ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ 祈り (1967)

2018年09月01日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
美しさが恐怖へ変わる一歩手前の緊張を湛えた荘厳なモノクロ映像と音楽。台詞は一切なく、詩、独白、語りのみで物語は世俗劇と一線を画して進行する。この特異かつ鮮烈な「映画」は何者も寄せ付けない圧倒的な“強度”を備えている。この強靭さこそが作者の思い(意志)の強さに他ならない。

作者テンギズ・アブラゼの思いとは、冒頭に原作叙事詩から引用される「人の美しい本性が滅びることはない」という宣言に言い尽くされているだろう。

だがこの映像叙事詩は、なんとも恐ろしく無残な結末を描きながら幕を閉じる。その絶望的な光景は手の届かぬ遠景として覚めた視線の先で淡々と繰り広げられる。私は、そのあまりにも無慈悲な光景にぞっとしてしまった。

しかし、この光景を突きつけることこそが、テンギズ・アブラゼの「憎しみと暴力」への怒りの表明であり、冒頭の宣言、すなわち“人の本性”を祈るように信じている証しなのだ。そして、共に祈ろうと訴えかける。

もしも百歩譲って憎しみと争いの渦中に、将来の希望を見出すとすれば「敵への敬意」を堅持し続けることを忘れるな、と。“人が人であること”を肯定すること、すなわち最低限の「敵への敬意」こそが「他者への敬意」という希望をかなえるための最後の砦なのだから、と。

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私がテンギズ・アブラゼの映画を始めて観たのは、2009年に長年の封印を解かれ公開された『懺悔』(84)だった。すこぶる面白かった。だが、そのときの印象はソ連の支配下で全体主義の弾圧に屈せず皮肉たっぷりの反体制映画を撮った作家といったぐらいの印象だった。

今回、本作と『希望の樹』(76)を観て強烈な平手打ちを喰らった。テンギズ・アブラゼは現実世界を正確な目で直視つつ「希望」を捨てないという頑な意思と、たぐいまれなる創造力によって、その“祈り”を普遍的なカタチ(映画)にしてみせた希少な作家だったことを知った。


(8月29日/岩波ホール)

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