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マララ3

2021-11-26 07:57:03 | 日記

 

 

父娘インタビュー

「世界一の勇気の育て方」

 

マララさん:スワートにいたころは……

そこの文化では、

教育を受けたとしても、

女性は医者か教師にしか

なれないのです。

さもなければ、

主婦になって子どもを養い、

男性の言うことに従いながら、

四方の壁に囲まれた屋内だけで

人生を

送らなければなりません。

(👩中ごくの文筆家

魯迅が著(あらわ)した

📖『とっかん』のなかで抽象的に描いた、

中ごくの国民の状態とまったく同じだ‼️

四角い鋼鉄で出来た(出られない、逃げられない)、

真っ暗な光のひとすじも射し込まない、

何もない部屋に閉じ込められ、

眠らされた中ごく国民の現状と同じだ‼️)

 

マララさん:わたしが医者になろうと考えていたのは、

うちのクラスでは

みんなが医者になりたいと言うからです。

でも、

スワートの状況を考えていたら、

政府が措置を講じないでいる(政府がなにもしないでいる)のを見たら、

責任ある人々が何も言わずにいるのを見たら、

そうしたら(私マララは)

そのうちに分かった……

気づいたんです、

医者になっても小さな地域社会を助けられるだけだけど、

政治家になることで

母国全体を助けることができるって。

 

(私マララは)パキスタンの首相になりたいと思っていますし、

それは本当によいことだと思っています。

だって、政治を通して、

母国全体への奉仕ができるのですから。

国全体を治療する人になれるのですから。

 

そして、子どもたちに教育を受けさせる手助けができるのですから。

教育の質を向上させることができるのですから。

予算から

多くのお金を教育に

使うことができるのですから。

 

 

 

国連演説

「ペンと本で世界は変わる」

 

マララさん:そこで私が思い出すのは、

うちの(父の)学校にいた男の子が、

「タリバンはなぜ教育に反対なのでしょう❔」

と、男の子がジャーナリストから質問されたときの答えです。

(男の子は、)自分の本(教科書)を指さし、

「タリバンはこの本の中に何が書いてあるのか知らないんです」

と言ったのです。

彼ら(タリバン)の考えでは、

神は、学校に行ったというだけの理由で

女の子を地獄送り(じごくおくり)にするような、

心のとても狭い存在です。

テロリストたちはイスラムの名を騙(かた)り、

パシュトゥン人を

自分たちの個人的利益のために

利用しているのです。

(👧そうだったんだ‼️分かりやすい‼️

今まで私には、

イスラム教とタリバンの関係は

ちんぷんかんぷんだったから。

世界に通用する教育を受けていないから、

問題は、そんなに難しいことではなかったんだ‼️

マララさんの本を読むと、

教育を受けていないマララさんのおかあさんたちが

家や集会場で指導者が話すラジオの声を聞いて、

すんなり騙(だま)されてしまう成り行きには

あきれるくらいだった。

赤子(赤ちゃん)の手をひねるくらいに簡単に騙されていた。

日本人だったら、このラジオの言葉を信じない。)

 

マララさん:パキスタンは

平和を愛する民主国家です。

パシュトゥン人は娘や息子に

教育を与えたいと思っています。

そして、イスラムは平和と

慈悲と友愛の宗教です。

イスラムの教えでは、

教育を受けることは

子ども各人の権利というだけでなく、

(教育とは)むしろ(万人の)義務であり、

(👨世界各国と進化の度合いを合わせ、

人間には生まれながらに基本的人権という

光輝く権利があることを(教育の普及により)知り(気付いき)、

共に世界のために活動するために持つべき

最低限の)

責任なのです。

 

📖『マララ・ユスフザイ

国連演説&

インタビュー集』

電子書籍版付き

ダウンロード方式で提供

対訳📖

生声CD💿️

[収録]

❇️国連演説

「ペンと本で世界は変わる」

❇️銃撃前のインタビュー

「今、声を上げなくては」

❇️(マララさんの)父娘インタビュー

「世界一の勇気の育て方」

朝日出版社

 

 

(👨タリバンや、アフガニスタン。

なぜアメリカは、

教育の行き渡っていない国に

武器を渡してしまったのか(怒)‼️

いちばん、武器を持たせてはならない、

智恵のない者たちに。

自分の確立した考えもなく、

騙されやすく、

信じやすく、

すぐに怒りやすく、

すぐに武器をぶっぱなすだけの者たちなぜ❔

武器を持つ彼らに

近付くことすらできないから、

彼らに教育を

受けさせること自体ができないではないか‼️

 

👩だからアメリカも、

撃たれたら撃ちかえすこと

ばっかりを繰り返していないで、

(それでは未来永劫解決しないから)

 

中ごくがウイグル人を強制職業訓練所に

入れているのをよくご存知でしょう‼️

あれは全く批判すべきことだけど、

 

タリバンなどの場合は、

タリバンのおじいさんや

おじさんはもう頭が堅くて

無理かも知れないけれども、

 

出来れば、タリバンの若者たちは

すぐに殺してしまわずに

ずずーっと引っ張ってきて、

きちんと傷の手当てをしてあげて、

強制教育訓練所、

つまり学校に入れて、

教育を受けさせてあげて

ほしいのです。

彼らは、そう言う風に

育っていないのです。

みんな、上層部の人間が

悪いのです。

きちんとした教育を受ければ

明るく聡明な

世界をしょってたつ

若者たちが育つのに。

 

 

👧そうだよね。

👨そうだよね。

 

 

 

 

解説

 

📖『吶喊(とっかん)』

魯迅[著]

井上紅梅[訳]

 

「とっかん」とは、

ときの声をあげる意。

魯迅の場合は、

中ごくの国民に向かって民主化しようという

勇ましい声をあげる事。

 

『とっかん』は、

中ごくの国民について

最重要な事を書いているのだけれど、

魯迅はじめ昔の文豪の文章は分かりにくい。

一文が長いし、改行しないし、

これで本当に文豪なのか❔

しかし、文章は解りづらくとも、書いている内容は画期的、という場合がある。

それが魯迅だ。

 

 

引用始め❗

解り辛さを解消するため

改行を多くして引用します。

 

👇️👇️👇️👇️

わたしは彼の心持がよくわかった。

彼等はちょうど

「新青年」を経営していたのだが、

その時賛成してくれる人もなければ、

反対してくれる人もないらしい。

思うに

彼等は

(自分の意見がない世の中に)

寂寞を感じているのかもしれない。

 

「たとえば

一間(ひとま)の鉄部屋があって、

どこにも窓がなく、

どうしても壊すことが出来ないで、

内に(窓もなく出られない鉄の部屋で)

大勢(の人が)熟睡しているとすると、

久しからずして(すぐに)皆悶死するだろうが、

彼等は昏睡から死滅に入って

死の悲哀を感じない。

現在君が

大声あげて喚(よ)び起すと、

目の覚めかかった幾人(か)は

驚き立つであろうが、

この不幸なる少数者は

救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。

君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」

 

と、わたしはただこう言ってみた。

すると彼は

「そうして幾人は已(すでに)に起き上った。

君が著手(ちゃくしゅ)しなければ、

この鉄部屋の希望を壊したといわれても

仕方がない」

 

そうだ。

わたしには

わたしだけの確信がある。

けれど

希望を説く段になると、

彼(それ=確信=希望)を

塗りつぶすことは出来ない、

というのは

希望は将来にあるもので、

決してわたしの

「必ず無い」の証明をもって、

彼(そ)のいわゆる

「あるだろう」を征服することは出来ない。

そこでわたしは

彼(それ=彼)に応じて、

遂に文章を作った。

それがすなわち最初の一篇「狂人日記」である。

一度出してみると引込んでいることが出来なくなり、、それから先きは友達の嘱(たのみ)に応じて

いつも小説のような文章を書き、

積り積って十余篇に及んだ。

 

(魯迅の📖『とっかん』から

引用終わり。)

 

 わたし自身としては今はもう、痛切に言の必要を感じるわけでもないが、やはりまだあの頃の寂寞の悲哀を忘れることが出来ないのだろう、だから時としてはなお幾声か吶喊(とっかん)の声を上げて、あの寂寞の中に馳かけ廻る猛士を慰め、彼等をして思いのままに前進せしめたい。わたしの喊声(ときのこえ)は勇猛であり、悲哀であり、いやなところも可笑(おか)しいところもあるだろうが、そんなことをいちいち考えている暇はない。しかしまた吶喊と定(き)めた上は、大将の命令を聴くのが当然だから、わたしは往々曲筆を慈めぐんでやらぬことがある。「薬」の瑜兒(ゆじ)の墳墓(はか)の上にわけもなく花環(はなわ)を添えてみたり、また「明日(みょうにち)」の中では、単四嫂子(たんしそうし)は終(つい)に子供の夢を見なかったという工合(ぐあい)には書かなかった。それは時の主将が消極を主張しなかったからである。自分としてはただ、自分の若い時と同じく現在楽しい夢を作る青年達に、あの寂寞の苦しみを伝染させたくないのだ。

 

 

 

 

 

 


知識人

2021-11-26 05:35:32 | 日記

 

エドワード・W・サイード [著]

『知識人とは何か』

大橋洋一 [訳]

平凡社ライブラリー

 

読者レビュー

 

1.

国意識を越えて社会意識を。

サイードは、「知識人」を独自の見解で定義します。

サイードの言う知識人は

「亡命者にして周辺的存在であり、

またアマチュアであり、

さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手」です(p.20)。

権力の犬ではなく、

逆に反骨精神溢れる知識人像が描かれています。

サイードは、本文中で神を厳しく否定しています。神の存在は権威であるとされ、神への転向や崇拝が斥けられています。

「いつも失敗する神々」に服従するのではなく、最善を尽くして真実を積極的に表現することが勧められています。

 

サイードが提示する知識人像とは別に、

知識人とは

「安全な場所に閉じこもり、

ときに上から目線で小難しいことを話している人達」というイメージが世間では流布している気がします。

サイードはこうした風潮も承知の上で、

彼独自の知識人像を新しく打ち立てようとしているのだと思います。

サイードが理想とする知識人になるのはそう簡単なことではないと思いますが、

サイードの知識人像を

「目指すべき理念」の一つとして知っておくのは有益なことかと思いました。

インターネットが発達したこの世界で真実を主張するのにはリスクが伴いますが、

「サイードの言う通り、

リスクを背負うのが知識人(笑)ってもんだろう!」

と自分に言い聞かせて前進する勇気が持てる一冊です。

 

2.

これぞ知識人の定義だと思います。

BBCの伝統ある講義放送で、

パレスチナ人である著者が

知識人について淡々と、

そしてしっかりと語った記録。

読者が吸い込まれそうな感じのする不思議な名著だと思います。

 

小生にとって印象深かったのは以下の点です。

 

・知識人は、

大勢に順応するのではなく、常に自分の感性でモノを見て、

集団を超える普遍性を探し、

それを公に話す。

 

・よって、(知識人は)権力者からは常に疎まれ、

大衆からも往々にして嫌われる。

 

・知識人であるためには、

公に話す能力と

リスクへの覚悟が要る。

 

・宗教の原理主義が

知識人と相容れないのは、

イスラムだけではなく、

キリスト教/ユダヤ教も含めたすべての宗教について言える。

「なぜ」と問うことを止め、神々を崇拝した時点でもはや知識人ではない。

 

・権力、スポンサー、顧客、大衆にすり寄り、

御用学者となる「知識人」も多い。

ジョン・スチュアート・ミルや

A・ド・トクヴィルも

自国の暴虐には、口を閉ざした。

 

・共同体(サル山)と

モラルに挟まれて、

知識人が大変苦しめられた最悪の例は、

戦前の日本。

 

・専門家とは、

権力側に都合のよい御用学者制度。

知識人はお金/集団に懐柔されない「アマチュア」である必要がある。

 

・米国は、政府/団体補助金によって知識人をほぼ壊滅させて「われわれ」の戦争を行っている。

「われわれ」という言葉には注意要。

 

・知識人は、マルコ・ポーロのような旅人。

アウトサイダー/

亡命者/

故郷喪失者として、

集団に巻き込まれず、

最大の価値を提供する。

 

・読者もこの本を読んでいる以上、

「知識人」となるか

本物の知識人となるかを

選択することになる。

 

丸山眞男の名も出てきました。

サイードの言う知識人は、

文章や言論に秀でている必要があるのでなかなか大変ですが、

「権力のみならず

大衆から往々にして嫌われる」とか

「マルコ・ポーロのような旅人。

故郷喪失者」

というのはなるほどと思いました。

 

3.

1993年にBBCで放送された

全6回の連続講演の収録。

講演がベースになっているせいかわかりやすかった。

 

この本は知識人はどうあるべきかを説いたものだが、

知識人を自認しない人間にも

サイードの言葉は迫ってくる。

サイードは

「知識人にはどんな場合にも、

ふたつの選択しかない。

すなわち、

弱者の側、

満足に代弁=表象されていない側、

忘れ去られたり黙殺された側につくか、

あるいは、

大きな権力をもつ側につくか。」という。

 

多くの知識人が

後者の側にさまざまな形で取り込まれてしまう現状を指摘し、

サイードは

前者こそが知識人の採るべき道だと説く。

しかしこれは、

何も知識人についてだけの話ではないだろう。

自分なりに世の中というものを理解し、

世の中のあり方に対して何かしら意見を述べようとする者は、

誰しもサイードの示す選択肢の

どちらかを選ばざるを得ないはずだ。

 

権力に抗(あらが)う知識人のあり方を、

サイードは

「アマチュアリズム」

と呼ぶ。

それは

「利益とか利害に、

もしくは

狭量な専門的観点にしばられることなく、

憂慮とか愛着によって

動機づけられる活動」

と定義される。

 

知識人というと、

大学の先生などを思い浮かべてしまうが、

こういうくだりを読むとどうだろう。

「政府や大企業につかえる場合、

モラルの感覚をひとまず脇におくようにという誘惑の声、

またもっぱら

専門分野の枠のなかだけで考えるようにし、

とにかく意見統一を優先させ、

懐疑を棚上げにせよという誘惑の声は、

あまりに強力で、

それにうちかつのはむつかしい。」

―(ということは)―社会人ならば誰しも思い当たる経験があるのではないだろうか。

 

そこで大切になるのが、

アマチュアリズムの精神というわけだ。

知識人ではない自分にも、

読んでよかったと思える本だった。

 

4.

私とこの本の出会いのきっかけは、

数年前にとある大学教授が

退官にともなう記念に実施された最終講義にさかのぼる。

 

その教授は、

その最後の姿を見届けようと集まった教授や生徒を前にして、

ご自身の生い立ちや研究とその成果を語り、

講義の最後にこの本に触れ、この内容にいかに触発されたのか、

そして退官後はこの本を基準として

「周辺的知識人」になるために

日本を飛び出して生活するつもりだと、

具体的な人生設計までをも語っておられた。

 

そして

「是非みなさんも読んでいただきたい」

と勧められ、

講義は閉じられた。

 

その教授を知識人とするなら、

私なんかはもちろん

「知識人」と呼称されるに

到底及ばない存在である。

しかし、

この本が投げかける数々の問いは、

鋭く自分につきささったのも事実であるし、

「知識人」と自認しなくても、

これを通読した多くの人も

そのような感覚を得たのではと思う。

そして悩む。

知識人はいかに存在し、

誰をどのように表象するべきなのか、

誰に向かって主張を訴え続けるべきなのか。

特に、

自国の犯罪行為には目をつぶって、

他国の犯罪行為に対しては糾弾し断罪するというある意味「国際的な習慣」には、

疑問をぶつけずに納得してしまっていいのか、

「どこの国でもそれをしてるし、

それが世界のやり方ではないのか、

それが現実だ」

として簡単に結論づけてしまっていいのか、

との問いは

「知識人」であるかあるまいかに関わらず

非常に重くのしかかる。

そしてそれは

何も国際関係にこだわらなくても、

普段の生活、

社会、

メディアといった

マスのあり方にも

限りなくリンクしているはずである。

そして最終的に

自己のあり方として

直に問われることはいうまでもない。

 

大著「オリエンタリズム」を読み終えたときは、

その迫力に圧倒され、

 歴史の積み重ねがもたらして突きつけた難題に

ある種の「絶望感」を抱いてしまった。

それに比べてこの本は

ページ数も少なく読みやすいので、

まずサイード入門編として手に取ることを

万人にお勧めできる。

それと同時に、

自身の思考がどこかに迷いこんだときに、

何か「原点」を照らしだしてくれるような書ではないかと思う。