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済美高校・安楽、弔辞でプロ宣言「それが僕にできる最高の恩返し」

2014年09月05日 | 松山・道後
上甲監督は愛媛・宇和島東、済美を率いて

春夏の甲子園大会に通算17回出場し、

選抜で2度優勝、甲子園で25勝を挙げた。









▼安楽弔辞全文



 監督さん。監督さんを日本一の監督として、甲子園で胴上げをしたかった。



 入学した時、監督さんと、三つの約束をしましたね。一つは、甲子園優勝。二つ目は、球速160キロを出すこと。三つ目は、ドラフト1位でプロ野球にいくことでした。その二つの目標は果たせなかったのですが、今、三つ目の目標に向かって歩んでいます。監督さんと約束をした球速160キロのボールにも挑戦し続けます。

 監督さんとの3年間、数えきれないほどの思い出があります。東京の病院まで、肘の治療に二人で行ったこと。監督さんは、いつもご自分の体のことよりも僕の体のことを真っ先に考えてくださいました。たとえ体調が悪くても、何一つ辛そうなそぶりを見せず、僕たち選手に、命がけで向き合ってくださいました。

 返事、あいさつ、目配り、気配り、心配り、これは監督さんが大切にされている言葉でした。野球選手としてだけでなく、社会に出ても通用する人間に、という考えからでした。

 ユニホームを着ている監督さんは、とても厳しい顔で僕たちを指導してくださいました。しかし、ユニホームを脱ぐと、いつも笑顔が絶えませんでしたね。サウナに連れて行ってくださった時は、その場で「スクワット30回」と、冗談交じりでおっしゃいました。グラウンドとは違った表情でした。もう一度だけでいいから、一緒にサウナに入り、冗談や笑い話を聞きたいです。

 入学してから3年間、毎日夜遅くまで厳しくも温かく指導していただきました。監督さんの教え子で本当に良かった。ここまで上達し、人間的に成長できたのも、上甲監督さんに出会えたからです。

監督さんに託された夢を実現し、監督さんのためにプロ野球で活躍します。それが僕にできる最高の恩返しだと思います。

「今頑張れば花が咲く」、「夢叶うまで挑戦」。監督さんにいただいたこの言葉を胸に刻んで、これからも、選手一同精進していきます。

 監督さんのトレードマークである笑顔は、僕たち済美高校野球部員はもちろん、多くの人が忘れることのできないものです。もう一度、あの笑顔が見たい。心からそう思います。

 監督さん。空の上から、僕たちの成長を、笑顔で見守ってください。

 上甲監督さん、どうか、安らかにお眠りください。

 済美高校 安楽智大 








最後の花道は飾れなく、済美高校野球部員(虐め)で終わった。

しかし、虐めた生徒・済美高校に対し、

監督の「無言の教え」によって再起のチャンスを与えたくれたのだから

後は、「済美高校野球部」の復活を願うばかり。





何人者のプロ選手を生み出した手腕は、凄い


主な教え子

宇和島東時代
平井正史(1993年ドラフト1位 オリックス→中日→オリックス)
橋本将(1994年ドラフト3位 ロッテ→横浜)
宮出隆自(1995年ドラフト2位 ヤクルト→楽天→ヤクルト)
岩村明憲(1996年ドラフト2位 ヤクルト→レイズ→パイレーツ→アスレチックス→楽天→ヤクルト)
高木啓充(2005年ドラフト4巡目 大阪体育大学→ヤクルト)


済美時代
高橋勇丞(2004年ドラフト7巡目 阪神)
鵜久森淳志(2004年ドラフト8巡目 日本ハム)
福井優也(2010年ドラフト1位 早稲田大学→広島
安樂智大 (現高校3年生)







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