ねうねう句日記

いつか秀句をはきたいと、ねうねうとうち鳴きながら、より所なげに春の夜を・・・
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改行が生む余白余情

2012-08-22 00:10:53 | 文学

俳諧と俳句は究極の韻文学であると思うが、句作においても鑑賞においても、さび、しおり、かるみ、姿だの風体だの上滑りしてしまう用語だらけの文学である。

ふだんそれらについて意図的に考え込むのをさけてきたが、「切れ」において有益な論を読むことができた。

揖斐高「改行論」平成14年3・4月号の『文学』 より  揖斐氏ねうねう

俳句すなわち俳諧の発句が「詩」であるためには「切れ」が不可欠であった。わずか5・7・5の17音からなる発句は句の途中で意味の連関を断ち切ったり、句末を強く言い切ったりすることによって一句の独立性を確保しつつ、余情や詠嘆を表現する詩であった。

近世和歌における長歌と明治新体詩との表記形式上もっとも大きな違いは改行の有無であった。新体詩は、西洋の近代史をもとに不徹底ながら伝統的な長歌形式とは異質な改行形式を導入していた。

このころ正岡子規は、「新体詩押韻の事」(日本人・第38号・明治30年3月)の中で、散文的になりがちな新体詩を、押韻することで韻文たらしめようと提唱する。しかし日本語の文末にくる動詞・形容詞などは語尾が定まっている為、倒置法を多く用いて名詞止めを多用することになる。それを「韻を踏みたるがために佶屈聱牙ともならん」と佶屈聱牙=曲折が多くなる、と断りつつ、和歌と俳句に通じた子規は「曲折多きは韻文をして趣味多からしむる所以なり。俳句には比較的に曲折多し。和歌者流が俳句を目して佶屈聱牙となすも亦韻文を知らざるなり」と、新体詩に「曲折」を求める。

 子規は「切れ」という特殊な俳諧用語を、和歌や新体詩の表現分析のために「曲折」という語に置き換え、「曲折」した表現がもたらす印象を「佶屈晦渋」という語で表したように思われる。   子規は新体詩が「詩」でありうるためには「曲折」=「切れ」が必要だとしたのである。・・・・中略・・・・これは別の言い方をすれば、改行表記が採用された新体詩の詩句と詩句の間には 「曲折」を抱え込んだ空白がが常に存在するようになったということである。

さらに、この空間は詩句と詩句の間に順接・逆説的な関係を暗示し、意味連関の内包、断絶や転換の表彰ともなり、空白を読む読者に余情が発生すると論じていく。 以下は、粗末な頭で自分が理解したところ。

すこしづつ新体詩に定着していった「改行」は俳諧における「切れ」の発生であり、それが生み出す空白にこそ「近代の新たな抒情は、初めて新体詩にその表現の場を見出した」のである。

「切れ」の問答といえば芭蕉の「唐崎の松」の句をめぐる問答が名高い。『去来抄』から引用しておこう

 辛崎の松は花より朧にて    芭蕉


伏見の作者、にて留の難あり  其角曰く「『にて』は『哉(かな)』に通ふ。この故、哉どめの発句に、にて留めの第三を嫌ふ。哉と言へば句切れ迫なれば、にてとは侍るなり」。  

呂丸曰く「にて留めの事は、已に其角が解あり。又、此は第三の句なり。いかで、発句とは為し給ふや」。  

去来曰く「是は即興感偶にて、発句たる事疑ひなし。第三は句案に渡る。もし句案に渡らば、第二等にくだらん。

先師重ねて曰く「角・來が辨皆理屈なり。我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」となり。


お金の運用~定期と投信・そして百間

2012-08-17 22:02:52 | 日記

新宿駅京王デパート口

めんどうなことだがお金の運用をほったらかしておいてはならない。

第一義にやらなくてはならないライフワークがあったとしても、優先順位はこちらが上なのだ。

もう15年くらい前になるが、友人が脱サラして仲間と某業界調査会社を立ち上げて、たまたま出た同窓会でしゃべってるうちに、おそらくジョーダンで、出資してみない?と言ってきた。

「〇君が資金を集めるなんてできるのかしら。集められなくて肩身の狭い思いしてるのかな。」と余計な心配をして、専業主婦とちがい自由になるお金はあった女子二人が応募した。

まさかの出資者に彼は驚き、でもやっぱり金集めは苦手だったと見えて喜んでくれた。

いずれ上場するとはいってたが時代は下り坂。増資も繰り返していたが「やっぱりダメかね~」と10年たったころやっと配当を出し始めた。

で、上場の見込みもついたのか、春に臨時株主総会があり、自社株買いのお知らせが来た。悪くはない買い取り価格だったので売却。

予定していなかったお金が入ってきた。売れたのはいいが、さーあどうする。おととい入ってきてしまった。

憂鬱な気分でいたとき、昔スイス外債を買ったことのあるトッポジージョ信託銀行を思い出した。いまどき金銭信託は時代遅れだがどんな商品を扱っているのか、10年ぶりくらいに新宿にある銀行に行ってみた。

窓口には健康そうな若い女性。ま~あ私たちが若いころと違って、投信販促もばんばん女性がやるんだね~、大学もきっと経済やら金融を出ていて、研修をしっかり受けている感じ!

安心していろいろ相談してきた。銀行の名前も新ピーターラビットに変わっていたので、通帳もあたらしくして、資金の移動もして、明日もう一度でむいて契約だ。

    100万円以上を定期預金50%投信50%の比率で契約すると、たった三か月だが定期金利が4%というのだ!これを「セットプラン」という。

投信はなんだかんだいって訳わからない商品だから、こういう手をつかって販促しているのだね。あやしみながらもこの商品に決めて、さて投信選びである。

頼もしい窓口の女性とかなり突っ込んだ会話をして以下に決めた。

1)円定期を50%   3か月4% 満期がきたら外貨預金でもつくろう。  

2)フィデリティUSハイイールドファンドを15%   US$は今は買い時かもと思う。「高利回り・低格付け」の米国企業の事業債。けっこう優秀で2011年のファンドオブイヤーだそう。しかし手数料は高い。

3)グローバルインフラ債ヘッジありを15%      面白みはすくないようだが、通信やエネルギー、運輸などの世界のインフラに出す金になるので、損得はあまり考えないで選んだ。                          しかし不振だったらサッサと変えないと。

4)新興国高利回り社債ファンド(豪$・ブラジルレアル・インドネシアルピア)を20%  高金利と為替に期待する。一番リスキーだが配当金は高い。

これから金利や為替や世界情勢を気にしなくてはならない。資金の割り振りが決まったのはよかったが、余計な目配りが必要でまた憂鬱。金の亡者の第一歩である。

 生涯債鬼に追われた内田百間。「阿呆列車」を腹を抱えて読む裏で暗くて理解を超える「冥途」みたいな作品があるんだよね。人間は深い。ひゃっけんのけんは門構えに月だった気がするけど字が出てこない。

 

 

 

 

 

 


お盆と浮いた年金・京王プラザのランチブッフェ

2012-08-13 12:40:06 | 日記

今日は暑気払いと称して京王プラザホテル「グラスコート」で従姉夫婦とランチブッフェ。

洗濯などしていたら、もう集合時間ま近!大慌てで旦那とタクシーでおでかけ。お盆とあって道はすいてる。でも料金はかわらず1120円。

ホテルについて下りエレベーターに乗る。降りる先がグラスコートだが、長蛇の列!左手にたかちゃんが手を振ってる。

「ゴトウ様ご一行」に交じってレストラン内へ。へえー、広くていいじゃない。ヒルトンのランチやディナーブッフェにくらべ、なかなか良いたたずまいだ。

朝自分でとったタシつゆのうどんがおいしくて食べ過ぎ、今日はあまい食べられないなーと思っていたが、味もよかったのでスイスイお腹に入る。

前菜にひじきがあったが、これがまた秀逸。以前高輪テニスセンターのレストランで出たポテトサラダがおいしくてびっくりしたが、ホテルはお惣菜系もさすがである。

ローストビーフも厚切りでやわらか、中華も中華らしい。メインのあとはフルーツ、アイスクリーム、ケーキと順調。ケーキは小さすぎて味が不確かだった。パンも食べたかったが無理。チーズだけいただきました。チーズももっと大きく切っておいてよ~。

さて団塊世代は楽しくお食事だけ、とはいかない。くったくなくパクついてる旦那二人を横目に、お墓にはいってもらった叔父の残務整理の報告と打ち合わせをしなくてならない。

あらたに出てきたこと。たかちゃんが不動産屋に叔父がかけていたアパート保険の残金を問い合わせたら、「そんなものは掛け捨てですから」という返事。彼らが不誠実なことはよくわかっているので「宅建ファミリー保険」にかけなおしたら、契約解除以降の保険料は日割りで返却します、という返事。4000円入金。

叔父に浮いた年金があると今さらわかって「なぜ今頃!」と腐っていた私とたかちゃんだったが、

不動産やのいいかげんな態度にあきれて、やはり「許すまじ、日本年金機構、いいかげんな役人ども」と二人の気持ちは一致。

唯一生存、請求権のある95歳の伯母とその息子に連絡するという。

怒りとおいしいランチははやる気をおこす、とあらためて実感。成功したら叔父さんの墓参りにいくからね。お寺さんのお布施と伯母さんの施設入所の役に立つといいな。


景観画像・星野聰・磨針峠

2012-07-25 11:53:23 | 文学

ご近所でもある「文学堂」さんの奥様は「断捨離」をはじめられたようだ。それもご自分の研究のためにに集めたりもらったりの書籍から。「もうそんなに長くありませんのでね、若い方に使っていただけるなら。」小柄できれいな方である。江戸の昔から今に至るまで「文読む」乙女や刀自はいるんですよね。日本の古典文学の裾野は女性に支えられているんだな、と思います。

第一弾は文学研究の機関誌、学術誌である。とはいえ彼女の知己から「こんどこういうものを書いたので」と贈られた大学の学術誌、種類はさまざま、号数はとびとび。こちらも団舎利推進中であるし、ここが思案のしどころである。ミイラ取りがミイラになるのは必定ということ。読んでもすぐ忘れる、でも読みたい。

1)種類別におおまかにわける。目次から俳諧・和歌関係をピックアップして読む。ブログに書く(書誌だけでも)。  2)大学の院生図書室に並べる。誰かが手に取って利用してくれていいし、完璧に揃ってなくてはイヤ!本棚をふさぐな!という潔癖な図書委員の目に止まったら廃棄していただく・・・。

ことにしよう

001 

「景観画像の文学」  国文学資料館講演集14 ―国文学研究・資料と情報―平成4年

 星野聰 京都大学大型計算機センター教授 主著『続日本紀総索引』他 

 平成4年当時人文科学へのコンピューター応用を研究されていた方の講演。 この先生は文学部に入った経歴はないがとくに「歴史や文学に関係があって興味深い地域の景色」を長年ハンディカメラやビデオで写してきた。

ここでいう「景観画像」はそれらをはじめフィルム資料などを、コンピューターにとりこんで保存し、膨大な画像を能率よく検索できるシステムを構築すること、さらにどのように文学に結び付けて実用化していくか、が課題であるという。 画像をたくさん入れておく安価な媒体としてCD-ROMが有望です。一枚で900コマくらいの画が格納できます。なーんて言ってる。10年前はみんなで感心したに違いない。

実用化ねー。平成24年の今、博物館や資料館は、展示企画において画像をふんだん保存された画像を探したり使用できることは大助かりであることは想像に難くないが。景観ではないが絵画で著名な画題のものを時系列にならべてみれば、いままで指摘されてこなかった比較による新しい見解もでてくるだろう。研究集会では花盛り傾向になってくるだろうなー。しかしここでいうのは「景観」。私がこの論文に関心をもったのはほかでもない、二か月ほど前にブログに書いた三河湾の竹島付近の景観と万葉集という文学に結び付けられた記事があることだ。さらに彦根ー米原間にある磨針峠から見る琵琶湖の景観の変遷を推理している箇所があること。

1)万葉集272番「四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫の島 漕ぎかくる棚無し小舟」  高市連黒人

大宝2年に持統太政天皇が(すでに文武天皇に譲位)三河のくにへ行幸され、その時随行した高市連黒人の歌について次の地理的解釈。

  さてここにお鍋をひっくり返したような形の島があります。これは笠の形をしていると思いますが、竹島とい う小島でこれが笠縫の島だと思っています。この島は蒲郡の海岸からごく近くにあっ  て、今は橋で渡れるのです。またこの島に向かい合って海辺に低い山があり、今は蒲郡プリンス(クラッシック)ホテルがその上にたっています。(私は)これを四極山にあてています。

持統太政天皇の行幸した大宝2年といえば大宝元年(701年)に大宝律令が完成した翌年である。そんなころから竹島は蒲郡の海辺にあって、すでに竹生島から弁天様を勧請していたのだ。蒲郡ホテルのあった四極島には今でもなにか遺跡が眠っていそうな気がする。

2)270番歌 「旅にして物こほしきに山下の 赤のそほ舟沖を漕ぐ見ゆ 」 高市連黒人

  黒人はこれをどこで詠んだものか、実は米原と彦根の間にある磨針という峠でございます。こういったことを説明するにも景観表示を使いますと、人を納得させる手段としてあるいは一般研究  支援のために役立つと思っているわけです。ここが米原です。その南西に大きな入江がありました。ところが戦争中食糧難のため干拓し、今は農地になっています。しかし、ここに入江がありますと、黒人の歌を磨針峠で詠んだとしても矛盾がないのです。・・・東の方から来ると磨針で初めて近江が見渡せるのです。もうすぐ都、そこで本当に嬉しそうな詩を詠んだ義堂(義堂周信か)という僧がいます。逆に峠を東に越えますと、もう琵琶湖はみえません。東に行くときはここで旅装束に変えていく、ここで見送る。そこで磨針峠はさびしい270番歌とよく合うのです。

かつて磨針峠には望湖亭という茶屋があってそこからの眺望は素晴らしく、往来の人々は感慨ひとしおであったという。竹島にしろ、磨針峠にしろ、現地を知っているのでやすやすと星野先生のお説に納得してしまう。次は星野先生の結びの言葉。

「そういうわけで景観表示にコンピューターを利用すると文学だけとはいいません。歴史、地理その他、ひろく人文科学への研究に大変役立つものと考えています。」

 

 


従姉のたかちゃん・宙に浮いた叔父の年金

2012-07-14 01:03:11 | 日記

たかちゃんは父方の従姉である。

生まれたのは昭和19年。召集されこれから戦地に行く叔父と、上官の特別なはからいで叔母とともに鯖江で面会。0歳。だからたかちゃんは戦死した父親の顔を写真でしか知らない。

叔母は夫なきあと家業の茶の卸商を切り盛りしてたかちゃんを育てた。親戚中の涙を集めた女子である。大学には行けなかったが、一族中で一番頭のいいのは彼女だった。

わがままなんて言ったことなし、小っちゃいころからお母さん思いの子供だった。小さな子にはわけへだてなく優しく、遊んでくれた。

親に逆らってばかりの私をいつもさとしていた。私の母はい涙ながらに私にいう。「お前はなぜお父さんに逆らう!悪口をいう!たかちゃんにはお父さんがいないのだよ!」 私の父は傲慢で子どもに威圧的だったから子どもに反抗されるのは当然なんだけど、たかちゃんのことを思うと私もションボリしたことだった。

父には兄弟が多くて、5月に亡くなったM藤叔父も弟の一人。奥さんを早く亡くし、子供もいなかったM藤叔父を気にかけてなにかと力になってあげたのもたかちゃんである。

たかちゃんは叔父が亡くなったあとのもろもろの役所の手続きも嫌がらないでやってくれた。

年金手帳を年金機構に返しに行ったのだが、そこでわかったこと。

応対してくれたまだ若い女性がパソコンを見て、「この方には宙に浮いてる年金があるようです・・・」と言ったのだ。

ええ~~ ひどい~

2、3年前の年金問題華やかな頃なら、叔父の書類預かった私たちも、「おじさんのことだから年金のモレもあるに違いない」くらいは考えただろうが。さすがに危篤の繰り返しと転院、施設探しに追われた2012年の私やたかちゃんは思いつかなかった!

「30か月分くらいある」鳶をしていた叔父さんは長く務めた会社はなかったと思うが、長い人生正社員していたこともあるだろうし、鳶なんて危険な仕事は給料が良かったかもしれない。この年金を請求できるのは存命の兄弟だけという。そんなこといったら95歳の伯母さんだけだ。手続きの煩雑さをたっぷり聞かされ、書類はもらってきたが、今は保留状態。8月になって、少し気をとりなおしたらもう一度書類を見ることにする。

叔父さんを経済的にも支えてきたのはたかちゃんなのに、たかちゃんの叔母さんは亡くなってるからなー。