2024.9.22お彼岸布教 正信念仏偈の学び NO3
法蔵菩薩因位時 ほうぞうぼさついんにじ 在世自在王仏所 ざいせじざいおうぶっしょ(浄土真宗聖典 注釈版203頁)
ほうぞうびくのいにしえにせじざいこうのみもとにて しょぶつじょうどのもとたずね ひとのよしあしみそなわし すぐれしがんをたてたまい まれなるちかいおこします
お彼岸のお参りにようこそお越しくださいました。私は岩淵幸治と申します。現在52歳僧侶にならせていただき21年が過ぎあっという間です。私がこれまで見たり聞いたり学んだことをお話しします。休憩をはさみまして3時頃には終わります。質問など聞きたいことなどございましたら、その都度お声かけて下さってもいいので、よろしくお付き合いください。
お昼時、日頃のお疲れもあることでしょう。お眠りいただいて構いません。私は車の運転は好きな方です。車を運転していますと、道路から外れることなく、ブレーキアクセルの操作をやさしくすることで、家族や同乗者が心地よく眠ってくれるような、そんな運転が安全と言われます。それと同じように、お念仏の道をはずれることなく、正しいみ教えをお伝えすることを心がけてお話します。難しいなあ・・・。と思う話を聞くと私は眠くなります。どうぞごゆっくりお眠りいただければと思います。
暑い夏もおわって、過ごしやすくなってきました。数年前までは、この北海道ではエアコンはいらないなんていわれておりましたが、この数年の温暖化の影響でしょうか。エアコンなしでは健康を保てない北海道になりつつあると思います。たくさんのお宅にお参りに伺って、エアコンの設置しているお宅がとても増えたと感じています。電気もたくさん使用して、地球温暖化というよりは今は沸騰化と言われ、それに協力しています。今年も災害が多くあり、それに伴う生活の不安。南海トラフ大地震への注意情報で、大変なことが起こるかもしれないという不安感からのお米の買いだめの影響で、値段が上がっているようです。しかも、テレビや新聞では毎日おこる、詐欺事件、裏金事件、あらゆる不正、殺人事件に交通事故、ミサイルが飛んできたり、パワハラ、セクハラ、虐待事件など、いろいろな事実が起こっています。これらは、あってはならないことなのですが、私達は様々な環境の中で育てられるということがありますので、もしかすると周りの環境や、条件がととのったら、どのような事件も起こしかねない、危ない心がある私であると聞かせていただけます。本堂でのお参り、納骨堂へ出向いてこられてのお参り。お仏壇でのお参り。するたびに、私は、世の中がどんなに変わっても、変わることがないはたらきに支えられて生きているんだなあ。なんて思うのです。仏さまの教えは、気をつけてくれよ、あんたは仏さまに成って往くいのちだから、その自覚のもとに生きていっておくれよ。と私の危ない心にブレーキをかけて下さっています。
今年3月のお彼岸の時にから、私の中では先ほど、皆さんで拝読しました親鸞聖人が「なんまんだぶつ」の救いのはたらきを説きしめしたお経をもとにしてお作りになられた正信念仏偈を少しずつ味わっています。その時は最初の2行、k今年3月のお彼岸の時にから、私の中では先ほど、皆さんで拝読しました親鸞聖人が「なんまんだぶつ」の救いのはたらきを説きしめしたお経をもとにしてお作りになられた正信念仏偈を少しずつ味わっています。その時は最初の2行、帰命無量寿如来、南無不可思議光。を味わいましたので、今回はそのつぎの、法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所。を中心に味わいます。お経本ある方は5ページをご確認ください。3行目から下の段を言いますと、「ほうぞうびくのいにしえに、せじざいおうのみもとにて」とあり、南無阿弥陀仏が法蔵菩薩の位の時に世自在王仏のもとで、お説法を聞き、自在にいのちを救う活動に感動し、私も世自在王仏のように成りたい、あのようになりたいと、大いなる願いを起こされたのです。
そして、今日の話のテーマは「守って下さるいのち」と題しました。いつだれがどのように何を守ってくださるというのか、そのことも念頭にいれながら話を進めていきたいと思います。
「まもる」と聞いて何を思い浮かべますか。
自分をまもる。いのちを守る。生活や暮らしを守る。規則を守る。とか法律を守る。家を守る。お寺を守る。などあります。スポーツの野球で言えば「まもる」とは、攻撃ではなくて、守備のほうです。エラーがあると、負ける可能性が高くなり、エラーのない硬い守りが攻撃にリズムを与える。などと言われます。ですから相手の攻撃を受けて、たくさん打たれても、できるだけ点数を与えないように守るのです。
地震や台風、大雨の災害が起きてもおかしくない時に、テレビなどで、自分のいのちをまもる行動をして下さい。などと何度も何度も知らせます。暗くなってから避難するのは危険な場合は、できる限り、がけ崩れしそうなところでは、がけの反対側、できれば2階の高い位置に避難するよう、呼びかかられることがあります。
生活を守るとか、暮らしを守るという言葉はよく、政治家さんや政党のポスターなどで見聞きするような言葉です。裏金問題がある中で自民党総裁選挙があって、その後に、次期総理大臣を決めるような選挙があるのでしょう。
規則を守るのは、学校や職場などの決まり事を守っていくこと。私が中学生の入学では校則で男子は丸刈りでした。いやだったー。というものの、そんな私は今、丸刈りなのです。人生わからないものですね。
法律を守るとは、最近のある県での知事のパワハラなどで問題になっています。その知事が法律を守っているのだから、何の問題ないと考えている。などと発言していますが、ギリギリのところで、生きているようです。
お寺をお寺を守るのは、よく、お寺の護持発展にご協力いただきありがとうございます。などという文言にも使われています。お寺は多くの門信徒の皆様がたによって、維持されて護られていると言えるのです。
お寺の住職さんの奥さまの呼び名があります。そうです坊守さんです。坊さんを守る。と書いて坊守です。今、福住寺さんには坊守さんと若坊守さんがいるのです。坊を守るとは、お坊さんである住職や副住職の補佐をする意味もあるのでしょうけれど、坊すなわちお寺を意味します。自分の自に坊と書いて、自坊とお寺さん用語ではよく使用します。自坊とは、自分のお寺のことを意味しています。その他、お寺の呼び名で何々坊とかと、お宿のことで宿坊などとも使われ方もします。坊守すなわち坊であるお寺を守る。陰ながらそのお寺のあらゆることがスムーズに円滑にことが進んでいくように守っているのです。そのような役割のことをさしているのです。皆様方の家もそうかもしれません。男性よりは女性のかたが、陰ながらその家を支えて守っているといっても言い過ぎではないでしょう。うんうんとうなずかれている方もしますので、そうだそうだという声が聞こえてきそうです。
聞く
聞くということを大切にしていますが、聞き方にもいろいろあります。先生の話をよく聞きなさい。と怒られたり。また、親の言うことを聞きなさい。などと言われたりするものです。人間とのお付き合いの中で、この人の話なら聞きたいと思う。とか、この人の話は聞きたくない。なんていうこともあるでしょう。話を聞くということは、本当かなあ、などと、どこか疑いを持って聞いてみたり、ほとんど聞いていなかったり。することもあるのです。ボヤーっとしている人でもちゃんと聞いている人もあれば、聞いているように見えるけれど、実は何にも聞いていない。うんうんと聞いているその態度で、いい加減に聞いているなどということもあります。話す相手の顔を見ただけではわからないものです。
連れ合いとは毎日話します。私だったら、あんなことあった、こんなことあったなど、お寺であったことなどを中心に話しますし、連れ合いは北広島エスコンフィールド近くの福祉施設のお弁当作りの仕事をしていますので、沢山の人と同じ職場で働いて、人間関係のことなど、あの人の事、この人の事などいい人もいればそうでない人もいるので、言いたいことがたくさんあるので、お互いに聞き合っています。
女性の脳と男性の脳には違いがあると聞いたことがあります。女性は、こんなことがあったと事細かく説明をしてくれるのですが、男性の脳は、早く結論が知りたいのです。そしてどうなった。結局どうなったと。しかし、連れ合いの話が長くなってくると、聞いているのに聞いていない時もあるのです。聞く耳持たず上の空、などという事です。そういうのが姿や態度でわかっちゃうこともあるでしょう。様々なストレス社会、誰かに話を聞いてもらうだけでも、ストレス解消になったり、心が軽くなることがあるのです。
お経を読むことやお話をから、何を聞くのかと言いますと、仏さまの言うことを聞くのです。仏さまが何をどのようにおっしゃっているのか。そのお心、願いである、本願が、救われがたい私のために起こされたいわれを聞かせていただくものです。ですから、仏さまがすべてのいのちを救う。と聞こえた時には、皆さまおひとりおひとり、私のことだと思って、自分の事を言っているのだと思って聞いていただきたいのです。
皆様方には、お父さまやお母さまを亡くされ方もいるでしょう。ご主人様や奥さまを亡くされたかた方もいるでしょう。叔父さんや叔母さんを亡くされたかたもいるでしょう。また、子供さんやお孫さんを亡くされた方もいるでしょう。先日も、あるご門徒様の息子さまが亡くなられました。定年を控えて、農業機械である、トラクターの運転操作などを教えて、自分の跡を継いでもらう準備をしていた、そんな矢先の悲しい出来事でしたと、何度も私に話して下さいました。子供さんを亡くすのは、いくつになろうがとても悲しいことです。多くのいのちが、悲しい寂しいご縁が私にこの仏法に出遇わせることにつながり、「なんまんだぶつ」とお念仏申し手を合わせ頭を下げる、阿弥陀仏の浄土の世界、お彼岸へ生まれて往かれたことを偲んで、この世に残されている私たちもまた、同じ道を歩ませていただくものでございます。すべてのいのちが仏さまに見守られながら生きていける。そして、死んで終いの人生ではないということです。
最近では、家族葬とか、一日葬とか、直接火葬場へ行く、直送など、人生の終わりにいろいろな送り方があり、高齢化とコロナ禍も手づだってか、縮小傾向にあります。先日、お参り先の奥さまは、関東に住んでいてお姉さまが83歳で亡くなられたそうです。その息子さんから連絡が来たので、葬儀に関東まで出向いて行こうかと思ったのだけれど、ご遺体は5日ほど混雑で火葬ができない。その都合や葬儀屋さんからの助言で、家族のみの葬儀なので参列はしないでほしいと言われ、香典やお花を送りました。一緒に育ってきた姉にお礼を申し見送ることができず、さみしいことです。その時間には自宅のお仏壇でお参りしましたと、言っておられました。
僧侶がお通夜の席でたくさんの人を前で読経し法話をすることは、何よりも、先立たれた方をご縁に、仏の法にであい伝える大切な場であるのです。しかし、そういう場が少なくなってしまっている状態は、日本全国のことと思われますから、人が亡くなり、僧侶が読経すること、お話をすることを知らない、わからない、伝わっていかないことになりかねません。
人が生きていくうえで、なにか大きなはたらきにいつでも見守られている。などと受け止めて、どこか心にブレーキみたいなものを感じ取る機会が減った人間が増えていくのではないか。コロナ禍以前、お通夜の席で、多くの人が僧侶の読経や法話を長い時間聞いていたことも、もしかすると大事な時間だったのではないかと思うのです。
死してもなお、支えてもらってつながり合えるのです。私たち人間は、限りある世界に生きていますので、私は昭和46年1971年に生まれて、来月13日で満53歳になり、この先何年何十年生きるかわかりませんが、病気なのか、事故なのか、老衰なのかわかりませんが、いつのひか、この世のいのちを終えて往きます。生まれて死ぬ限りのあるいのちなのです。目に見えるものは全て限りがあります。反対に、限定できにくいのが、光りとか、いのちとか、空気とか、電気とか、思いやり、やさしさなど、目に見えにくいもの、見えないものものにこそ大切なものがあるといえるのです。
限定した世の中、生まれて死ぬとしか考えられない私ではありますが、今ここで、如来より賜りたる信心をいただくのです。その狭い考え方をまるごと包み込むような、死んだ先の向こう側をみと見通すような広い視野をもたせてくれて、その先に、仏さまの世界へ生まれていくことの決まった人生があるんだよ。と、大切なお約束を守ってくれます。
もしかして認知症になって、なんまんだぶつを忘れてしまっても、交通事故や災害などで「なんまんだぶつ」言えないまま亡くなっても、それはなんの問題にはならない。というのです。この教えを聞かせてかせていただくご縁を賜ったということで、この世のいのちが終えても心配いらない、すなわち、ああ、今、まにあってよかったね。と言えるものでございます。どのようないのちも、いのちある限り精一杯に大切にいきていけるのです。なぜなら、尊い仏さま、大切な仏さまが、全てのいのちに願いをかけて下さっているからこそ、私のいのちは尊い、大事ものだと言えるのです。
皆様、ご自宅にお米はありますか。私の実家は農家です。太陽の光をいっぱいに受けて、肥料や水、温度に湿度、あらゆる因縁がととのって、農作物がスクスクと成長することもあるし、そうならない時もあります。いい時もあればそうでない時もある。限界がある世の中には不安定なことばかりなのです。
物価の上昇、とくにお米が品薄になって、近所のスーパーでは売り切れ。などという問題が起きたところです。地震や台風などの大きな災害が起きるかもしれないということで、自宅にお米のたくわえをしようとして、買いだめをすることで、コメの品薄状態がおこり、結果、需要と供給のバランスが崩れて値段の上昇を招いたのでしょう。
平成5年、30年程前に、平成の米騒動などということがあり、大変な冷害での大不作、そこでタイ米や外国米を輸入したこともありました。今回はそういうことではないので、それほど問題視されていないようです。
実家では9月10日に稲刈りが始まりました。9月中のお米の出荷には一俵60キロあたり3000円ほどをプラスすると集荷するホクレンさんの発表があったそうです。肥料や資材、機械代などの高騰も受けている農業、丹精込めて作った農作物をなるべく高く売りたいという生産者の気持ちがあるのと同時に、消費者の側の多くの人は、できるだけ美味しいお米を安く買いたいという心理がはたらくのでしょう。みんな自己を中心とした気持ちで生きています。買いだめして、他の人が困ることになってもそんなの知らない、自分勝手に生きているのです。そこまで考えが及ばない、心に余裕のない生活をしていると言えるのではないでしょうか。
先日、空知方面の道の駅へ行きましたら、新米も販売しており、並んでいました。5キロ3000円ほど、その隣に、令和5年産昨年の古米がたくさん積まれてありました。その店ではお米不足を感じるようなことはありませんでした。みんな、古米には見向きもしなくなるのかもしれません。お米の値上がりは続くようなことを聞きます。あるお米屋さんにお米の仕入れは出来ますかと聞きましたら、仕入れ先からお米がないというのです。収穫の始まった農家から直接購入はしていないのですか。と尋ねましたら、高値ですからですから、業者さんによっては、農家へ出向いてそれなりの値段で仕入れ、高く売り儲けをだす。そんなことをする業者もいますが、それをやられるとこまります。適正な値段で仕入れて、適正な価格でお客さんに提供するのです。それをしています。と。お金儲けだけじゃないということなんだなあ。と感心させられました。
多くの農家は、春先に借金をして、肥料を買い、農業資材費をかけて、手間暇かけて、作物を育てます。水や追肥をしたり、病気がまん延して収穫できないことにはしたくない。害虫に食べられて収穫できない状態にならないように、高価な農薬を使用します。そうかと思えば、台風や長雨で、地盤がゆるみ、成長した稲の頭の重たくなった穂で倒伏、倒れることがあるのです。春先の肥料が多いとか、今年みたいに湿度が高いと、ひょろーって丈夫に伸びずに、倒れやすく成長することもあるでしょう。そうなると、収穫前に倒れた稲を刈り取る作業は、収穫の時間がかかるのです。モミの状態で収穫し、乾燥機で乾燥させ、籾摺り機で、殻を外して玄米にします。熟し切れていない青米などが多いと等級が下がり値段も安くなる。こうして出来秋に収穫し出荷することで、ようやく収入が入ってくるのです。それで間に合えばいいけれど、経営が赤字になることもあって、不安定の中にあるのです。
「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」ということわざがあります。私達人間は自ら努力して経験を積み、知識を蓄え頑張るのですが、それがうまくいくと、自分の力で生きていけると思い、大きな態度になります。また、自分の言うことが正しくて、他の人が間違っているなどと思い込んでしまいます。自分の力で生きていると思っているので、仏さまのことなどに見向きもせず、自分の姿を正しく見ることができなくなり、おのずと頭が上がって言葉遣いも変わってくるのです。
「実ほど頭を垂れる稲穂かな」この言葉の意味は、「ことわざ大辞典」によりますと、「稲の穂は実が入ると重くなって垂れ下がってくる。学問や徳行が深まるにつれ、その人柄や行為がかえって謙虚になることのたとえ」とあります。頑張って身につけた知識、学問、教養が本当に深まり、身についてくると、おのずと人格も形成され、周囲に対し「お陰様で」と謙虚になり、思いやりの心を持って接することができるようになります。この「深まり」こそが仏の知恵の働きかけであり、「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、すぐ思い上がり、自惚れてしまう私たちに、そうした自分の姿になってないか問いかけてくれる言葉ではないでしょうか。まさに、仏法にであった念仏者の姿ともいうべきものなのです。我が身を振り返ることを教えてくれる言葉なのです。
お浄土って本当にあるのですか?と昔ある和上さん、ある先生に生徒が問いかけると、「あるわい」と答え、「それなら私にそのお浄土をみせていただけますか」と再び問うと、「目ん玉入れ替えてこい」と答えたという、おもしろい言い伝えがあるとお聞きしました。
目ん玉入れ替えるってどういうことですか。と聞くと、仏さまのさとりの智慧に開かれた目、煩悩という色眼鏡でものを見ているその誤ったものの見方ではお浄土は見えない。仏さまの智慧の光によって転換された目ん玉によって、お浄土は見えるのだ。と先生がおっしゃったというのです。
さらに、浄土真宗をひらかれた親鸞さまに「お浄土って本当にあるのですか」と尋ねたら、きっと「本当にあると言えるのはお浄土だけだろうなあ」と答える。と言うのです。では、この世は何なのですか。「ゆめまぼろしのごとし」とお答えになるのではないか、という話も聞かせていただきました。
先ほども申し上げましたが、法蔵菩薩いんにの時、世自在王仏のみもとにでむき、世自在王という仏さまのところに教えを聞きにいき、大きな感動を受けました。自分もこのような仏さまに成りたい、自分もすべての人間を救いたい守りたいという、願いをおこされたのです。
あなたのようになりたい。あの人のようになりたいものだ。と思ったことはないでしょうか。と思わせることがあるのです。私は雅楽を始めて20年ほどです。管楽器の一番大きな音の出る、主旋律を奏でるその音色に魅力を感じて篳篥を学び始めたのです。吹く姿は、真っ赤な顔してほっぺたを大きく膨らませて、正面から見られるのは恥ずかしいほどのものです。それでも、その後の演奏会で、他の人の舞う、舞楽蘭陵王を見ながら演奏する機会がありました。色鮮やかな装束とお面を身に着け、ひとり舞台の上で華麗に舞う。「わあ、かっこいい。私もやってみたい。あの人と同じようになりたい」」と思いました。「あんたは背も高くて装束をつけたらえるから、舞をやってみなさい」という助言もあって、舞楽を学び始めたのです。動画を何回も何回も繰り返し見て、動作を覚え、頭と体に叩き込み。演奏も頭に入っていないと舞えません。指導を受けながら、何か月かかけて覚えて、その後、数回、皆様の前で披露することができました。その中で、私が装束お面を身につけて舞う姿を見た別の人が「かっこいい。俺もやってみたい」なんていう方がいて、その方は現在では、舞楽なそりと、げんじょう楽という舞を2つ披露するまでに、ご活躍されていらっしゃる方もいるのです。あの人のようになりたい。私もそうなりたい。ということで伝わっていくことがあるのです。
「私もあの修行者のようになりたい」思うことが、お釈迦様の出家の動機にもあります。4つの門を出て遊ぶと書いて、4門出遊とは、家来を連れて、お城の東西南北4つの門から出かけることにしました。はじめに東門から出かけると、腰は曲がり足元はおぼつかない、ヨボヨボの老人に出会いました。
またある時、南門から出かけると、道端に倒れている病人で出会いました。次に西門から出かけると、今度はお葬式に遭遇しました。どんな人間も結局最後は、老い、病にかかり、死んでいくのか。だとすると、人間は何のために生まれるのか。私のように贅沢三昧、楽しいことばかりを追いかける人生ではなく、本当の意味で幸せになるにはどうすればいいのか。王子様は思い悩み、最後に北門から出かけます。すると、出家した修行者に出会いました。大変質素な身なりでしたが、凛とした穏やかな表情をされ、生き生きしているお姿を見て、王子様はハッと気づくのです。「人間は皆、老い、病にかかり、死んでいくと分かっていても、あのように落ち着いて真っすぐに生きていくことのできる、確かな心を育むことこそが大事なのだ、あの修行者のようになりたい」王子さまはそう決意して出家の道を求める修行者となり、この世ではじめて悟りをひらかれて、仏教をお開きくださり、阿弥陀仏の救いの法則を顕かにして下さった教えの主、お釈迦様となられたのでした。
雅楽鑑賞会では、装束とお面を身に着けて、舞をします。舞う順序や動作が間違っても見ている皆様のほとんどはわかりません。それでも、ひとりで舞うので、200名くらいの視線を集めて、半年もこのために練習してきた演奏者の篤い演奏を聞きながら、間違ってはいけない。という自分の心があるのです。そんな心が自分を苦しめて、プレッシャーやストレスを与えるのです。自分で自分の首を絞めるとか、自分の心が自分を苦しめていることに気がつくのです。
皆様方も何か体調が悪くなったらどうお思いになられますか。私は咳や喉の痛みが出てくると、それが表に出ないように抑えることがあります。良くないことかもしれませんが、他の人の見る目が気になるのです。自分の咳から、だれかに移すのではないか。不安になったり、長引いてくると、肺炎ではないか。とか、のどに悪いものがあるのではないか。など、次々と連想ゲームみたいに、悪い方へ悪い方へか考えていってしまうのです。それを煩悩、身を煩わし悩ます煩悩がはたらいている証拠です。
煩悩からくる人々の不安は、老病死から逃れられない人生であると聞かせていただきますが、さとりの仏さまになることで、あらゆる苦悩が解決できます。ですから、煩悩を消滅させることが出来ればいいのですが、此の世ではそうはいかないのです。煩悩をなくすための修行をするなんて、それでは間に合わないのです。お参りして歩いていますと、様々な苦悩を聞かせて頂きます。年老いて何にもできなくなってきた。これまでできていたことが出来にくくなり、何の役にも立たない自分は、何のために生きているのか分からなくなることがあるのです。仏さまのみ教えを聞かせていただき、人生の年を重ねるたびに、味わい深い人生が開かれている。ですがそんなことは思わずに、苦しい、どうしてこうなったんだ。というものが多く出るようになるのです。
私は農家の環境に育てられて、農業を継ぐことに違和感なく、高校を卒業後に農業に従事しました。そして10年後、農業を離れ別の生活環境に身を置き、仏さまの道を歩ませていただくこととなったのです。それからかれこれ20数年。そのまま農業を離れずに、やっていたら今頃どのようになっていたものかと想像はします。それはやはり変化の中のこと。いい時もあればそうでない時もある。儲かる時もあれば、損するときもあり、幸せが長続きしない不安定でしかないのです。安心できる状態ではないのです。この仏の法にであう仕合せほど、護られている安心感、お金には換算できない、これ以上ないものに出あわせて頂けます。それは、僧侶だけではなくみんなです。この世で生きる限りどのように変化するかもわからない不安はもちろんなくなりませんが、安定感が満足し、絶対に変化することのない「なんまんだぶつ」に支えられた人生を歩むことができるのです。彼の岸、浄土へ生まれ仏さまに成らせていただくことの決まった人生、安心の人生を歩ませていただけるのです。
法蔵菩薩が世自在王仏という仏さまお説法に感動し、そんな仏さまに自分もなりたい。あのようなお方になりたいと思われたのでしょう。お釈迦様がお城の北門で、目がキラキラした、イキイキとして生きている修行者の姿を見て感動し、私もそうなりたいとお思いになられ出家されたのです。それと似ていて、雅楽の舞を見て、おれもやってみたい。あの人のようになりたい。そういう思いにさせて伝わっていくことがあるので、皆様方も、お念仏のみ教えを聞き受け、それを慶び、「なんまんだぶつ」と大きな声に出して仏さまを讃える事はきっと、他の誰かにおのずと伝わっていくことがあるのです。何もできなくなったけれど「なんまんだぶつ」はとなえられる。伝える役割が与えられているのです。
やわらぎ斎場のCMを見て笑ってしまうこともあります。老年のご夫婦が、食事中に、これ美味しいねーとご主人が言ったら、奥様が、これデリバリーなの。といい、いい、御主人の顔色が一気に変わる。とか、斎場の事を話している最中に、あなたも2,3日斎場に泊まってきたら。という奥様の言葉に、それってどういう意味?とか、それと、私の連れ合いが見た事ですが、スーパーの端っこで、やわらぎ斎場のスペースがあり、そこに相談に来たお爺さんが、若い女性の職員さんに、私が死んだら、どのように連絡すればいいのか。という質問をしました。その若い職員さんは、「お亡くなりになられたら連絡はできません」と。そうなんです。どうもちぐはぐなやり取りが聞こえてきて笑いそうになったというのです。あいての気持ちを察知して、それにふさわしい答えをする。なかなか難しいことです。相手がどのように考えているのかわかりません。自分自身のことでさえ、わからないことが多いのです。自分でもわからないようないのちのいとなみ。そのいのちを必ず守る。とおっしゃるはたらきにお任せする人生です。
危ない心を安全な状態に変化させる。だから私の名前「なもあみだぶつ」を称えておくれよ。とおっしゃって下さり、浄土へ生まれていく人生を与えて下さるのです。私を仏の子どもとして育ててくれている「なんまんだぶつ」です。母親が赤ちゃんを抱っこして守るように、はたらいているのです。如来様からいただいた信心が壊れないように護って下さいます。彼岸への道から外れないように、仏さまに成っていく人生が壊れないように護って下さるのです。
肝心かなめは御文章、聖人一流章にてご確認下さい。 なんまんだぶつ(*^-^*)