テーマ:自分の存在
先ず、「存在」の意味を明確にしよう。
論理構造式SA記法で言えば、EXI=true:then;である事。
動作を行う事が出来る論理体は存在している。(関数を実行できるという意味ではない。)
以前、貴方が存在している事は証明した。
ただし、「貴方が文章を読んだ」事が条件である。
貴方が文章を読んだなら、
動作を行った、つまり貴方が存在しているとわかる。
存在していなくても、動作を行うことがあるのであれば、
この証明は崩れることになるだろうか。
先ず、誰の視点から見て存在しているのか。
そこに疑問を持っていただきたい。
この文章を書いているのは紛れも無い私であり、
私が文章を書くという動作を行って作り出したからには、
この文章が確かに存在していると仮定すれば、
文章が書かれた瞬間、又は期間には、
私が存在していたとわかる。
しかし、このある瞬間における私の存在は、
この文章の存在には必須の条件であろうが、
貴方が今、この文章を読む動作を行う上で、
必ず必要なものだと言えるだろうか。
私がある瞬間に存在していたから、貴方がこの文章を読む動作を行えるのだろうか。
この文章を読むという行為のみを考えるのであれば、
この文章が、存在している必要は無い。
首を傾げた方も居るかもしれないが、
貴方は想像上の本を読む、つまりは想像する事は出来ないだろうか。
出来ると私が言い切る事は出来ないが、出来るであろうと仮定する。
つまり、貴方が想像するその本の中に、この文章があって、
それを貴方が読むとき、「私がこの文章を書いた」は、単なる貴方の想像かもしれない。
この時、貴方が想像するその文章自体は貴方が作ったものであるが、
貴方の想像上は、私が書いたことになっている。
もし、ここで私が存在していない、つまり想像が変わって、
単なる貴方が想像する文章と認識が変わったとしても、
文章の内容が変わらない限り、想像上の私の存在に関係が無く、
貴方は、この文章を読むことが出来ると言える。
ここで想像上の存在(私)は、存在している論理体(貴方)に影響を与えていない。
つまり、想像上の存在は、上記で明確にされた存在とは異なる。
よって、貴方の想像する文章も存在とは異なる。
これで分かったであろうが、動作主は存在していなければならない(仮定)が、
被動作主は存在していなくても問題ない。
ここで、貴方がこの文章が存在している事が証明したくなり、
例えば友達に見せたとする。
友達がこの文章を、貴方を介さずに読む(論理体の非仲介作用or直接作用)事が出来た時、
この文章は、貴方の想像ではなくて、実際に存在していると証明出来そうな気がする。
しかし、それはその友達が存在している事が条件だ。
その友達が、貴方の想像でないと証明する事は、
この文章が、貴方の想像でないと証明する事と等価である。
つまり、その友達の存在を証明する友達も又、存在を証明しなければならない。
どこまで行ってもキリがない。
これを、“非自己論理体”の“存在証明”は“不能”であると言う。
つまり、存在しているかどうかは、自分自身に関して以外分からないと言う事だ。
全ての世界が貴方の想像ではないと証明する事は出来ない。
これまでの議論で、薄々感付いた読者もいるかもしれないが、
自己論理体の存在は、その自己論理体にとってのみ存在する。
簡単に言えば、自分にとっては自分が存在している。
証明するならば、自分が存在していると考える事は、自分に対して行うわけである。
この行うというのは、動作であるから、自分は存在している。
“自分が存在していない”場合でも、“自分は存在している”事になるが、
“自分が存在している”場合でも、“自分は存在している”ので、問題ない。
(どの場合にもそうである時、“恒常的”or“不変”であると言う。)
定理:自己論理体は、常に存在(EXI=true:all;)している。
定理:非自己論理体の存在は、不明瞭(EXI=OBS:all;)である。
自己非自己存在議論(上記の議論)に於いては、先の二つの定理により決着された。
自己非自己で考える場合、存在は常に自己論理体を視点とする。
そろそろ結論せねばなるまい。
結論:自分にとって自分は存在しているが、他が存在しているかどうかは絶対に分からない。
論理構造式SA記法で言えば、EXI=true:then;である事。
動作を行う事が出来る論理体は存在している。(関数を実行できるという意味ではない。)
以前、貴方が存在している事は証明した。
ただし、「貴方が文章を読んだ」事が条件である。
貴方が文章を読んだなら、
動作を行った、つまり貴方が存在しているとわかる。
存在していなくても、動作を行うことがあるのであれば、
この証明は崩れることになるだろうか。
先ず、誰の視点から見て存在しているのか。
そこに疑問を持っていただきたい。
この文章を書いているのは紛れも無い私であり、
私が文章を書くという動作を行って作り出したからには、
この文章が確かに存在していると仮定すれば、
文章が書かれた瞬間、又は期間には、
私が存在していたとわかる。
しかし、このある瞬間における私の存在は、
この文章の存在には必須の条件であろうが、
貴方が今、この文章を読む動作を行う上で、
必ず必要なものだと言えるだろうか。
私がある瞬間に存在していたから、貴方がこの文章を読む動作を行えるのだろうか。
この文章を読むという行為のみを考えるのであれば、
この文章が、存在している必要は無い。
首を傾げた方も居るかもしれないが、
貴方は想像上の本を読む、つまりは想像する事は出来ないだろうか。
出来ると私が言い切る事は出来ないが、出来るであろうと仮定する。
つまり、貴方が想像するその本の中に、この文章があって、
それを貴方が読むとき、「私がこの文章を書いた」は、単なる貴方の想像かもしれない。
この時、貴方が想像するその文章自体は貴方が作ったものであるが、
貴方の想像上は、私が書いたことになっている。
もし、ここで私が存在していない、つまり想像が変わって、
単なる貴方が想像する文章と認識が変わったとしても、
文章の内容が変わらない限り、想像上の私の存在に関係が無く、
貴方は、この文章を読むことが出来ると言える。
ここで想像上の存在(私)は、存在している論理体(貴方)に影響を与えていない。
つまり、想像上の存在は、上記で明確にされた存在とは異なる。
よって、貴方の想像する文章も存在とは異なる。
これで分かったであろうが、動作主は存在していなければならない(仮定)が、
被動作主は存在していなくても問題ない。
ここで、貴方がこの文章が存在している事が証明したくなり、
例えば友達に見せたとする。
友達がこの文章を、貴方を介さずに読む(論理体の非仲介作用or直接作用)事が出来た時、
この文章は、貴方の想像ではなくて、実際に存在していると証明出来そうな気がする。
しかし、それはその友達が存在している事が条件だ。
その友達が、貴方の想像でないと証明する事は、
この文章が、貴方の想像でないと証明する事と等価である。
つまり、その友達の存在を証明する友達も又、存在を証明しなければならない。
どこまで行ってもキリがない。
これを、“非自己論理体”の“存在証明”は“不能”であると言う。
つまり、存在しているかどうかは、自分自身に関して以外分からないと言う事だ。
全ての世界が貴方の想像ではないと証明する事は出来ない。
これまでの議論で、薄々感付いた読者もいるかもしれないが、
自己論理体の存在は、その自己論理体にとってのみ存在する。
簡単に言えば、自分にとっては自分が存在している。
証明するならば、自分が存在していると考える事は、自分に対して行うわけである。
この行うというのは、動作であるから、自分は存在している。
“自分が存在していない”場合でも、“自分は存在している”事になるが、
“自分が存在している”場合でも、“自分は存在している”ので、問題ない。
(どの場合にもそうである時、“恒常的”or“不変”であると言う。)
定理:自己論理体は、常に存在(EXI=true:all;)している。
定理:非自己論理体の存在は、不明瞭(EXI=OBS:all;)である。
自己非自己存在議論(上記の議論)に於いては、先の二つの定理により決着された。
自己非自己で考える場合、存在は常に自己論理体を視点とする。
そろそろ結論せねばなるまい。
結論:自分にとって自分は存在しているが、他が存在しているかどうかは絶対に分からない。
以上