†意識の記録† 理解のブログ

私の私の視点による私の経験の記録。私の視点で見る限り誤りのない認識で記事を書いている。一切の苦情は受け付けない。

存在とは何か2

2006-05-09 22:09:59 | Diary

テーマ:想像による存在仮定

前回、想像上の存在は、定義された存在とは異なると書いた。

今回は、もう少し複雑な話になる。
先ず、視点を自己論理体にして話を進める。
さらに、簡略化の為に、貴方を自己論理体とする。

貴方が、今何かを想像する。
例えば、“友達A”を想像する。
このAが、貴方を撫でる仕草を想像したとする。
この時、貴方が喜んだならば、(所謂、自己満足だ。)
貴方は、Aの存在を仮定したと考える。
つまり、貴方にとってAは存在している。
貴方にとって存在しているAが、動作をするのは貴方にとって問題ない。
ここまで理解して欲しい。

動作をするのは存在している事の証明になってしまう。
しかし、Aは存在とは異なる。
このAを仮存(かそん)する論理体と言う。

仮存論理体は、必ず非仮存論理体により想像されている。
仮存論理体は、非自己論理体の一種である。

実際には、Aは存在していない。
これは、貴方が“仮存論理体「友達A」に撫でられる”という動作を行ったと見る。

ある論理体が、仮存論理体であるか否かを見分けることは出来ない。
しかし、それを見分ける必要はない。

この世は、自己論理体と非自己論理体によって形成されている。
よって、ある論理体が自己か非自己かを見分ける事さえ出来れば、一切問題は無い。
他が全て仮存論理体であっても、自己論理体にはどうでも良い事なのである。

言うなれば、その論理体の存在を、自己論理体が信じるか否かなのだ。
これを、存在の信用と言う。
実は、この世はほぼ全てがこの信用による。
自分以外のもの、例えば友達だとか、PCだとか、この文章だとかは、
存在を信用するしかない。

自己論理体とは、何かしら形作られたものではない。
決して、貴方の体や脳を示すものではない。
体や脳ですら、非自己論理体だ。
言うなれば、自己論理体=意識である。

動作も、それが仮存であるか否か判断する事は出来ない。

ここまで言ってしまうと、何もかもがどうでもいい気になるかもしれない。
それは間違っている。
私は、全てが存在しないと言っているわけではない。

例えば、貴方が存在している事は、貴方の生死に左右されない。
時間の概念で考えれば、貴方が存在している期間に、
貴方が生きている期間や死後忘れ去られるまでの期間が含まれているのである。
貴方が死んで、貴方の意識が消えるかどうかは分からないが、
論理体は増えることも無ければ、減ることも無いのである。
どのような論理体を書こうと、無限にあるであろう論理体の一例を示しているに過ぎない。
我々が完全理解出来る範囲は、一切存在しない。
我々にとっては、たった一つの論理体でさえ、それも存在という一つのパラメータでさえ、
EXI=OBS:all;
不明瞭なものなのである。

以上

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