アルゼンチンから砂漠の国へ

2005年~2009年のオリジナル記事に、シンガポール時代の記事と、2009年以降のアメブロの旅行記を転記しました。

イタリアでイースター休暇(1/2)

2020年06月26日 | 旅行
初めてのミラノ(イタリア出張)
8-11 April 2001


(関西空港出発)

今回は、東京本社からの同行メンバーがいないので、初めて関西空港にやってきた。広い空港だが、成田のような混雑がない。

前日の飛行機変更で少し心配したが、昨夜船で出発した I さんと無事にラウンジで合流し、JL421便でまずはロンドンのヒースロー空港に向かった。関西空港は便が少ないので、同じ時間帯でミラノに行くにはこの便からロンドンでアリタリアに乗りかえるしかない。

例によって、映画を3本見て、少し眠るとヒースローに到着した。残念ながら、単なるトランジットのためロンドン市内を見物することは出来ない。

乗り換え時間が2時間もあるので、ラウンジでのんびりしようと思っていたら、とんでもない。飛行機を降りたら、トランジット乗客のためBA(ブリティッシュ エアライン)の女性係員が待ち構えていた。彼女について、迷路のような空港内を歩き回り、バス乗り場に出た。バスの乗り場で、日本の団体客と遭遇し、その団体を案内している別の係員と、どちらが先に乗るかで口論を始めた。相手は男性係員だが、少しもひるまない。結局全員乗せて出発したバスの中でもまだやりあっている。さすがにこちらの女性は強い。

ヒースローでは、この案内がなければ乗り換えは無理だろう。カウンターでも、アリタリアに乗りかえるために、どこで手続きしたらよいか簡単にはわかりにくい。やっと手続きが終わり、こんどはラウンジを探すが、インフォメーションで聞いてもよくわからない。結局バタバタしているうちに搭乗時間になった。


(ミラノ到着)

ミラノのマルペンサ空港に到着したのは夜9時過ぎ、さすがにすっかり暗くなっていた。いつもながら、ヨーロッパの都市の上空を夜飛んでいると、街の明かりがひとかたまり毎に点在する間を道路の光の線が結んでいる様子は、まるでアメーバか、脳の神経組織の様に思える。暗闇はたぶん全部緑の森だろう。

今回のメンバーは全員初めてのミラノで、当然相手の会社を訪問するのも初めてなのに、出迎えもなし。ただ、HOTELの住所と、会社の住所だけしかわかっていない。タクシーで行けば何とかなるだろう。

ホテルはミラノ中央駅すぐそばのHILTON。一流ホテルだが、駅の周りはあまり美しくない。古い市電やトロリーバスがいまだに健在で、ファッションの街ミラノのイメージがすっかり壊されてしまった。


(会議延長)

翌日から3日間、ミラノの本社で会議。初日から、予定の議事がスムーズに進まず、2日目で、予定の議事が消化できないことがはっきりした。出発前に、全て片付かなければ、翌週まで残ってケリをつけると、冗談で言っていたことが本当になってしまった。

相手に、翌週も相手してくれるか確認したところ、OKだが、金曜から月曜までイースター(復活祭)で全社一斉休日だという。予想外だが、また日本から往復すると高くつく。仕方ない、4日間どこかで時間をつぶさなければならない。

思わぬ旅先の休暇に、さてどこにいこうか。ロンドン、パリそれともスイスまで足を伸ばしてみようかと考えていると、この期間は、ヨーロッパ中の人が休暇を楽しみ、特に北から南に人が移動するので、イタリアのホテルも飛行機も予約で満杯だと言う。

結局、会議メンバーの勧めもあって、列車で移動できるフローレンス(英語:Florence、イタリア語:Firenze)に行くことにした。


(会食)

会議の夜は、相手の会社の接待会食が多い。イタリアは食事がおいしいし、夜の自由時間を考えると、本当は自由にさせてほしい所だが、お付き合いなのでわがままは言えない。

今回は、ホテルの近くのレストランに誘われた。いつもながら、イタリアの夜のレストランは満杯で、予約なしでは入れない。皆たっぷりと時間をかけて食事を楽しんでいる。

まずは前菜(Antipasti)から。本当に、野菜が出てきた。なにかわからないが、どこかそのあたりの野草を摘んで来たような代物だ。まわりに日本人がいないのを確かめて、顔はおいしそうに「何だこれは、豚の餌か?」と日本語で言ってみる。

ちょっと不謹慎だが、まずいものは仕方がない。我々3人だけにしか通じない日本語が暗号代わりだ。次に第一の皿(Primi Piatti)でラビオリが出てきた。餃子の出来そこないのようで、味はスイトン(本当はスイトンの味は知らないが、単なる小麦の団子の感じ)のようなもっさりしたもので、とても美味しいと言える代物ではない。更に次にポレンタが出てきた。前回のベニスで教えてもらったもので、コーンをすりつぶして粟のおかゆのようにしたもの。K君は口に合わないと残してしまった。これは、昔、食料の乏しい貧乏人が食べたものだと聞いた。

メインディッシュは魚。鯛の塩釜風にシーバス(すずき)を塩で固めたものを焼いており、さすがにこれは美味そうだ。ところが、白身をほぐして皿に盛ってもらうと、これが全く味がない。せめて醤油でもあれば。仕方がない、オリーブ油をたらして少し味付けして食べた。

最後はデザートと食事の消化を助けると言う苦い酒で顔をしかめた後、カプチーノで終わり。ワインを飲み、にぎやかに話しながらの約2時間半の食事は、それなりに楽しかったが、残念ながら今回は食事の選定に問題があった。(接待された身で、まことに不謹慎とは思いますが)もっと美味い物を食べさせてほしかった。


(1年ぶりのベニス)

4日目はベニスの近くにある工場を訪れ、会議が終わった後、久しぶりにベニスの見物に出かけた。同行の I さんと K君ははじめてのベニスなので、サンマルコ広場と鐘楼を案内した。しかし、この季節はまだ寒く、みな冬装束の中、春のつもりでやってきた我々には、鐘楼の上の吹きっさらしの風は冷たく、ベニス一望の景観を楽しむ余裕もなく、早々に降りてきた。
ただ、食事は昨日までの接待と違い、自由に選べるので、久しぶりにイカスミのスパゲッティを楽しんだが、その後数日間、出る物が真っ黒だった。

翌日、仕事の片付いた I さんだけ、予定どおりの日程で帰国することになり、ベニスの空港で見送ったあと、K君と2人で長い休暇に出かけることにした。


フィレンツェの旅

花の都フローレンス
13-16 April 2001

(ベニス出発)
ベニスを出発した列車は、一路南下しフローレンスへ向かった。6人掛けのコンパートメントは予約席で、若いカップルと、中年のオバさん、そして我々2人が向かい合って座った。

このオバさんは、遠慮ない大声で携帯電話で話し出すし、若いカップルは人目を気にすることもなくイチャイチャするし、全くイタリア人は、人の迷惑を考えない人種なのか。

それでも、車窓から夕暮れのイタリアの田舎の風景を楽しんでいると、桜が咲いている。この寒さは、日本の3月くらいなのに満開の桜が見える。イタリアで桜を見るのは妙な感じだ。

イタリアの列車はほとんどアナウンスをしない。3時間の旅で、アナウンスは「食堂車の準備ができました。予約の必要はありません。ご自由にどうぞ。」の1回だけだった。時間が来ると音もなく出発し、途中駅には少し前から減速するので気が付く程度。不覚にもフローレンス到着時間を確認していなかったので、3時間経った後、窓の外を見ながら乗り越しをしない様にそわそわしていたら、前に座っている若い兄ちゃんが、「まだですよ。」とニコニコしながら教えてくれた。悪いやつではなさそうだ。

(フローレンス到着)
すっかり暗くなった広いホームに到着すると、イースター休暇を楽しむ、大きな荷物を持つ人々でごったがえしていた。

右も左もわからないので、近くにいた警官にTAXI乗り場を教えてもらった。乗り場には数組の旅行者がタクシーを待っているが、なかなかやってこない。新居浜の敷島通りとは違う。都会にはタクシーが少ない?

やっと来たタクシーに乗りこみホテルの名前を言うと、ほいほいと出発し、駅前をぐるっと回ってホテルに到着した。15000リラ(約900円)、そんなものかと支払い、翌日ホテルで地図をもらって位置を確認したら、ホテル(LONDLA)は駅のすぐ裏手にあり、歩いて5分とかからない所にあった。

(ビーナスとの出会い)
急な予定変更で、フローレンスに関する予備知識が全くない。持参したイタリア観光ガイドで調べると、「花の都フローレンス、ルネッサンスの中心地 …」とある。そしてウフィッチ美術館にはルネッサンスの代表作が展示されている。ボッチチェリの「春」「ビーナス誕生」、ティチアーノの「ウルビーノのビーナス」「フローラ」等々。「フローラ」は今東京美術館のイタリア展に出張中だが、こんな所で「ウルビーノのビーナス」の本物にお目にかかれるとは思いもよらなかった。



ホテルを出て、大聖堂(Duomo)の人ごみをぬけ、まっすぐ美術館に向かった。歩いて30分程度で、あまり大きな都市ではない。ところが美術館の前は長蛇の列で、しかも全く進まない。第一、門が開いていない。行列のすぐ後ろの米国人らしいお年寄りのカップルに開門時間を確かめると、やはり8時半だという。もうすぐ10時になるというのに、時間が変更になったのだろうか。「これがイタリアですよ。」と彼らは意にも介していない。

ただ待つのも時間がもったいないので、開門まで、近くのミケランジェロ広場に行ってみることにした。寒いし、地図で見ると丘の上までは距離がありそうなのでタクシーをひろった。丘の上の広場からはフローレンスの街が一望できる。赤いレンガ一色の街並はベニスと同じで、典型的なイタリアの街の風景なのだろう。中央にDuomoのドームがひときわ高く目立っている。


今度は、近道を歩いて降り、ピッティ宮殿に向かった。裏庭のポポリ庭園は代表的なイタリア風庭園だと言うが、当時の富の象徴に圧倒される。




さて、貴金属店が軒を連ねる「古い橋」ポンテ・ベッキオを通り、もう一度美術館に戻ってきた。行列は全く改善されていない。しかし良く見ると、並んでいる顔ぶれが変わっている。どうも入場制限しているらしい。仕方がない。今回の旅の本命だ。並んで待つより他ない。すぐ横のアルノ川から吹き上げる風は冷たく、並んでいる人は皆冬仕度している。4月の半ばだと言うのに。


行列は、コの字の建物の屋根の下を半周し、中央の広場にはみやげ物売りが店を広げている。と言っても、この商売人たち(ほとんど黒人)は、手作りのダンボールの台にダンボールの商品陳列台を載せ、品物を上に固定している。そのうち雨が降出してきた。と、あっという間に広場には誰もいなくなり、雨がやんだらいつの間にか元通りの出店になっている。警察が2人パトロールに来た。すると、また店が消えている。全くフットワークがいい。

寒さに震えながら待つこと3時間あまり、やっと屋内に入り切符を買うことが出来た。と思ったら、電光掲示板に、「ただ今の待ち時間: 屋外150分、屋内60分」とある。もう少しわかりやすい所に表示してほしいものだ。それから更に1時間待ち、4時間待ちでついに入場することが出来た。まず、冷え切った身体を温めるため、建家の中にあるレストランでひとやすみ。すっかり遅くなった昼食で体力を回復させ、いよいよ「ビーナス」に会いに行った。

「ウルビーノのビーナス」は、おっぱいが小さく、お尻が大きく、お腹がふっくらとしており、これがこの時代の標準体形なのだろうか。現代の欧米女性より親しみやすい体つきをしている。次はボッチチェリの展示場で「春」「ビーナス誕生」を観賞した。有名な「受胎告知」もあったが、宗教画には興味ない。

結局、入場制限は建物の強度を考慮するという表向きの理由で、一度に780人までしか入場させないことによるらしいが、外で震えている人がいるおかげで、内部は全く混雑なくゆっくりと絵を楽しむことができる。
しかし、それにしても4時間待ちはひどすぎる。こんな情報こそ、ガイドブックに正確に載せてほしいものだ。

(一口メモ イタリアに公衆浴場?)
初めての街に着くと、ホテルのフロントででまず地図をもらう。フィレンツェのホテルもフロントの若い女性が笑顔で応対してくれるので、つい何度も足を運び、バスのルート図、レストランの紹介等々、聞く度に違う地図を出して説明してくれたので、同じ街の地図が4種類も手元に残った。

その内の1枚に、Public Bathの印が、街の要所要所にある。イタリアにも大衆浴場があったとは。と思い、ぜひ一度様子を見てみようと、ホテルの近くの場所を確認した。???あんな所に公衆浴場があったかな??

よくよく見ると、そのマークは、男女が並んでいる公衆便所の印だ。全く英語はまぎらわしい。Toiletで十分だ。いくら習慣だからと言って、トイレをわざわざバスルームと言うことはないだろう。どうもなじめない。

(To be continued )


最新の画像もっと見る

コメントを投稿