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エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XIV-11

2025-03-08 10:32:16 | 地獄の生活
私が自分の権利を行使しない決心をしたと彼に伝えた時、彼は理解が出来ない様子でした。あれほど屈従させられてきた奴隷が反逆するなどとは、彼には考えられないことだったのです。でも私の決心が動かないと知ったとき、彼は怒りに悶絶するのではないかと思うほどでした。
 彼の生涯の夢だった莫大な財産が、私の一言で手の届かないものになってしまう、それなのに私にその一言を言わせることが彼には出来ない、それが彼の憤怒に火をつけたのです。
 それからというもの彼と私の間の争いは、彼の持ち金が少なくなっていくほど凄惨さを帯びて行きました。でも彼がいくら私を痛めつけようが無駄でした。私は殴られ、命を脅かされるような目に遭い、血まみれで意識を失った状態で髪を掴んで引きずり回された……。でも、自分が復讐を果たしているという思い、私と同じ苦しみを彼にも与えているのだという思いが私の勇気を百倍にし、肉体に与えられる苦痛を感じなくさせていました。
 彼の方が先に音を上げたことでしょう。でもあるとき、悪魔の考えが彼に閃いたのです。
 妻である私に言うことを聞かせることはできなくとも、母親としての私になら話は別であろう、と。そして自分の怒りの矛先をウィルキー、あなたに向ける、と脅してきたのです。
彼はどんなことでもしてのける男だということが分かっていたので、あなたを救うため、私は気が弱まった振りをしました。そして考える時間を二十四時間くれ、と言いました。彼は承諾しました。
でも次の日の朝、私は家を出ました。もう二度と彼には会わない、と決心して、あなたを腕に抱きかかえ、逃げたのです」
 ウィルキー氏の顔は最初蒼ざめていたのが、次第に硬直した形相に変わっていった。何か冷やりとしたものが彼の痩せた背筋を走った。これは母親の苦しみへの同情でも、父親の卑劣な行為を恥ずかしく思う気持ちでもなく、この恐ろしい男がド・シャルースの莫大な財産という獲物を奪いにやって来る図が今まで以上に鮮明に脳裏に浮かび、彼を怯え上がらせたからだった。ド・コラルト氏やド・ヴァロルセイ侯爵の助けを借りたとしても、この男を追い払うことなど出来るものであろうか?
 質したい疑問が山のように頭に浮かび、口から出かかった。具体的な事実を知りたくて堪らなかったからである。しかし、マダム・ダルジュレは急いで話の先を続けていた。まるで早くしないと話が終わる前に彼女の力が先に尽きてしまうのではないか、と怖れているかのように。
 「そんなわけで、私はあなたと二人きりになったのよ、ウィルキー、所持金と言えばほんの百フランほど、このパリという巨大な街のただ中で……。
 最初にすべきことは私たち二人の隠れ場を見つけることでした。私はフォブール・サンマルタン通りに小さくてみすぼらしい部屋を見つけました。通気は悪く、殆ど日も差さないような部屋で、一カ月分十七フランを前金で支払わされたけれど、ついに得た避難場所でした!3.8
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2-XIV-10

2025-03-04 11:03:01 | 地獄の生活
この瞬間からはっきりと、彼は大きく動揺し、命の危険に四六時中脅かされている男の苦しみを見せるようになりました。
それからほどなくして、彼は私に言いました。
『こうしてはいられない!明日トランクの準備ができたらすぐ、俺たちは南へ出発する……もうゴルドンという名前は名乗らない……グラントという名前で旅をするんだ』
私は問いただしたりしませんでした。残酷な暴君のような彼のやり方に慣らされていたので、何も聞かずに彼に従うことが当たり前のことになっていたのです。鞭の恐怖に怯える奴隷のように……。
 しかしこの長い旅の間に、この逃避行の理由と何故名前を替えねばならなかったか、を彼の口から聞くことになったのです。
 『これは呪いだ』と彼は言いました。『お前の兄、あんな奴くたばってしまうがいい! そいつが俺を何としても探し出せ、と言っているらしい。俺を殺すか、裁判に掛けさせるか、どちらか知らないが、それがあいつの望みらしい。俺があいつを殺そうとした、と主張している……』
 奇妙なことでした。アルチュール・ゴルドンは豪胆さの塊みたいな男だと私は思っていました。どんな危険にも真正面から立ち向かって行くのを私は見ていたのに、その男が私の兄を死ぬほど怖れている……訳が分かりませんでした。
 おそらく彼は裁きに掛けられることを怖れていたのでしょう。彼が決闘と呼んでいたものが実際は何であったか、よく分かっていたのです。そしてこの怖れこそが、足手まといになるのは分かっていながら私を道連れにした理由だったのでしょう。もし私をあそこに兄の死体の傍に残しておいたら、私はありのままを話したでしょうし、そうなれば私は自分ではそうと知らぬまま彼に有罪宣告することになるので……。
 ウィルキー、私があなたを生んだのはリッチモンドでした。その当時私はあなたの父親には一カ月近く会っていませんでした。彼は裕福な農園主たちと一緒に、夜は賭け事と酒宴、昼は狩猟に明け暮れていました。でも不幸なことに、こんな調子では五万ドルなど長くは持ちませんでした。彼がいかにカードゲームでに巧みに損失を補ったとしても、ある朝私のもとに一文無しの状態で戻ってきました……。
 二週間後、彼は家具類をすべて売り払い、借りられる限りのお金を借りて、私たちは再びフランス行きの船に乗ったのです。
 何故そんな決心をしたか、私がその理由を知ったのはパリに着いてからでした。彼は私の父と母の死を知ったのです。それで私に両親の遺産を要求せよ、と命じました。彼自身は、私の兄の手前、表に現れることは避けたいと……。
 やっと私の復讐のときを知らせる鐘が鳴ったのです。私は固く心を決めていました。私の人生を破滅させたこの卑劣な男に、親の遺産を渡してなるものか、と。そもそもこの男のおぞましい誘惑の理由だったその遺産を。
 どんなに恐ろしい拷問を受けようとその苦しみに最後まで耐え、ド・シャルースの財産をびた一文も彼に与えまい、と心に誓ったのです。
 そして私はその誓いを守りました。3.4
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2-XIV-9

2025-02-28 10:34:53 | 地獄の生活
『俺一人だけでも、何とかやっていくのにどれだけ苦労したか分からないのに』と彼は呻くように言いました。『今は一体どうすりゃいいんだ! 一文無しの女というお荷物を抱えて!何という馬鹿げた羽目に陥ったことか!……だが俺には他にどうしようもなかった……こうなるしかなかったんだ!』
 どうして他のやり方が出来なかったのでしょう? 私は何度も何度もその問いを自分に投げかけていたけれど、答えは分かりませんでした。そのうち彼自ら私に明かすときが来るのだろう、と考えていました。
 でも、彼が心配していた貧困に喘ぐ暗い未来は現実のものとはなりませんでした。思いがけない幸運がニューヨークで彼を待っていたのです。彼の親戚の一人が亡くなり、彼に遺産を遺したのです。五万ドル---つまり二十五万フラン、ひと財産です。
 これで彼の恥知らずな泣き言を聞かずに済むようになるであろう、と私は期待しました。確かに泣き言はなくなったけれど、この遺産が入ったことで、今度はこの上なく横柄な非難が始まったのです。
 『運命とは皮肉なものだ』と彼は繰り返し言い続けました。『この金があれば、十万ドルの持参金を持つ娘を見つけることなど簡単に出来たろうに。そしたら結局俺は金持ちになれた筈だ!』
 その後、当然私は捨てられるだろうと思っていました。ところがそうではなかった。到着してすぐ、その月に彼は私と結婚しました。あの国では結婚するのも簡単だったのです。一度口にした約束は守るという最低の誠実さは持っていたのだ、と私は思いました。ところが、そんなことでは全くなかったのです!彼にとって結婚は単なる計算でしかありませんでした。他のことと同じように。
 私たちはニューヨークに留まっていましたが、ある夜、帰ってきたときの彼の顔は真っ青で、すっかり動転していました。その手にはフランスの新聞が握られていました。
 『さぁこれを読んでみろ』 と彼は私にそれを投げてよこしました。
そこには私の兄が命を落としたのではないことが書かれてありました。彼は回復の途上にあり、全快することは確実であると……。
 私は床に頽れ、跪いて涙にくれながら神に感謝しました。私を苦しめていた重い悔恨の鎖から解放されたことを……。
 『ああ、そうだな!』と彼は叫びました。『せいぜい喜ぶがいいだろう……だが、これで俺たちはにっちもさっちも行かなくなってしまった!』2.28
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2-XIV-8

2025-02-25 10:14:47 | 地獄の生活
そんな風に私たちはフランスを後にしました。
 その航海は私にとって長い責め苦の時間でした……。蔑まれ、辱めを受ける初めての体験だったのです。船長のわざとらしい丁寧さ、その部下の馴れ馴れしい態度、最初に甲板に上がったときから乗組員が私に浴びせる皮肉な視線。私の立場は公然の秘密であることは明らかでした。あの下品な男たちは皆、私が夫と呼んでいた男の情婦であり、妻ではないと知っていて、おそらくはっきりと意識してはいなかったでしょうが、私にその罪を残酷に突き付けていたのです。
 最悪なことは、理性が目覚めてきて、私の目は少しずつ開かれ、この品性卑しい男の本性が見えてきたことでした。その男のために私は自分の人生を擲ったというのに。
 彼の方は、それでもまだ完全に自制することを忘れたわけではありませんでした。でも夕食の後、彼はよく友達の船長と一緒に煙草を吹かし酒を飲んでは、酔っ払った状態で私のもとに戻ってくると、奇妙な恐ろしい話をして私をぎょっとさせたものでした……。一度など、いつもより多量に酒を飲んだ彼は、自分が演じている役割をすっかり忘れてしまい、本性を現したのです。
 彼は私たちの『恋物語』が出来の悪いメロドラマみたいになってしまったことを、苦々しい口調で嘆きました。最初は上々の滑り出しだったのに、と彼は言うのです。上手く『順調に』事が運んだ筈なのに、流血で終わるとは!なんたる失態!と。
 しかも、なんというタイミングで起こったことか。あともう少しで目的に達するところだったのに。すべてが上手くいって俺の苦労が報われる寸前だったというのに……、と。
後何週間かあれば彼は私を完全に支配し、両親のもとから家出をするよう説得する……。すぐに大きなスキャンダルになり、私の家族との話し合いが持たれ、取引がなされ、ついに莫大な持参金を持たせて私と結婚させることで事を収めることになる……。
『そしたら俺は大金持ちになったのに』と彼は何度も口にしました。『豪華な四輪馬車でパリの街を乗り回すことになったのに。それが、こんな薄汚れた船に乗って一日二度の食事は塩漬けの鱈だ……しかもそれがお情けと来てる!』
それから酒の酔いも手伝って彼は怒りを爆発させ、冒涜の言葉を吐きながら怒鳴りました。私が彼の計画を台無しにした、と。恋人を作って、それを隠すことも出来ないとは、私ほどの馬鹿女はいない。あらゆることを想定してきた自分だが、その点だけは見逃していた……世の中広しと言えども、知能も知恵もない女はおそらく私ただ一人であろう、たまたま手に入った女がそんな女だったとは……自分は昔から運の悪い男だった……。
ああ、もう疑いの余地はありませんでした。もう無意味な幻想で自分を騙すことは出来ませんでした。真実が白日のもとに晒されたのです。私は一度も愛されたことはなかった、一時間も、一分たりとも。私をうっとりさせた多くの手紙、私を恋に狂わせた情熱溢れる行為の数々は私に向けられたものではなく、私の父の財産に向けられていたのです。
別の日には顔を曇らせている彼の姿を見ました。みるからに不安そうに、彼はアメリカで私たち二人の生活費を稼ぐには何をしたらいいのかを考えている、と言いました。2.25
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2-XIV-7

2025-02-19 11:09:01 | 地獄の生活
ウィルキー氏はある種の気詰まりをはっきりと感じていた。彼は自分が貴族らしい振る舞いをしなければならないと思っていたことを忘れ、もはやド・コラルト氏のこともド・ヴァロルセイ侯爵のことも頭から消えていた。マダム・ダルジュレが言葉を切ると、彼は座っていた姿勢からまっすぐ立ち上がり、少し茫然としながら言った。
「驚いたなぁ、いや、驚きました!」
しかしマダム・ダルジュレは先を続けていた。
「このように私はとんでもない、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのです……。あなたには全てを包み隠さず、無益な正当化などせずに話しています。お聞きなさい、私の罰がどのようなものだったか……。
ル・アーブルに到着した次の日、アルチュール・ゴルドンは大変な失態を犯してしまったと私に打ち明けました。あまりに逃亡を急いだため、彼がパリで所有しているお金をかき集めてくる時間がなかった、と。それに彼が頼りにしていた街の金融業者にも断られてしまったので、ニューヨークまでの渡航費用がない、と言うのです。
この苦境に私はどうしていいか分かりませんでした。私の受けた教育は、私のような境遇の娘は誰でもそうだったけれど、馬鹿げたものでした。世間のことは何も知らず、生活することや、そのための苦労、貧乏がどんなに厳しく呵責のないものか、に全く無知でした。世の中に金持ちと貧乏人がいることを知らないわけではなかったし、お金は必要なもので、お金のない者はそれを手に入れるためにどんな卑しいことでもするということも知っていました……。でもそういったことはただ漠然と頭にあっただけで、お金をどれほど持っているか、が人生の重要な問題を左右するほどのものだとは思っていなかったのです。
そんな訳なので、アルチュール・ゴルドンのこの告白の後に続いてどんな要求がなされるのか、予想することも出来ませんでした。で、ついにアルチュールは明け透けに、いくらかお金を持っていないか、少なくとも何かお金に替えられる宝石などを持ってきていないか、と私に尋ねたのです。
私は身に着けていたすべてのものを彼に差し出しました。数ルイのお金が入っていたバッグ、指輪、それに綺麗なダイヤモンドの十字架の付いた首飾りを……。
たったそれだけだったので、忌々しさのあまり彼は酷い言葉を投げつけました。私は震えあがったのだけれど、彼の悪辣さのすべてを読み取ったのはずっと後になってからでした。
『恋人に会いに行く女というものは』と彼は怒鳴りました。『全財産を常に身に着けているべきだ……何があるか分からないだろう!』
お金がないため、私たちはル・アーブルで釘付け状態になりました。アルチュール・ゴルドンは街を歩き回っているとき港で彼の昔の仲間の一人に出くわしたのです。それは三本マストのアメリカ船の船長をしている人でした。アルチュールが苦境を話すと、その人は親切にも週末に出航する予定のその船に私たちをただで乗せてくれると言ってくれたのです。2.19

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