と共にパラダイスにいます。」(ルカの福音書第23章43節)。

 

ゴルゴダの丘で、イエスと共に2人の強盗を、1人は右にもう1人は左に、十字架に磔けられ、死ぬのですが、その死ぬ前に、2人の罪人は、イエスを嘲っていてのですが、一人の罪人は、イエスの崇高さを見たことで、この罪人はイエスを神の御子と認め、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、これです。どんなに罪深い人も、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じるならば、さばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。 

1人の強盗は、「貴方はキリストではないか。自分と私達を救え。」と言って嘲ったのですが、もう1人の強盗は、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と言って、反対側の嘲った強盗をたしなめたのです。そして、イエスに、「貴方の御国の位にお着きになるときには、私を思い出して下さい。」と願ったのです。 

そのため、死ぬ直前、この強盗にイエスに対する信仰心があることを見て、イエスは、強盗(罪人)を癒やし、「約束」の言葉を掛けたわけです。これが私達人間に対しての「約束」の言葉だったのです。私達人間は、生まれたときからアダムの罪を持って、この世に生まれてきているのです。ですので、イエスを信じる信仰のみによって、罪が赦されるという、私達人間に対しての「約束」の宣言なのです。 

第3番目の言葉: イエスが母親に対しての思いやり。 

「女の方。そこに、貴方の息子がいます。そこに、貴方の母がいます。」(ヨハネの福音書第19章26~27節)

 

十字架の足もとにイエスの母マリヤと弟子のヨハネが立っていたのです。イエスは、マリヤに目を注いで、この言葉をマリアに掛けたのです。そしてマリアがヨハネを自分の息子として面倒を見て欲しい、そしてヨハネににはマリアを母として受け入れ親孝行するようにと、愛そして思いやりの言葉を掛けたのです。 

そしてイエスは、「神の子」であることから、マリアを通してこの世に現れたことで、マリアは、「母」ではなく「1人の女」と言う言葉で表現したわけなのです。 

第4番目の言葉: 神が見捨てられた人間の声の代弁 

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイの福音書第27章46節)。

 

「わが神、わが神」と言う言葉は、詩篇第22章1節にでてくるバイブルの言葉なのです。私達人間が、神から離れ、神との会話ができなくなったために、ユダヤ教の信者に解る様に発した、「叫び・呻き」の全力を振り絞った大声なのです。 

第2コリント人への手紙第5勝12節で、「神は罪を知らない方を、私達の代わりに罪とされました」とあるように、無罪で有るべきイエスが、私達人間の代わりに、神に見捨てられたなのです。 

三時間の暗やみの中、イエスが、神に捨てられるという恐怖感は、私達人間にとっては、想像がつかないことなのです。この「死と神に見捨てられる」恐怖心は、どれほど恐ろしいことだったのでしょうか? 

神の計画は、自分の1人っ子を死刑に架けることで、神の愛を示すためだったのです。それは、私達人間の「救い」のための計画だったのです。 

第5番目の言葉: 限界に達した苦しみと新しく始まる人間の代弁 

「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書第19章28節)。

 

イエスはすでに6時間の苦痛を十字架で過しています。大声で叫んだことで、更に体が弱くなって、死に近づいてきたのです。そして人間が耐えることが出来る限界に達した時に、この言葉を発したのです。 

その時にローマ兵士は、布のついた槍先に、酸っぱいぶどう酒を染みさせ、イエスの口にもって言ったのです。この出来事は、詩篇第69章21節、「私が渇いたときには酢を飲ませました。」の成就する行動だったのです。 

また、私達人間が限界に来たときでも、即ち渇く人間のみ、イエスの元に行く事で、神の国に入れると云うことの言葉でもあったのです。ヨハネの福音書第4章37節、「誰でも乾いているなら、私の元に来て飲みなさい。」と記載されています。 

第6番目の言葉: 救いの完了宣言

 「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。

 

イエスは、私達人間の罪を背負って、罪の身代わりとして死を迎えるのです。その瞬間に、「完了した。」と言ったのです。神の計画通り、聖母マリアから受肉生誕され、33年半の人生をこの世で過しました。その間、イエスは、私達人間と同様な多くの迫害や試練を受けたのです。 

特に十字架における6時間の肉体の苦しみは、耐え難い体験であったと思います。そして特に後半の3時間、暗闇の中で沈黙が続いたのですが、この間、サタンの誘惑や母から愛、弟子との活動など、色々な事が、イエスの頭に投影されていたと思います。そして全て「神の計画が、イエス自体か生贄になる十字架刑で完成」したとして、この発言をしたのでしょう。 

私達人間の罪から救済するための計画だったのです。神の愛・恵みがここにあるのです。 

第7番目の言葉: 神である父にゆだねる 

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)

 

イエスは、自分の肉体の死が近づき、なすべきすべてが完了することをすでに察知していました。そのためにできるだけのことを弟子達に教え、奇跡を起こし、イエスが神の子であることを啓示していたのです。その仕事が終わったわけです。 

この仕事が終わったとき、イエスは、愛、安らぎ、平和感を味わったのではないのでしょうか。そして、神即ち慈愛に満ちた父のもとに行けることを、思ったのではないのでしょうか。 

だから、最後の苦痛の中で息を引き取る瞬間、第1番目の言葉と同様の「父よ。」と言う、親しい言葉を出されたのです。そしてイエスは、全てを父にゆだめ、息を引き取り、父の元に行ったのです。

 

さて地上に残された私達人間は、イエスと神の恵みと愛をどのように受けいれなければならないのでしょうか? 

悪くない奴らが成功するには、この言葉を十分に理解して、社会に貢献してください。 

そして神に感謝、感謝、感謝です。


悪くない奴らが成功するには、受難の週の出来事の意味をもっと理解すること(2)

2013-03-26 19:40:33 | 成功法則

前記ではイエスがエルサレムに入城して、宮殿を清め、最後の晩祭、イスカリオのユダが裏切り、イエスの苦痛の祈りがあり、そしてイエスが大司祭達に捕われたところまででした。(聖日曜日から聖木曜日)

今回はその続きとなります。この聖金曜日(グッド・フライデー)が、私達人間が学ばなくてはいけない重要な箇所なのです。キリスト教で、最も重要な出来事は、イエス・キリストの死とその後の復活で、キリスト教の基盤となっている箇所なのです。

このエピソードが起きなければ、キリスト教は無かったのです。そしてここが他の宗教と違う点なのです。

ユダヤ教の大司教、長老などが、私達人間のために死にましたか?

イスラム教のモハメッドは、私達人間のために死にましたか?

仏教の阿弥陀は、私達人間のために死にましたか?

神道の天皇は、私達人間のために死にましたか?

聖金曜日: 夜が明ける前、イエスに対しての大司祭、長老、議員らの審問が行われます。そして、大司祭カイアファは、イエスを死刑にする決議を下したのです。ところがこのサンヘンドリンと言われる最高法院では、当時死刑の裁判をする権限が与えられていなかったのです。そのために、イエスの身柄をローマ総督のピラトの下に送ったのです。その間、鞭を打たれたり、あざけりを受けているのです。(マタイの福音書第26章57~68節、マルコの福音書第14章53~65章、ルカの福音書第22章45~65節、ヨハネの福音書第18章24節)

 

その夜明け、聖徒ペテロは、イエスの後を追って大祭司邸の中庭まで入るのですが、使徒であることが分かりそうなるのですが、彼は、イエスの弟子ではないと3回否定するのです。そして鶏が鳴くのです。イエスの予告は的中するのです。(マタイの福音書第26章69~75節、マルコの福音書第14章66~72節、ルカの福音書第22章54~62節、ヨハネの福音書第18章15~27節)

 

そのころ、イエスを裏切ったエスカリオのユダは、自殺をするのです。(マタイの福音書第27章1~10節)

 

早朝、イエスは、総督ピラトの官邸に連れられてきます。 そしてピラトの裁判を受けるのですが、ローマの法律では宗教的な理由による罪人は死刑に出来ないとされていたために、大祭司カイアファから引き受けたイエスを、「イエスは、ユダヤの王としてローマに対する反逆罪」として十字架に掛けることを決めたのです。そして総督ピラトはイエスに尋問するのです。

 

しかし、総督ピラトは、「私は、イエスが何の罪をも見出すことが出来ない」と語り、イエスをちょうどエルサレムに訪問していた、ヘロデ王のもとに引き渡すのです。 そしてヘロデ王は、イエスを審問するのですが、イエスは、黙ったまま何の返事をしなかったのです。そのため、ヘロド王は、イエスを総督ピラトのもとに送り返すのです。

 

イエスは、再び総督邸に連れてこられ、総督ピラトの裁判を再び受けることになるのですが、総督ピラトは、イエスを鞭打刑として釈放することを判決したのですが、扇動された群集は、「十字架につけろ」とローマに上訴しかねない勢いで叫んできたのです。そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、群集に、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言ったのです。

 

そして祭りの時には一人の罪人を恩赦することを思い出し、ローマの反抗罪となったバラバを連れ出し、「イエスとバラバのどちらを恩赦するのか」と群集に聞くのです。しかし群集は、バラバを選んだのです。

そのために、総督ピラトはむなしくイエスを「イエスはユダヤ人の王」として処刑を決断したのです。そしてバラバは釈放されたのです。

 

さてこうして総督ピラトは、鞭打ちをさせるためにローマ兵士に引き渡すのです。そしてローマ兵達は、兵舎に連れ、服を剥ぎ取り、紫のガウンを着せ、茨の冠をかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」とイエスを嘲り、蹴ったり、殴ったり、唾を吐いたりして、鞭打ちをされ、陵辱の限りを尽くすのです。

そして傷ついたイエスは、自分の処刑にもしいる思い十字架を背負わされ、死刑場のゴルゴタの丘に続く道を歩かされるのです。これが「悲しい道」であり、「ヴィア・ドロローサ」なのです。

兵隊達は、ちょうど田舎から来合わせていたクレネ人のシモンという男に、無理やりイエスの十字架を背負わせるのです。(マタイの福音書第27章32節、マルコの福音書第15章21節)

ゴルゴタの丘に着いたイエスは、その十字架に釘を打ち込まれます。

そのゴルゴタには、他の二人の罪人も十字架に架けられていました。そしてイエスに、「貴方は何の罪を犯していない」とささやくのです。その男はかってイエスが癒やしたことのある女の息子だたのです。そしてイエスはその男に、「貴方は今日私と共に楽園に入る」と言ったのです。

 

その後すぐにゴルゴタの丘は、黒い雲に覆われ、まもなく激しい嵐が起きたのです。その中イエスは悲痛な叫びを上げ、「父よ、貴方は私を見捨てられるのか」、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶのです。

 

 

そして息を引き取るのです。その時に、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けるのです。

まもなくイエスの死体を引き取りに、議員の一人アリマタヤのヨセフとかつて深夜にイエスを尋ね、神の国の福音を教えられたニコデモでした。彼等は、すぐさまイエスの遺体を十字架から引き降ろし、白い亜麻布に丁寧にくるんだのです。そして女たちも集まって来ました。

そして、彼等は、ゴルゴタの丘の西側の岩に彫られた新しいヨセフのための墓に手厚く葬ったのです。そして墓の入り口は重い石で蓋をしたのです。(マタイの福音書第27章57~60節、マルコの福音書第15章42~46節、ルカの福音第23章50~54節、ヨハネの福音書第31~41節)

 

聖土曜日: 安息日のために、使徒達は静かに行動をしませんでした。

聖日曜日: イエスが処刑されたその日(金曜日)は夕方から安息日になるため、正式な埋葬は、安息日が明ける日まで待たなくてはならなかったのです。そして安息日明けの朝、マグダラのマリアとヤコブの母のマリアの女達、イエスの遺体に香油を塗ろうと墓に行ったのですが、その時、地が揺れ、天使がマリアの前に現れたのです。そして天使は、「あなた方が探しているイエスはここにいない。復活したのだ。弟子達にガラリアでイエスが現れることを告げなさい」と命じるのです。(マタイの福音書第28章1~8節、マルコの福音書第16章1~8節、ルカの福音第24章1~8節)

マグダラのマリアが安息日の翌朝早く墓に出かけると、イエスの死体が消えていたために、ペトロやヨハネにすぐ様報告をするのですが、使徒達マリアも含め、遺体が消えたことを見届けるとすぐに家に帰ってしまったのです。しかし、マリアは墓に戻り、墓の前で泣いて、墓の中にはいるのです。その時、イエスのしたいが置かれてあった、場所に2人の白い布の天使が座っていたのです。そしてマリアの後ろから声が聞えたので振り返ります。するとイエスが立っていて、「マリア、私だ」と言って、復活したことを弟子達に伝えることを命じたのです。(ヨハネの福音書第20章1~18節)

十字架の死刑は、当時極悪の罪人にのみ課された残酷な死刑のやり方なのでした。金曜日の朝6時ごろ、イエスは捕られ、鉄のついた鞭で打たれ体の全てに傷がついたのです。そして茨の冠をかぶさられ、顔から流れ落ちる血、体から流れる血、その体で、十字架をかつぎ、ゴルゴタの丘まで、歩いていったのです。この苦しみは、普通の人間では、途中で心臓が止まってしまう可能性が高いのですが、イエスは、この痛みそして陵辱されことに耐えたのです。そして十字架上でイエスは、「父よ、彼等をお許しください。彼等は何をしているのか解らないのです」と言って、その後息を引き取ったのです。

悪魔・サタンの毒牙(誘惑)のもとに、私達人間は自分自身を見失ってしまっているのが、現代の世界ではないのでしょうか?イエスのように、他人、まったく知らない人達のために恵みを与えてくれたのです。それがイエスの死であり、復活なのです。コノエピソードは、神だけが創れるものなのです。

だからローマの百卒長や群集は、「誠にこの人は、神の子であった」と証言しているのです。このエピソードを信じるか信じないかは読者の方々が判断してください。

ですので、悪くない奴らが成功するには、このエピソードを深く理解・認識することなのです。

そして神に感謝、感謝、感謝することなのです。


悪くない奴らが成功するには、受難の週の出来事の意味をもっと理解すること (1)

2013-03-25 20:23:27 | 成功法則

イエスは、人間として処女マリアから生まれ、私達人間として33歳まで、地上で生活をして、色々な奇跡、「死人を生き返させたり、病人を治したり、目くらを治したり」を起こしたのです。そのイエスが私達人間の罪のために死んだのですが、その心情はどうだったのでしょうか?

もう一度、「受難の週」を見てみます。

聖日曜日、イエスは、過越祭を過すために、弟子とエルサレムに向かったのです。過越祭のために集まった群集は、奇跡を起こしたイエスを一目見ようとナツメ椰子の枝をもって歓迎したのです。その時、イエスはロバに乗って入城しているのです。

ここで重要なのは、馬と違ってロバは、常に頭を垂れて黙々と働くのです。このロバに乗って入城したことは、旧約の預言の成就であり、柔和さ・謙虚さの象徴なのです。

このエピソードは、マタイの福音書第21章5節、ヨハネの福音書第12章13~15節に記載されています。

また、イエスは、エルサレム入城の以前に、自分が死んで復活することを3度予告しています。

一回目は、イエス・キリストの死まで、9~10ヶ月の頃です。

「その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士達から多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目に蘇らされねばならないことを弟子達に示し始められた。」 (マタイの福音書第16章21節)

2回目は、ガレリアにて。

「人の子は裏切られて人々の手に渡されるように定められています。そして人々は彼を殺し,三日目に彼は蘇らされるでしょう」 (マタイの福音書第17章22~23節、マルコの福音書第9章31節、ルカの福音書第9章44節)

3回目は西暦33年の春、過越祭りのエルサレム入城をする前です。

「ご覧なさい,私達はエルサレムに上って行きます。そして,人の子は祭司長や書士たちのもとに引き渡され,彼らはこれを死罪に定め,ついで,これを愚弄し,むち打ち,かつ杭につけるために諸国民[の者たち]に引き渡すでしょう。そして,三日目に彼はよみがえらされます」。 (マタイの福音書第20章18~19節、マルコの福音書第10章33~34節、ルカの福音書第18章32~33節)

これらの預言は、イエス自身が使徒達に話し掛けた言葉ですが、イエスはすでにエルサレムの入城以前に自分が死ぬ覚悟があったのです。

聖月曜日: エルサレムに入城したイエスは、神殿の庭を商売に利用したり、賄賂が祭司に渡されていたりしたことで、イエスは激しく非難した聖なる怒りを見せたのです。イエスが怒りを見せたのは、ここでのみでした。そしてそれらのユダヤ人達を追いだし、神殿の庭を清めるのです。(マタイの福音書第21章12~17節、ルカの福音書第19章45~48節)

聖火曜日には、神殿の庭で、民衆に対してエルサレムの滅亡が近づいているとか、終末が来ることなどの説教や預言をしたのです。そしてイエスは弟子達に自分が2日後に捕らえることを予告したのです。

聖水曜日には、イエスと使途達は、エルサレムを離れベタニアのシモンの家に滞在します。その家にマリヤという女の人が来て、イエスの葬りの備えのために、高価な香油を注ぎます。その一方でイスカリテのユダは大祭司のもとを尋ね、銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をしています。イエスが予告したように彼はイエスを裏切ったのです。

 

聖木曜日には、イエスと使途達は、再度エルサレムに戻り過越祭りの準備をします。イエス自身が過越祭が行われる場所を決めたのです。そして、弟子達にその祭りのための仕度を整えるように命ずるのです。そして過越しの晩餐がイエス・キリストを含めた12人によって始まったのです。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネの福音書第13章1節)

これが「最後の晩餐」と呼ばれ、レオナルド・ダビンチなどの画家が絵を残しています。

 

この過越祭の晩餐をする前に、イエス・キリストは、弟子達を愛する故、弟子達の足を洗うのです。

「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネの福音書第13章4~5節)

 

イエス・キリストは、十字架で受けなければならない苦しみもすでに、神から知らされていたのです。そして最後の晩餐が始まります。

「イエスは彼らに言われた、『私は苦しみを受ける前に、貴方がたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。貴方がたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、私は二度と、この過越の食事をすることはない』。」(ルカの福音書第22章15~16節)

そして今でもキリスト教会で儀式として取り入れている、ワイン(血)とパン(肉)を分ける「聖餐式」の話が始まります。現在でもこの儀式は、教会において引き継がれています。

「そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って、互に分けて飲め。 貴方がたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、私はぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない』。 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子達に与えて言われた、『これは、貴方がたのために与える私の身体である。私を記念するため、このように行いなさい』。 食事の後、杯も同じ様にして言われた、『この杯は、貴方がたのために流す私の血で立てられる新しい契約である』」(ルカの福音書第22章17~20節)

 

そして自分が弟子の1人に裏切られることを弟子達に話すのです。

「しかし、そこに私を裏切る者が、私と一緒に食卓に手を置いている」(ルカの福音書第22章21節)

「イエス・キリストは自分を裏切る者を知っておられた。それで、『皆が綺麗なのではない」と言われたのである』。」(ヨハネの福音書第13章11節)

「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、『よくよく貴方がたに言っておく。貴方がたの内の1人が、私を裏切ろうとしている』。」(ヨハネの福音書第13章21節)

「そして、一同が食事をしているとき言われた、『特に貴方がたに言っておくが、貴方がたの内の1人が、私を裏切ろうとしている』。」(マタイの福音書第26章21節)

「そして、一同が席について食事をしているとき言われた、『特に貴方がたに言っておくが、貴方がたの中の1人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」。(マルコの福音書第14章18節)

更にイエス・キリストは、一番弟子である使徒ペテロに、

「その朝鶏が鳴く前に、貴方は私を三回知らないと言うでしょう」(ヨハネの福音書第13章38節)

ペテロよ、貴方に言っておく。今日、鶏が鳴くまでに、貴方は三度私を知らないと言うだろう」(ルカの福音書第22章34節)

「貴方によく言っておく。今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、そう言う貴方が、三度私を知らないと言うだろう」(マルコの福音書第14章30節)

「よく貴方に言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、貴方は三度私を知らないと言うだろう」(マタイの福音書第26章34節)

 

最後の晩餐が終わり、イエス・キリストは、晩餐の席を離れ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子達を連れてエルサレム神殿の東のケデロンの谷を渡り、ゲツセマネの園と言われているオリーブ山のふもとに行くのです。そしてこのゲツセマネの園でイエス・キリストは、十字架刑を受けることの苦悩を祈るのです。

 

『父よ、御心ならば、どうぞ、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにしてください』。そのとき、御使が天から現れてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られたそして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」 (ルカの福音書第39~44)

私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』。 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、 『アバ、父よ、貴方には、出来ない事はありません。どうか、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心のままになさってください』。」(マルコの福音書第14章32~36節)

「『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、私と一緒に目をさましていなさい』。 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』。」(マタイの福音書第26章38~39節)

イエスは、三度祈ります。その後、大司祭の兵士達がイエスを捕らえるためにゲセネマの園にくるのですが、その時イスカリオのユダは、イエスを裏切る証拠としてキスをするのです。そして自ら逮捕されることになるのです。

 

イエスは捕らえられ、大祭司カヤパのもとに連行されるのです。そして、イエスを危険視した最高法院のメンバーである祭司、律法学者、長老達は、イエスを十字架に掛けさせることを決断し、ピラト総督にに引き渡すことを決定するのです。

 

ここから、イエスの受難が始まるわけです。

悪くない奴らが成功するに、この一日の出来事の内容とイエスが十字架に掛けられる心境を理解することなのです。イエスは、私達人間の罪を背負って帳消しにするために、祈りそして死の恐怖で血が出るぐらい恐ろしさを経験しています。このイエスの苦痛の経験は、私達人間の苦痛の経験なのです。

ですので、イエスは、私達人間の全ての苦しみ、悩み、痛み、病、嫉妬、激怒、弱みなどを良く知っています。だから、イエス・キリストを受け入れ、信じることで、現在の抱えている問題を解決してくれるのです。

ですので神に感謝、感謝、感謝です。


悪くない奴らが成功するには、律法は裁きで、恵みは赦すことを認識すること

2013-03-22 19:46:29 | 成功法則

イースター・復活祭の1週間前の週を「聖週間」とか「受難週」と呼ばれていて、イエス・キリストがエルサレム城から受難を経て復活をするまでの一週間として尊重されてきたのです。その中でもイースター・復活祭の前の木曜日、金曜日、土曜日の三日間は、特別な典礼や礼拝が行われてきました。

本題に入る前に、最後の晩餐から十字架そして復活の四日間の出来事を簡単にまとめました。

木曜日(最後の晩餐):イエス・キリストが使徒の足を洗う、最後の晩餐、ユダの裏切り、イエスのゲツセマネの園での祈り、イエスの逮捕、ペトロの裏切り、カイアフィアと最高法院のメンバー達による尋問、

 

金曜日(受難の日): ユダヤ総督ピラトによる裁判、ユダヤ総督ピラトはヘロデ王にイエス・キリストを送る、ヘロデ王はイエス・キリストをユダヤ総督ピラトに送り返す、ユダヤ総督ピラトが手を洗う、イエス・キリストを十字架の刑を決定する、イエス・キリストは鞭打ちをされる、イエス・キリストは、十字架を担ぎ刑場に向かう、ゴルゴタの丘で十字架に掛けられ息を引き取る、ガリラヤから従ってきた婦人たちがイエス・キリストの死を確認、ヨセフがイエスを日没の前に埋葬する

 

土曜日(安息日): 金曜日の日没から土曜日の日没まで安息

 

日曜日(復活): 墓が空であることを女性達が確認、天使がマグダラのマリヤ、ヤコブ、ヨセフの母マリヤが墓の前にて出現、イエス・キリストが蘇ったことを告げられる、マグダラのマリヤが弟子達に知らせに行き、再び墓に戻った時に復活したイエス・キリストと出会う

 

復活後40日目(昇天祭): イエス・キリストが復活した後、天に昇り、父(神)の右に座する。

 

さて本題に戻ります。悪くない奴らが律法と恵みを理解するのには、この受難の日を理解することが重要なことなのです。では何故重要なのでしょうか?まずは「律法」に関して紹介しましょう。

イエス・キリストが、十字架に架って息を引き取ったすぐ後に起こった出来事に注目してください。

「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、本当にこの人は神の子だったと言った。」 (マタイによる福音書 第27章50~54節)

「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」  (マルコの福音書第15章37~38節)

この下線の部分、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」に注目して読んでください。

神殿の幕が裂けたということが、悪くない奴らが成功するために理解すべき、新約の大変重要な箇所なのです。

この神殿の幕が裂かれたということは、これらの大祭司による、旧約による契約が破られたことなのです。

旧約での律法は、人を裁くために作られ、儀式を重んじています。これは宗教どれもが儀式を重要視しています。その儀式をすることで、私達人間は神に近づけると信じていました。更に罪を洗い流してくれると信じていました。しかしこの儀式は、神に奉げるために、生贄の犠牲の血を流していたのです。

神に許しを得るために子羊の血を奉げたのです。神殿は、大祭司が罪のための生贄、全焼の生贄、和解の生贄、穀物の奉げ物など、生贄や奉げ物を神の前に携えるために、建てられたのです。

 

そしてこの神殿には、二重の壁があり、外側の壁の中が異邦人の庭と呼ばれ、誰にでも入るこ とが出来るところでした。そしてもう一つの壁がその中にあり、そこはユダヤ人以外は入ることが出来なかったのです。そして青銅の祭壇があり、その祭壇で犠牲の動物が激しい火で焼かれました。

 

殺された生贄の動物の血を洗い落とすために、常に水が神殿の横に流れていました。

またこの神殿には一切椅子が置かれていないのです。ユダヤの大司教は立ったまま神に祈るのです。

しかし、イエス・キリストは、天に昇り、神の右座に座り、私達を見守ってくれているのです。

地上の祭司達は、民の罪のために神殿で日々、生贄を奉げたり、奉仕をしているので、決してその座に座ることは出来ないのです。そのために神殿には、椅子がないのです。

そして十字架でのイエス・キリストの死によって犠牲の血が流されたことによって、ユダヤ教の生贄の犠牲は必要でなくなったことなのです。律法のための裁きが、イエス・キリストの血によって流れ消されたわけです。ただ一度、イエス・キリスト自身が、私達の罪のための生贄として奉げて、罪の贖 いを永遠に成し遂げたのです。

 

ヘブル書第7章28節、「 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。」

ヘブル書第8章1~2節、以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私達の大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」

イエス・キリストの死によって、神との「新しい契約」が出来、「古い契約」、即ち律法が打ち壊されたことなのです。「律法」は、裁くために作られた約束なのです。

 

エレミア書第31章31節、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」とエレミアは預言しました。この預言がイエス・キリストの死によって「成就」されたことなのです。

では、「恵み」とは何なのでしょうか?それは、過去の罪から救ってくれることであり、現在の罪から自由にしてくれることであり、未来の罪から守ってくれることなのです。即ち、神が私達人間の罪を、イエスキリストの血で洗い流し、罪を赦してくれたことなのです。

たびたび繰り返しますが、イエス・キリストは、神の1人子であり、神と一緒に存在していること、そして神は、私達人間を愛しているがために、私達人間を罪の罰から救うために、神の1人子を自ら生贄にさせたのです。神は、終わりの日に、罪を犯したものを罰しなければいけないという契約を、神の1人子によって、私達人間の代わりに罪の罰を受けられたのです。そのことによって、私達人間には、罪に対して罰をもって報うことは無いという契約を定められたわけです。

 

ここが他の宗教と大きな違いなのです。そしてイエス・キリストを通して、神と人間が直接会話することが、儀式を通さず出来るようになった訳です。

エペソ人への手紙第1章7節、「 私達は、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。 これは神の豊かな恵みによることです。」

イエス・キリストを受け入れることは、自分の過去の罪の赦し、即ち「恵み」を受けることなのです。この事が、本当のクリスチャンなのです。

最後に、「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」(第1のコリント人への手紙第13章4~7節)

神の言葉を理解、認識することで、悪い奴らが成功することが出来るのです。これはビジネスにおいて、夫婦関係、親子関係などに「成功する鍵」なのです。

神に感謝、感謝、感謝です。


悪くない奴らが成功するには、イエス・キリストの死と復活の意味を理解、認識すること

2013-03-19 21:27:19 | 成功法則

今年の復活祭(イースター)は、3月31日の日曜日に、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念する祝日です。因みに、昨年は4月8日でした。

何故このように毎年復活祭の日にちが変わるのは、何故でしょうか?

それは西方教会(グレゴリオ暦)と東方教会(ユリウス暦)が、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決められたのです。しかし、両方の使用する暦は、暦のカウント方法が異なるために、復活祭の日にちも違っています。

まずはこの復活祭(イースター)の簡単な説明をしましょう。

第1日目: 金曜日(過越しの祭り)の昼頃、イエス・キリストは、首都エルサレムに入り、十字架上での6時間にわたる苦しみの後、午後3時ごろ息を引き取ったのです。即ち、イエス・キリストは、私達人間のために「過ぎ越しの生贄の子羊」となったわけです。(第一のコリント人への手紙第5章7節)

 

第二日目: 土曜日は安息日であったため、活動が厳しく制限されていたために、すぐにイエス・キリストの遺体はユダヤ人議会のアリマタヤのヨセフ議員の墓地に収められました。そしてローマ兵士達が墓の前で死体が盗まれないように見張りをしていました。

 

第三日目:日曜日の朝、朝日が昇るのを待ちかねていた女達は、急いで墓に向かったのですが、墓は空っぽだったのです。イエス・キリストが復活されたのです。

 

イースターは、この3日目に起きた復活のお祭りなのです。

では何故イエス・キリストは、十字架での磔刑によって死ななければならなかったのでしょうか?

その1つの理由として、預言者イザヤが預言した、メシヤ(救世主)の出現の予言が「成就」したことを意味しているのです。このメシヤが、イエス・キリストなのです。

イザヤ書第53章4~6節には、「誠に、彼は私達の病を負い、私達の痛みを担った。だが、私達は思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私達のそむきの罪のために刺し通され、私達の咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私達は癒された。 私達は皆、羊のようにさ迷い、各々、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私達の全てのとがを彼に負わせた。」と有ります。

 

ユダヤ人達は、このイエス・キリストを今でもメシヤとしていないのです。その為にか、ユダヤ人達は迫害の歴史をたどっているかも知れません。更に、ユダヤ人達が、イエス・キリストを世界に広めさせるための「パイプ役」となって、旧約での預言を「成就」させた民族と言えるのではないのでしょうか。

イエス・キリストは、ダビデ王の血統(子孫)でユダヤ人であることと、そしてそのユダヤ人達が、イエス・キリストを十字架に磔けたことを、ここで認識しておいて下さい。

以下はイエス・キリストがダビデ王の子孫であることを証明しています。 

イザヤ書第9章6~7節には、「1人のみどりごが、私達のために生まれる。1人の男の子が、私達に与えられる。主権はその肩にあり、その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、永久まで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」と有ります。イエス・キリストが降誕する預言が、新約の福音にて「成就」するわけです。

 

更に、ゼカリア書第9章9節には、シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、貴方の王は貴方の所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ロバに乗る。即ち、ロバの子である子馬に乗る」とあります。

イエス・キリストは、この預言の通り、ロバに乗って、エルサレムに入場しているのです。(マルコの福音書第11章7節、マタイの福音書第21章7節、ルカの福音書第19章35節、ヨハネの福音書第12章15節)その時に群衆は、賛美の歌を歌いながらイエス・キリストの入場を迎えるのです。

 

旧約に記されているメシアに対しての預言は、ほとんどがイエス・キリストによって成就しているのです。そしてまたイエス・キリストは、自分の死が近づいていることと、3日目に蘇えりをすることを預言をしています。今でもユダヤ人達は、このような預言をしたイエス・キリストを、メシヤ(救世主)ではなく預言者として呼んでいるです。

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示し始められた。」(マタイの福音書第16章21節)

「見よ、私達はエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう。」(マタイの福音書第20章18~19節)

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達に捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。」(ルカの福音書第9章22節) 

このように使徒達が残した、イエス・キリストの預言の言葉で、旧約の預言を成就させる言葉であり、実際、十字架に架ったイエス・キリストは、3日目に蘇ったのです。

 

このエピソード(十字架での死お復活)が、他の宗教と違って、イエス・キリストがこの世に生誕された最も大きな目的なのです。メシア・救世主は、私達の苦しみを良く知っています。それはイエス・キリストが経験した苦しみ、(無実の裁判、裸にされ鞭打ち、十字架を担ぎ死刑場に行く、手足を釘打ちされ十字架に架られる)そして死です。イエス・キリストは、私達が想像できないほどの苦しみ、屈辱、痛みがあったに違いありません。このことは、イエス・キリスト自身が私達に代わって、神よりの裁きの苦しみの経験してくれたわけです。

この苦しみ、痛みに耐えてイエス・キリストは、自分のことだけではなく、私達人間に思いやりを示しているのです。それはイエス・キリストの十字架での最後の言葉の中から証明できます。

ルカの福音書第23章34節、「父よ彼らをお赦しください。彼等は、何をしているのか自分でわからないのです」と言って、そして遂に力が尽き果て最後の言葉を残します。 

「すべてが終った」(ヨハネ福音者第19章30節)

父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカの福音書第23章46節)

 

アダムとエバの罪をイエス・キリストは、十字架によって、そして彼の血によって流してくれたのです。ですのでこのエピソードは、私達の罪を贖うための「神からの贈物」なのです。そして何百人の人々が、このエピソードを目撃をしているのです。(歴史的な証明があります) すでに紹介したように、私達人間は、アダムとエバが犯した罪を生まれたときから備えられて、その罪の報酬が、死なのです。 

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私達の主イエス・キリストにある永遠の命です」(ローマ人への手紙第6章23節)

神は、私達人間に永遠の死を望んでいません。私達人間のために、イエス・キリストを生誕させ、贖いと復活の道を開いてくれたのです。

聖徒パウロは、イエスキリストの復活に関して、以下の様な表現をしています。

「罪の力は破られ、罪を愛する性質は葬られ、罪が私達を支配、束縛することはもうないのです。」 (ローマ人への手紙第6章2~6節)

 「イエス・キリストの復活によって、私達も彼と同様となり、古い罪の性質は死に絶え、今は神に対して新しい命が生まれました。」ローマ人への手紙第6章5節、第6章11節)

繰り返しますが、イエス・キリストは、罪のために死んだのです。この意味は、私達も同様に罪のために死んだのです。そしてイエス・キリストは、神の恵みによって蘇ったのです。

「神は私達の罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、私達が、イエス・キリストに在って神の義となる(罪を赦され、神の前に正しい者とみなされる)ためなのである。」(第2のコリント人への手紙第5章21節)

 

悪くない奴らが成功するには、イエス・キリストの死と復活を理解、認識すること、即ち唯一の神の存在を信じ、イエス・キリストを受け入れることで、イエス・キリストと一緒に私達も蘇る事が出来るのです。

ですので、神に感謝、感謝、感謝です。 


悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること(2)

2013-03-15 20:18:31 | 成功法則

今回もサタン・悪魔が、現実に存在していることを、読者の方々に認識していただくために描いています。サタンの起源は、前回くどいほど描いた通り、創世記まで遡りましたが、今回はヨブ記から取り上げて紹介していきます。その理由は、悪くない奴らが成功するために、サタン・悪魔の存在を完全に認識して欲しいためなのです。

ヨブの物語は、神とサタン・悪魔にもてあそばれた(翻弄)された1人の男のエピソードなのです。そして信仰に関しても記されています。少し長い語りですが、すんなり読んでみてください。

ヨブは、当時ではかなりの富をもっていました。10人の子供、羊7000匹、ラクダ3000頭、牛500頭、雌ロバ500頭などや使用人も数多く使っていた比類のない財産を所有していたのです。そしてヨブは、汚れなく純真な義のある人だったのです。更にヨブは、神を畏れ、悪を避けて生活を送っていたのです。

ある日、神の前に神の使いたちが集まったのです。その時にサタン・悪魔も含まれていました。そしてサタン・悪魔は神に対して、「もしヨブから財産を奪ったら、幾ら敬虔なヨブでも、神を呪うはずだ」と挑発したのです。そして神は、サタン・悪魔に、ヨブに試練を与えることを許してしまっているのです。

神は、サタン・悪魔に対してヨブの財産と家族を取り上げさせること、そしてヨブの健康を損なうことを許します。しかし、ヨブの命には手を触れてはならないと命じるのです。

こうしてサタン・悪魔は、ヨブから彼の財産を略奪するのです。更に家がつぶれ10人の子供(7人の息子と3人の娘)全員が死ぬのです。次にサタン・悪魔は、ヨブに肉体的な苦痛を与えれは、ヨブは神を呪うはずだとして、ヨブに皮膚病を与え、全身をかきむしったために血だらけとさせるのです。

ヨブはこの時に、「恐れていたことが起こった、危惧していたことが襲いかかった」(ヨブ記第3章25節)と言っていますが、このことは人間が何かを失うことをすでに恐れていたことが、このような結果となっているのです。ネガティブ思考(負の信仰)がこの良い例なのです。

悪くない奴らが成功するには、このネガティブ思考を削除させることから始まります。サタン・悪魔は、私達人間の弱みに衝けて狙い撃ちしてくるのです。

 

そしてヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言ったのです。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主 の御名はほめたたえられよ」と、神を非難することはなく、罪を犯さなかったのです。(ヨブ記第1章21節)

そしてサタン・悪魔は、更に神に挑戦するのです。(ヨブ記第2章)

そしてヨブの妻は、ヨブに対して貴方はなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神を呪って死になさい」(ヨブ記第2章9節)と非難したのですが、それでもヨブは、神を呪ったりしなかったのです。

 

その時、ヨブの3人の友人が見舞いに訪れますが、彼の変わり果てた姿にビックリするのです。そして彼等は、この苦難は今までヨブが何らかの罪を犯した結果だと、色々と慰めるのですが、苦難を取り除く事が出来ませんでした。

3人の友人の慰めは更に続き、ヨブも答えてきます。そして遂にヨブは、神に向かって「この世に生まれてきたことを呪うのです」、そして、神を呪ってしまいます。(ヨブ記第3章)

 

ヨブは、過去の栄光を振り返ります。その時の会話を「ヨブの十戒」とされています。

1)姦淫を犯さなかった事、2)正直に正義に生きてきた事、3)召使いへのいたわって来た事、4)貧しい者へのいたわり、5)富の奴隷にはならなかった事、6)偶像礼拝をしなかった事、7)敵に対しての寛容な態度を示した事、8)他者への持成しをしていた事、9)罪を隠したことはない事、10)大切な土地へのいたわりをしていた事の10項目が挙げられます。

ヨブは、神への疑いをするのですが、自分の思いのまま、そして自分の心のうちを隠すようなことをせずに、神に問い続けたのです。その時、彼の友人達は、自分達が神であるかのように振舞ったのです。

そしてエリフと言う若者が、ヨブと3人の友人に対して、神がいかに素晴らしいのかの論議をする会話があります。彼は若いのに、神を真っ当に信じて生きて来た人だったのです。

さて、エリフは彼等にこのようなことを述べます。「全能者は-我々はこれを見いだすことが出来ない。彼は力と公義とにすぐれ、正義に満ちて、これを曲げることはない。 それゆえ、人々は彼を恐れる。彼はみずから賢いと思う者を顧みられない」。(ヨブ記第37章23~24節)

以上を簡単に説くと、「唯一の神は、人間が持つ以上の優れた力をもっていて世界を治めているのです。ですので憐れみ深い人間達を苦しめることは一切しないことなのです。そして人間は、自分たちの知恵を全てとして認めず、神を畏れ敬うことをすることするべきです」 

エリフは、イエス・キリストの出現として取り上げられることがあります。その理由は、若いエリフが、イエスのように人間に語りかけているのです。また突然、エリフが出現して、今までの会話を聞いていたとも記されているのです。以下は、イエス・キリストの言葉のようにヨブ記第33章で発言しています。その一部を紹介しましょう。

「私は潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神は私に対する不満を見いだしわたしを敵視される。わたしに足枷をはめ行く道を見張っておられる。ここにあなたの過ちがある、と言おう。人間は神より強くいます」(ヨブ記第33章9~20節)

それらの会話が終わった後で、神は、ヨブに旋風の中から声を掛けて来るのです。(ヨブ記第38章) しかし、ここでの神は、以前と違っていたのです。モーセの時代の神は、人間が神に対して反論を許さなく、絶対的に義とされる神であったのです。

そして神は、ヨブに対して人間には不可能な天地創造など、神が行ってきた業を列挙していくのです。そのため、ヨブは反論することが出来ませんでした。(ヨブ記第38章~40章2節) 

そしてヨブの応答が始まるのですが、全面的に神の意見を飲み込んでいくのです。全面降伏です。モーセの神は、応答を許しませんでした。一方的な神でした。

ここで更に神は、神の絶対的な力を誇示するのです。そして人間の無力さを嘲笑します。(ヨブ記第40章6節~第41章34節)神は、その荘厳さの中でヨブに悔い改めと信仰を求めたわけです。

更に神とヨブの対話が続き、ヨブは友人のためのお祈りをしたのです。そのことが理由で神が、ヨブに今までの所有していた財産の2倍に増やしてくれたのです。羊14000頭、らくだ6000頭、牛1000頭、雌ろば1000頭をもったのです。 また男の子7人、女の子3人を持って、140歳で亡くなったのでした。

最終的には、神がサタン・悪魔の挑戦に勝ったのですが、私の意見としては、神は、サタンを創造することで人間をとことんまで隅に押しやり、悲鳴を上げさせることで、神のもとに近づかせるのではないのかと思われるのです。

ですので、サタン・悪魔の存在は決して無いのではなく、絶対に存在することを認識してください。そのことを認識することで、悪くない奴らが成功できるのです。

神に感謝、感謝、感謝です。


悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること 

2013-03-14 21:08:37 | 成功法則

今回はサタン=悪魔は、現実に存在していることを、読者の方々に認識していただくために描いています。

昨年の7月24日に投稿した、悪くない奴らが成功するには、サタンの誘惑を振り切ることの続きとしますので、必要であれば、その記事を読んで見て下さい。

http://blog.goo.ne.jp/queensland2522/e/2807650b55dc097b08042b1cc8e19d10

サタンの起源は、ご存知のように創世記まで遡ります。たびたびこのテーマを描いていますが、悪くない奴らがせいこうするためには、非常に重要な部分なので、創世記を再び読んでみて下さい。

 

唯一の神によって創られた最初の人間(アダムとエバ)が、へび(サタン・悪魔)の誘惑によって、善悪の知識の木(禁断)の実を食べさせたことが、いわゆるサタンの最初の登場なのでした。

そして神に人間は嘘をつき、神との契約を破ってしまった結果、園から追い出されてしまうのです。そのお陰で、以後人間の心は曇ってしまい、人間は自然界の存在から恵みを受けていることを忘れていくようになったのです。そして偶像を作り出して、唯一の神の存在まで否定していく事となったのです。

その後、アダムとエバの間に子孫が出来ます。それがカイン(兄)とアベル(弟)でした。カインは、畑を耕すことで豊作となった食物を神に奉げていたのです。そしてアベルは羊を飼い、一番太った初子を神に奉げ物としていたのです。

 

しかし、神はアベルの奉げ物に対して喜びを示し、カインの奉げ物に対しては目もくれなかったのです。その結果、カインは嫉妬する事となり、ついにアベルを荒野に連れ出し、殺してしまうのです。

そして神はカインに、「アベルはどこにいるのか」と聞かれ、カインは、「私はアベルの番人ではないので、どこに居るのか知りません」と答えたのです。

その結果、どうなったでしょうか?唯一の神は全てを知っているので、嘘を付いたカインを、不な労働と放浪の人生に追いやってしまうのです。

 

ここで、「嘘=嫉妬=サタン・悪魔=罪」の仕業であることを、認識してください。そしてサタン・悪魔が、神の力に対して挑戦しているのです。そしてサタン・悪魔の根源といわれるルシファー(堕落した天使)が神に対しての嫉妬のために、人間を誘惑して神から遠ざけることをするのです。

アダムとエバの子孫である私達人間は、隷属を造ったり、戦争で血を流したりすることで、町や国を築き上げてきたのです。歴史上、戦争が起きるのは、他の国の冨を略奪することで、自分達の富を増やして来た結果なのです。バイブルの世界も現代の社会も何の変わりもない社会 なのです。

エフェソ人への手紙第4章26~27節、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」とあります。

聖徒パウロが、サタン・悪魔に関して「悪魔にすきを与えるな」と言ったのは、サタン・悪魔は、人間の弱みに着目し、その弱みを徹底して衝いてくるからなのです。

さて、バイブルには堕落した天使・ルシファーのことを、ヨハネ黙示録9章 11節で、「底なしの淵の使い」とし、エフェソ人への手紙第2章2節では、「かの空中に勢力を持つ者」、そしてエフェソ人への手紙第6章12節では、「暗闇の世界の支配者」と記されています。

 

イザヤ書14章12節、「暁の子、明けの明星よ。どうして貴方は天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうして貴方は地に切り倒されたのか。貴方は心の中で言った。私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。しかし、貴方はよみに落とされ、穴の底に落とされる」とあります。

神は、ルシファーを天に昇ろうとする高慢さのために、よみに落とした分けです。そのためにルシファーは、神の愛する対象物に対して挑戦をするのです。

カルヴァンの キリスト教綱要の第1編14章より、サタン・悪魔は、最初の創造においては神の使い(天使)であったが、堕落することによって自ら破滅し、他のものを破滅させるための器となった。」と説明しています。

更に、サタン・悪魔をマタイの福音書第13章19節、「悪い者」とし、第1のペテロの手紙第5章8節、「敵」とし、ヨハネの福音書第8章44節、「最初からの人殺し」とし、ヘブライ書第2章14節、「死を司る者」としています。

またサタン・悪魔に関してイエス自身が、ヨハネ福音書14章30節で、「世の支配者」と言っています。更に第2のコリント人への手紙第4章4節では、「この世の神」として、「暗闇の世界の支配者」とまでされています。

 

サタン・悪魔は、常に人間の心理を上手くにくすぐりながら、神から背を向かせようと、神の言葉と人の心理を上手く利用し、欺かさせる、非常に校措なことを平然とやってのけているのです。

イエスもサタン・悪魔の誘惑にさらされるのです。それが「荒野での誘惑」で、マタイ福音書4章とルカ福音書4章に詳しく記されています。是非読んでみてください。

そして病に関してもサタン・悪魔の仕業であることも、認識してください。サタン・悪魔は、健康を奪い取る悪い者でもあるのです。神から離れる毒をまく敵なのです。

お酒は程よく飲むことで、体の健康には良い物とされていますが、飲みすぎると、健康を犯すことと成ります。タバコも同様です。またポルノも同様、肉体をかじっていくのです。ポルノと肉体とは無関係だと思っている人達が沢山居ますが、ところが、このポルノのお陰で、男女関係、夫婦関係、更に友人関係も崩れてしまうことを、認識してください。知らず知らす、サタン・悪魔の誘惑に陥っているのです。

第1のペテロの手紙第5章8節で、「貴方がたの敵であるサタン・悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと捜し回っています。」と言った後、第1のペトロの手紙第5章9節では「信仰にしっかり踏み留まって、サタン・悪魔に抵抗しなさい。」と言っています。

エフェソの人への手紙第6章11節では、「サタン・悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい。とし、第6章第13節でも、「しっかりと立つことができるよ うに、神の武具を身に着けなさい。」と繰り返しています。

更に、第2のコリント人への手紙第2章11節、「サタン・悪魔につけ込まれないよう」とあり、ヤコブ書第4章7節、「神に服従し、サタン・悪魔に反抗」とあります。

敵であるサタン・悪魔は、陰謀と欺きにたけた者で、神の言葉を利用したり、人間の心理の弱点に付け込んで、誘惑してくるのです。そのために、私達は決して怠慢や無気 力に流されることなく、武具を備えてむしろ勇気を奮い起こし、サタン・悪魔の敵に立ち向かわねばならないのです。

第2テモテ人ヘの手紙第3章16節に、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し義に導く訓練をするうえに有益です。」とあります。

エフェソ人への手紙第6章14~16節には、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を楯として取りなさい。」とあり、悪くない奴らが成功するには、バイブルを学び入れる事で、敵と戦うための武具を得る事が出来るのです。

そして、神の教えに従い、実行することです。しかし神に背く者達には、サタン・悪魔の手が伸び、サタン・悪魔の力のなすままになり、最終的に滅びてしまうのです。

 

そしてサタン・悪魔に勝つ事が出来る武具を与えてくれた神に、感謝、感謝、感謝です。


新ローマ法王、フランチェスコ1世

2013-03-13 21:33:21 | 成功法則

私はカトリック教徒ではないのですが、全世界にカトリック教徒(洗礼された信徒)は12億人居るために、私はローマ法王に選ばれる数人の枢機卿を追っていましたが、私が選択した枢機卿達に、ホルヘ・ベルゴリオ枢機卿(76)は含まれていなかったのです。

世界カトリック・データベースの統計では、南アメリカに4億8300万人、ヨーロッパに2億8000万人、アフリカに1億7700万人、アジアに1億3700万人、北アメリカに8500万人、オセアニアに900万人と成っています。

カトリック教徒はバチカンのサンピエトロ大聖堂の庭場に、新ローマ法王を見るために小雨の振る中、15万人ほどの信徒達が詰め掛け、システィン・チャペルの屋根の煙突から白い煙が出るのを待ち受けていたのです。

そしてシスティン・チャペルの屋根の煙突から白い煙が出たのです。

そしてベルゴリオ枢機卿が、「フランチェスコ1世」を名乗り、バチカンにあるサンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せたのです。

コンクラーベは12日から始まり、2日目の13日にベルゴリオ枢機卿が選出されるまで、5回の投票が行われたそうです。

ベルゴリオ枢機卿は、ブエノスアイレスでイタリアからの移民の家庭に生まれ、貧困層の代弁者として知られていました。大司教時代も公邸ではなく集合住宅に住んで、運転手付きのリムジンは使わずにバスで通勤したそうです。そして食事は自分で調理していたとの事です。

またベルゴリオ枢機卿は率直な人物として知られ、カトリック教会の中で最も保守性の強い派に属していおり、聖職者による性的虐待、教会関係者の汚職、バチカン銀行が絡むスキャンダルといった難題に取り組んできました。そしてカトリック教会の再建をすると見られています。

 


悪くない奴らが成功するには、律法と信仰の違いを理解すること

2013-03-13 21:00:23 | 成功法則

さて、黄金律(ゴールデンルール)を前回少し紹介しましたが、すでに色々な学者、牧師、神父、キリスト教信者によってこのテーマは語られていますので、私なりに「律法」そして「信仰」に関して書き出していきます。

さて、「律法」とは何なのでしょうか?

 

それは、「神が、我々人間に与えた教えと戒め」なのです。そして一方的な契約ではなく、神と人間の双方関係の契約なのです。そして律法は動物と違って人間として生きていくために作られたのです。そして人間がこの約束事を守れば、唯一の神は、私達を祝福してくれるのです。

では、「大3律法」を紹介しましょう。

1)「道徳律法」は、人間の内面についての定めです。神がモーセに十戒を渡しました。これが道徳律法の基本と言えるでしょう。

2)「祭儀律法」は、神の礼拝のための定めです。礼拝の形式、祭司の制度、祭りや安息日についての規定です。バイブルには、過ぎ越しの祭り、五旬節、仮庵の祭りがあります。

3)「社会生活全般律法」は、民法、刑法、婚姻、教育、衛生などの規定です。

それでは、「信仰」とは一体何なのでしょうか?

 

それは、簡単に約すと「唯一の神を信じて行動すること」なのです。まずは信仰の父とされるアブラハムと唯一の神に関して見てみましょう。

創世記12章1~3節、「貴方は、貴方が生まれた故郷、貴方の父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。そうすれば、私は貴方を大いなる国民とし、貴方を祝福し、貴方の名を大いなる者としょう。貴方の名は祝福となる。貴方を祝福する者を私は祝福し、貴方を呪う者を私は呪う。地上の全ての民族は、貴方によって祝福される。」とあります。

このように唯一の神の「3大祝福」を紹介しましょう。

1)子孫繁栄の祝福(アブラハムの子孫は、海辺の砂のように増える)、

2)土地の祝福(カナンの土地を与える)、

3)恵みの祝福(救いを与える)とアブラハムに、3つの祝福の約束(契約)をしているのです。

神が与えてくれた約束を元にアブラハムは、何も逆らわずたた唯一の神を信じ、従うのです。そのためにアブラハムは、「信仰の父」と言われたのですが、この信仰のお陰で、アブラハムの家族は、試練をさせられるのです。

唯一の神は、アブラハムに対して長年住み慣れた地を離れ、知らない地へ行くこと命令し、神の約束の地(カナン)へ向かったのです。そしてアブラハムの家族の一行は、カナンの地に向かいます。しかし、その土地で、アブラハムと甥のロトの家族とが繁栄し過ぎた為に、土地問題が起こるのです。

 

アブラハムは肥沃なソドムとゴモラの土地を甥のロトに与え、アブラハム自身は不毛な地を選んだのです。その結果、神はロトに対して試練を与えるのです。それは退廃の町と化したソドムとゴモラを、神は破壊させるのです。その時にロトと2人の娘は助かるのですが、ロトの妻は後ろを振り返ったため、塩の柱に変えられてしまったのです。

その後、アブラハムの妻サラは、神の約束どおりの子供が出来なかったために、サラは侍女ハガルにアブラハムとの子を生まさせるのです。その子がイシマエル(主は聞き入れる)で、アラブの先祖となっています。しかし、神が約束した子孫とは、養子による子孫(イシマエル)でなく、アブラハムの実子による子孫なのです。 

そして神はアブラハムに、約束通りサラに身ごもさせるのです。そして神はその子の名前を、イサク(彼は笑う)と命名させたのです。そして神の約束した子でないイシマルと侍女ハガルは、砂漠に追いやられますが、神はハガルに対しても、子孫を繁栄させることを約束しています。それがアラブ人達なのです。

 

さて「信仰」の本題に入ります。 

神の試練は更に続きます。アブラハムの子イサクをモリヤの地で、神の燔祭の儀式にイサクを捧げさせることを告げるのです。そしてアブラハムは、神の意向によってイサクを生贄にさせることを実行するのです。父親として可愛い子供を生贄にすることは、悲しみに耐えられる事が出来ない、信じられない出来事だったのです。生贄は、儀式の律法から発生しています。バイブルには以下の記載があります。 

ヘブル書第11章17節、「信仰によってアブラハムは試みられた時、イサクを奉げました。」と、そして

ヘブル書第11章19節、「彼は、神は人を死の中から甦ることも出来ると考えました。」とあります。 

しかし神は、イサクの上に刃物を振り上げた瞬間、天使を送り、その行為を止めたのでした。アブラハムが周囲を見回したところ、茂みに角を絡ませた雄羊がいたので、彼はそれをイサクの代わりに生贄としたのです。

 

アブラハムは、唯一の神を信じること、そしてその神に従順であることを、私達に示したのです。これが「信仰」であり、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれていることなのです。

さて新約では、「信仰」がどのように表現されているのでしょうか? 

聖徒パウロは、生涯イエスに出会ったことは有りませんでした。しかし聖徒パウロの信仰心によって、世界にキリスト教を広めていったのです。 

聖徒パウロは、律法と信仰に関してガラテアの信徒に送った手紙に記載しています。それは、イエスの12使徒の一人である聖徒ペテロが、福音の真理に基づき歩いていないことを非難する手紙なのです。 

ガラテア人への手紙2章15~21節、「私達は生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もし私達が、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、私は自分が違犯者であると証明することになります。私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。私は、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」と記されています。

聖徒パウロが証明した福音の真理とは、律法を通してではなく、イエス・キリストを信じる「信仰」を通してだけ、ユダヤ人にも異邦人にも救い、即ち、人間が罪から開放されるというのです。 

イエス・キリストを信じて義とされるときに人間は、神に対しては生きた者とされ、即ち救いの恵みが与えられりことであり、「律法」によって義とされる生き方を、完全に断ち切ることなのです。 

そのことによって、信じる者は希望を持って喜ぶべきであり、全ての人間が罪によって神から離れたように、イエス・キリストの償い(十字架で血を流す)によって、全ての人間の罪が許されるのです。

ご存知のように、罪は、サタンの誘惑に乗ったエバ、そして、エバを信じたアダムが神に嘘を付いたことから発生していることです。このことをはっきり認識してください。

 

ですので神を信じて、感謝、感謝、感謝です。