ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ ジョーカー (2019)

2019年10月20日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
笑いは、笑うにしろ、笑わせるにしろ、現実を曖昧に希釈して人の目から隠してしまう。暴力は、振るうにしろ、振るわれるにしろ、現実をさらけ出し濃縮して突きつける。社会にとっての「悪」って、本当はどっちなんだ。「笑い」を賞賛し「暴力」を否定する危うさ。

トッド・フィリップスは、社会の敵「ジョーカー」というキャラクターを使って、そんな矛盾を突きつける。私は「暴力は悪だ」と断定する物言いに、ずっと違和感を持っている。「暴力」は人の怒りや、悲しみや、欲望に根ざした、ある意味で実に分かりやすい行動だ。それに比べて「悪」は宗教や、倫理や、風習によって変化する、恣意的で曖昧な概念だ。「暴力は悪だ」と言ったとたんに「暴力」の意味が曖昧化され、人は「自分の了解領域」のなかでなんとなく安心してしまう。

この物語は、安易に「悪」という概念を持ち出して、現実がかかえた矛盾を曖昧にしてしまう、そんな“あやふやさ”を我々に突きつける。アーサーは言う。「俺の人生は悲劇だと思っていたが、実は喜劇だった」と。「笑い」と「暴力」が哀しみを媒介にして“行為”として合致した瞬間だ。社会のなかに居場所を得るためにコメディアンを目指したピエロは、ジョーカー(切り札)という名の告発者となったのだ。

デ・ニーロが出てきたあたりから、そうかこれは『タクシードライバー』の現代版なのだと気づいた。職場の雑談と拳銃の入手。姿見の前でポーズをとり発するひとりごと。手の届かぬ女の微笑と強引なアプローチと幻想デート。権力と権威への一方的な傾倒と失望。正当と不当の境界線上で行使される暴力。そして犯行後、車中のルームミラーに写りこむ醒めたような鋭い視線。

トラビス(ロバート・デ・ニーロ)はベトナムの矛盾に侵されながらタクシードライバーとなって夢うつつで夜の都会を彷徨し、アーサー(ホアキン・フェニックス)は制御できない「笑い病」にさいなまれつつ「笑い」にすがりピエロとなって“存在しない自分”を探し続ける。あれから40余年を経てもなお、世の中のポジションが見つからず、あせり、自分を変えたいという願望が、社会の矛盾と混濁していく男が、いまだに存在するとうことだ。

(10月8日/TOHOシネマズ新宿)

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