まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

合田邸へ行ってきた。その1

2018-07-28 02:05:29 | ディテール
前々から行きたかった多度津の合田邸へ、5月に行って来た。
合田邸ファンクラブの泉川さんに案内して頂く。


多度津の港は、丸亀と並び金毘羅参詣者が上陸する四国の玄関口として江戸時代より賑わったところ。
北前船も寄港し、北国からの物産の流通拠点としても栄えた。
明治に入ると讃岐鉄道の多度津駅が港のすぐそばに作られ、1906(明治39)年に鉄道が国有化された後
多度津を起点として四国内の鉄道網が整備されていき、多度津は四国の近代産業発祥の地となる。


多度津山と桜川に挟まれたエリアが昔のまちの中心地である。
1913(大正2)年に現在の位置に変わった多度津駅からは15分ほど歩かねばならない。
その名の通り、メインストリートだった本町通に面して、近世からの町家がいくつも並ぶ。


合田邸もその一角にあった。外から見るとシンプルな平入り町家で、タイル貼りの洋室と脇に石積みの
門があるのが目を引くぐらい。凝灰岩積みの門は来賓用の出入口という。


二丁掛けの型押しタイル貼りの洋室にはステンドグラスがはまっていた。


中に入ると敷地は見かけよりもずっと広い。
この合田邸は合田房太郎と息子の健吉が大正~昭和初期に建てたもので、敷地は約2300㎡、約13棟の建物が現存する。
洋館の地階、土蔵、土塀は香川県内で最初期のRC造住宅建築という。


合田家は島屋という屋号で米穀肥料などを扱う廻船問屋であり、「多度津七福神」と呼ばれた7軒の富豪のうちの1つ。
多度津七福神とは、江戸時代の終わり頃から廻船業などで隆盛した多度津を代表する7人の商人、商家を言い、
彼らが四国の近代化を牽引したのだ。


合田邸は七福神のうちで現存する唯一の邸宅である。合田家は他の家よりも後から多度津に入ったことから、
港に面したところでなく少し内陸部に屋敷を建てたといい、そのことも最後まで建物が残った理由のひとつに
なっているかもしれない。


外から見えていたステンドグラスが!やはり中から見ると美しい~~


アールデコデザインの椅子も当時のものが残されている。


鷲をモチーフにした帽子掛け。これは全然アールデコではないが。。


外廊下を渡り主屋の和館へ。そこには合田家や多度津の歴史などの資料が展示されていた。




美しいふすまの引き手。




奥に書斎が見えた。こちらは表のタイル貼りの応接室とは違い、ハーフティンバー風の瀟洒な小屋。


おぉ、落ち着いた雰囲気。
応接間やこの書斎は、奥の大広間や洋館とともに、健吉により1928(昭和3)年に建てられたものだそう。


この部屋の照明器具もいいなぁ。


上の照明やデスクはアールデコなデザインで、前日に坂出で見た四谷シモン人形館にあったものと似ているなぁ。
偶然だろうか。


壁が一部凹んだところに本棚が作りつけられている。そして大きな金庫!


ラティス格子の窓から中庭が見える、素敵なコーナー。ここでゆっくりお茶など飲みたいなぁ~




続く

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