エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XII-9

2024-08-18 08:03:39 | 地獄の生活
「侯爵はこちらでお待ちでございます」
この声は戦闘開始を告げる太鼓の音のように、パスカルの心を鼓舞させた。しかし彼の冷静さは全く変わることがなかった。
「さぁいよいよ来たぞ、決定的な瞬間が」と彼は思っていた。「僕に見覚えがなければいいのだが……」
彼はしっかりした足取りで下男の後に続いた。
家にいるときはいつもそうするように、ド・ヴァロルセイ侯爵は寝室に離接した小部屋である喫煙室に居た。彼はテーブルを前にして座り、一心にスポーツ新聞を整理しているふりをしていた。傍にはマディラワインの瓶と、四分の三が空になったグラスが置かれていた。
召使が「モーメジャン様でございます!」と告げると、彼は顔を上げ、パスカルと目が合った。しかし彼の目に動揺はなく、顔の表情も変わらず、いつもの高慢で揶揄するような冷ややかな顔つきのままであった。侯爵が何の懸念も抱かなかったことは明らかであった。彼が卑怯な手を使って抹殺しようとしたその男、そして彼の命を脅かすであろう最も危険なその男パスカルが目に前にいるとは思ってもいない……。
「モーメジャンさん」と彼は言った。「トリゴー男爵の実務を担当しておられるという……」
「さようでございます、侯爵」
「どうぞお掛けください……いまこれを片づけますから……すぐにご用件を伺います」
パスカルは座った。
彼が危惧していたのは、自分の幸福と未来を打ち砕き、自分を社会的に葬ろうとした悪党を目の前にしたとき、果たして自制心を保っていられるかどうか、ということであった。自分から名誉が奪われることは人生を失うことより耐え難いことであったが、そればかりか世にも邪な奸計を用いて、自分の愛する女性、マルグリット嬢を今まさに奪おうとしているこの男を……。
「もしも頭に血が上ってしまったら」と彼は考えていた。「こいつに飛び掛かって絞め殺す力はある……」
さぁどうだ!……いや、大丈夫だ。
彼の脈拍は平常より速く打つこともなく、彼は完璧な平静さ---強者の沈着さ---をもってド・ヴァロルセイ氏を密かに観察し始めた。
もし彼が侯爵を初めて見たのが一週間前だとすれば、あの上流階級の輝きを体現したような彼がたった一週間でいかに変わり果てたか、を目の前にして愕然としたことであろう。今の彼はかつての彼自身の影でしかなかった。特にこの時間は下男の手によってインチキとも言える化粧を施して貰う前だったので、彼の時期尚早の老いを隠すことはできず、ぞっとするような相貌を呈していた。
彼の土色の顔は憔悴し、ところどころに鉛色のしみが浮き出ており、瞼は赤く腫れあがって、睡眠不足を物語っていた。いつもは皮肉を湛えている高慢な唇、それが今は垂れ下がっていた。眉間に寄せられた皺は深い畝を作っており、少ししかない髪の毛は前日のポマードがまだ残っていて固まっていたため、禿げ頭を隠しおおすには不十分であった……。
しかしそれらよりもっと顕著だったのは、彼のどんよりとした生気のない目であり、そこからどうしようもない疲労感が滲みだしていた。おそらくそれを吹き飛ばさんとして、マディラワインの大きなグラスに頼ったのであろう。それというのも、ここ一週間彼はぞっとするような恐怖に苛まれていたからである。8.18

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