ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ 落下の解剖学 (2023)

2024年02月29日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

上昇志向が強く自己実現のためなら家族(制度)は二の次だが、息子への愛情はないわけではなく、母親としてとるべき距離をとれない後ろめたさを、夫の弱点を(おそらく無意識に)過剰に利用することで心の平静を保ちつつ、制度に捕らわれない自身の性的嗜好には従順にふるまう。

彼女(ザンドラ・ヒュラー)の意図しない禍々しさにジェンダーを超越した現代のインテリ系ファム・ファタルの悲哀をみた気がする。その禍々しさは、映画の開巻から遺体が発見されるまでの無遠慮で押しつけがましい画面(えずら)と音楽の鬱陶しさがを象徴していたことに、最後になって気づく。

余談です。脚本に参加しているアルチュール・アラリは本作のジュスティーヌ・トリエ監督の夫だそうです。アルチュール・アラリは、終戦から29年を経て帰還した小野田寛郎を題材に『ONODA 一万夜を越えて』(2021年)を撮った監督(脚本)です。この映画、小野田さんの右派よりの世評のせいかあまりヒットしなかったみたいですが、伝記映画ではなく小野田を題材に「人の弱さと強さの矛盾」を描いた傑作です。Netflixで配信(2024年2月~)されているそうです。

(2月24日/新宿ピカデリー)

★★★

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■ 夜明けのすべて (2023)

2024年02月20日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

三宅唱は今回も周到に定型を避けながら物語を語る。登場人物たちは何も主張しない。悪人も登場しない、というより人の悪い面を描こうとしない。みんな相手のことをよく見る、が不用意に見つめ合ったりしない。むしろ心理的にも物理的にも同じ方向を向こうする。

冒頭でPMS(月経前症候群)を抱え社会と相いれない藤沢さん(上白石萌音)の生きづらさがたっぷり描写される。しかし映画の中盤以降、その発作は彼女の生活の(自然な日常の)一部として描かれる。山添君(松村北斗)のパニック障害もまた具体的な症状描写は必要最小限に止められ、「生きているのが辛いが死にたくはない」という苦痛は、かつての職場の仲間たちの彼に対する距離の取り方で暗示される。

障害を抱えた人たちの「生きづらさ」を三宅唱は、藤沢さんや山添君(というキャラクター)を使って必要以上に強調したり代弁させたりしない。その三宅の「主人公になりすぎない節度」によって、私たち(観客)の過剰なエモーションは排除され、冷静に彼らの生きづらさに思いを至らせることができる。

クライマックス、二人の主人公を取り巻く人たちがプラネタリウムに集う。みんな心に「闇」を抱えている人たちだ。そう、私たちは生きている限り誰しもが「死者」への思いを心のなかに抱えている。人は闇に包まれてしまうことがある。でも闇のなかにいるときにこそ、私たちには外の世界が見えるのだ、という救いの言葉の説得力。

優等生的な正論主義に陥らず、世間の総体を悪意ではなく善意として描き、それに成功してる稀有な傑作だった。

少し鼻にかかり粘り気を含んだような声音の上白石のモノローグや劇中ナレーション。随所で繰り返される穏やかな劇伴。そんな通底する「音」が耳に心地よい映画でもあった。これもまた『ケイコ 目を澄ませて』と同じだ。

(2月10日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★★

【あらずじ】
すでに映画界を離れていた初老の監督ミゲル(マノロ・ソロ)は、22年前に自作の撮影中に失踪し、いまだに行方が分からない主演俳優フリオ(ホセ・コロナード)をめぐるTVドキュメンタリーへの出演依頼を受けていた。映画はフリオが演じる探偵が老齢の資産家(ホセ・マリア・ポウ)から中国人を母に持つ娘の捜索を依頼される物語だったが、撮影は冒頭と結末部分だけ撮影されたまま未完に終わっていいた。この番組出演をきっかけにミゲルの止まっていた時が動き始めるのだった。当時の仲間や恋人のもとを訪ねるなか、ミゲルはフリオの娘アナ(アナ・トレント)と再会する。ビクトル・エリセの長編としては31年ぶりの監督作。(169分)

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■ 瞳をとじて (2023)

2024年02月19日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

劇中映画のタイトルは「別れのまなざし」だ。それはきっと別離を惜しむ哀しいまなざしだろう。その視線を受け入れて幕を下ろすように自ら瞳をとじたとき、その闇のなかに人は何をみるのだろか。終われずにいる者に向けたビクトル・エリセの自戒を込めた惜別の映画。

フランコ独裁体制下の1947年に舞台が設定された劇中映画「別れのまなざし」はクラシカルな風合いを湛えたフィルム撮影による作品だ。俳優のフリオ(ホセ・コロナド)が演じる男は志なかばで挫折した反体制活動家のようだ。その男に依頼事をする館の老主人もまた死期が迫るなか"未練"を抱えている。二人が微動だにせず対峙する執拗な切り返しカットの視覚吸引力に圧倒される。

一方、その未完成に終わった「別れのまなざし」の監督で今は地方で引退同然の生活を送っているミゲル(マノロ・ソロ)の2012年に設定された現代パートは当然のようにデジタル撮影だ。その(もうすっかり見慣れてしまったが)どこかギザギザした硬質な映像が、いっそう「別れのまなざし」の映画的風格を引き立てる。そんな画質のギャップにも、私はエリセの計算された企みを感じてしまった。

過去のこととして(あえて忘れていたのかもしれない)フリオの存在(行方)をめぐるミゲルの現代パートのエピソードは、まるで「瞳をとじる」ようにフェードアウトしなが次々にスクリーンの闇のなかに消えていく。それはエリセの周りを過ぎて行った時間への敬意(あるいは経緯への無念)であり、今も残るやり残した「映画」への思いの清算なのだろうか。

最終盤、デジタルの物語は映画館の闇を媒介に時空を超えるようにフィルムの物語へと昇華される。そこで繰り広げられる「惜別のクライマックス」の文字通り"息詰まる"ような映画的な美しさに息を呑む。圧巻でした。

(2月18日/ヒューマントラスト渋谷)

★★★★★

 

【あらすじ】
すでに映画界を離れていた初老の監督ミゲル(マノロ・ソロ)は、22年前に自作の撮影中に失踪し、いまだに行方が分からない主演俳優フリオ(ホセ・コロナード)をめぐるTVドキュメンタリーへの出演依頼を受けていた。映画はフリオが演じる探偵が老齢の資産家(ホセ・マリア・ポウ)から中国人を母に持つ娘の捜索を依頼される物語だったが、撮影は冒頭と結末部分だけ撮影されたまま未完に終わっていいた。この番組出演をきっかけにミゲルのなかで止まっていた時が動き始め、当時の記憶をたどり始めるのだった。そんななかミゲルはフリオの娘アナ(アナ・トレント)と再会する。ビクトル・エリセの長編としては31年ぶりの監督作。(169分)

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■ サン・セバスチャンへ、ようこそ (2020)

2024年02月04日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

やぁ、楽し映画でした。現役世代から相手にされなくなったシニカルなニューヨーカーの成れの果てウォレス・ショーンの懲りない意固地さが、なんか可愛らしいじゃないですか。アレンほどではないですが理屈ばかりこねてきた私ですが、本人はマイペースでめげてないようだし、こんな爺さんになるのも悪くないかもと思いました。

本作も前作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』同様に、アレンの毒気もなければ理屈ぽっさも皆無で実に素直な独白。やっはり、これが近年の心境なのでしょうか。この潔い諦観ぶり、嫌いじゃないです。前作同様と言えばエル・ファニングとセレナ・ゴメスに続き、今回の徹底したエレナ・アナヤのミニスカート姿へのこだわり、嫌いじゃないです。

(2月1日/MOVIX橋本)

★★★★

【あらすじ】
かつて大学で映画を教えていた熟年ニューヨーカーのモート(ウォレス・ショーン)は映画広報の仕事をする妻スー(ジーナ・ガーション)に付き合い映画祭が開催されるサン・セバスチャンを訪れる。クラシカルな哲学的映画を敬愛する彼は、社会問題を安易にエンタメ化する今の商業主義映画を毛嫌いしているが、スーは取材を口実に注目を集める売れっ子監督フィリップ(ルイ・ガレル)にべったり。妻の浮気を疑うモートは歴代の名作映画を彷彿とさせる奇妙な夢をみるようになり体調もすぐれない。そこで訪れた医院の女医ジョー(エレナ・アナヤ)に夢中になってしまう。自身の老境を重ねたようなウディ・アレンのロマンティックコメディ。(92分)

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■ 哀れなるものたち (2023)

2024年02月02日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

自殺の末に神ではなく人為によて新たに命を得た人間ベラ(エマ・ストーン)の成長譚。これはつき詰めれば「欲望の全肯定」であり反宗教的な世界観によるルールの作り直しなのだろう。その末に到達した反動的ですらある人間至上主義による生命/自然界支配の不気味なこと。

さてこの異様な世界観はヨルゴス・ランティモスによる「今」への警鐘と理解すべきなのでしょう。

『女王陛下のお気に入り』には全然のれませんでしたが、現実世界に潜む不気味と危うさをいけしゃあしゃあとシニカルに描いた『ロブスター』や『聖なる鹿殺し』のランティモスの復活がうれしいです。2000年以降の「今」を映像化するにあたって欠かせない映画作家だと思います。


(1月30日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★

【あらすじ】
19世紀末のロンドン。自殺を図った若い女性が、狂人的外科医バクスター(ウィレム・デフォー)によって、身籠ていた胎児の脳を移植され肉体は大人だが知能は幼児のベラ(エマ・ストーン)として蘇生した。バクスターはベラを溺愛しつつも、実験の成果物として彼女の成長過程を弟子の医学生(ラミー・ユセフ)に記録させ、やがて性に目覚めたベラと結婚させようとする。そんな"奇妙な一家"の存在を知った好色家の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)はベラをたぶらかし国外へ連れ出してしまう。本能の赴くまま性に溺れるベラだが、リスボンから地中海の航海を経てアレクサンドリア、パリを巡るうちに独自の生き方に目覚めるのだった。ベネチア映画祭で金獅子賞を得て物議を醸したヨルゴス・ランティモス監督作。(142分)

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