
今回の表題「OMG(オーマイガー)」は、英語を話す外国人たちが、驚いたとき、予期しないことが起こったとき、思わずため息をつくときなどに、つい口から洩れてしまう、「オー・シット」='Oh, Shit !' と並んでよくつかわれる言葉である。
日本人も、おそらく誰もが知っていると思うし、最近は、人気アイドルグループ「AKB48」の姉妹グループである「NMB48」の楽曲のタイトルにもなったことから、どちらかと言えば「OMG(オーマイガー)」のほうがメジャーになったのではないかと思う。
更に、アメリカ人は、これは特にキリスト教徒なんだろうけれど、この「OMG(オーマイガー)」に「ジーザス・クライスト!」='Jesus Christ !'を付け加えて、キリストさんまで巻き添えにしてしまう人もいるようである。
「OMG(オーマイガー)」='Oh My God' を日本語に直訳すると、「おー私の神様よ!」ということになるだろう。そして、その意味は、「なんてこった!」「また、やらかしちゃった!」「何やってるんだ!」などと叫ぶときに、その代わりに発するとピタッと当てはまる言葉である。日常生活で発している「えー」「マジか」「あらまー」「やばい」などの言葉にも当てはまるかもしれない。日本の場合、こういう時、の表現に「神様」は入り込んでこないのである。日本語の中で、「神様」を含む表現を探してみると、「天変地異」に」襲われた時、あるいは、武家社会で圧政に苦しむ庶民や農民たちが、「おー神様、仏様」と言ってお祈りする場面を見たことがあるような気がする。そして、それに続く言葉としては、「なんまいだーなんまいだー」=「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、これは、日本独特の「神仏混合」であり、あくまでも、社会の共有する「神仏」にもっぱらお願いをする言葉である。
一方、外国人の「OMG(オーマイガー)」は、「私の神様はどこ行ったんだ!」「私の神様はいないのか!」などと自分のやらかしたこと、自分の周りで起こったこと、を「神様」のせいにして発している言葉である。「神様を私物化」したような言葉であり、おまけに「キリスト」さんまで巻き込んでしまう人までいるのである。見方を変えると、「キリスト教徒」各々の心の中には、それぞれの「マイ・ゴッド」='My God' (私だけの神様)が宿っていて、それくらい信仰が深い、ということであり、それが「うまくできなかった自分」を非難するとともに「OMG(オーマイガー)」と叫んでしまっているのである。
本来、神様っていうのは「唯一神」であることが理想なんだろうけれど、「キリスト」や「ムハンマド」や「仏様」が並び立っている現状においては、それぞれが各々を尊重しあわないと、争いが起こってしまうわけで、身勝手な人間たちは、勝手に神様や仏様に縋ったり、お願いしたり、そのせいにしたりして、それぞれの国の人々がそれぞれの言葉で、祈ったり、非難するような言葉を浴びせたりしているのである。
では、「インドネシア」の場合、これは、イスラム教を信仰しているため、その信仰は「アラー」='Allah'の神である。彼らは、手紙の書き始めや、法令の前文などに、必ず「アラー」='Allah'の神へのお言葉を添えるのが慣例で、どうも「予期せぬことが起こったとき」も、少なくとも、この「アラー」='Allah' の名前を呼ぶことはなさそうである。彼らの場合、「アスタガ」='Astaga'という言葉を発しているようである。ただ、外国人の「OMG(オーマイガー)」などのように、大きな声で叫ぶようなところは見たことがない。ちょっとミスした女性が「アスタガッ」=’Astaga'と小さな声で呟いて、やり直している感じである。この「アスタガ」='Astaga'という言葉は、もともとアラビア語で「アスタグフィルラー」='Astaghfirullah'という言葉が変化したとするのが有力な説とされている。そして、この言葉の意味は「神からの許しを求めます」ということで、ここでもやはり、神様が登場する。しかし、この言葉は、「神様に自らの過ちに対する許しを請う言葉」である。ということで、日本語の「神様、仏様」という他力本願でもないし、「OMG(オーマイガー」のように、「神様の私物化」でもないし、「神様に責任を擦り付けるような言葉」とも異なっている。
タイの場合は、こちらもやはり「神様」が登場する。「オー・プラチャオ・トゥーアイ」='โอ้ พระเจ้าช่วย' で、その意味は「おー神様のお助けを!」である。これは、日本と同様、他力本願的な感じがする。
そして、ここ「ベトナム」では、「オイ・ゾイ・オーイ」='Oi Gioi Oi' と叫ぶ。「ゾイ」='Gioi'=「神様」だから、「オイ・ゾイ・オーイ」と叫んで、「神様」に対して「オイ・オーイ」と迫っている感じがする。これは、どちらかというと「アメリカ的かな」「マイ」='My'という「私物化」はないけれど、「神に対する責任転嫁」の感じは否めない。おまけに、頻繁に使用されるのは、「チョイ・オーイ」=’Troi Oi'という言葉で、この「チョイ」='Troi'には「天国」という意味があるようで、これは、仏教社会においては「極楽浄土」のことであろう。「神様」よりも、「天国」=「極楽浄土」を好んで使うのに、なにがしかの理由があるのかないのかあるいは、単に、語彙数が3語と2語で、語彙数の数が少ないために使用頻度が高くなったのかは定かではないが、「神」を口にするのが畏れ多いために「天国」という語彙を使用するようになったとすれば、そこに何か仏教的な観念が働いているのかもしれないと思うわけである。また、ベトナムでは、「仏様」のことを「ファット」='Phat' と呼んでいて、だから、日本で言う「南無阿弥陀仏」も「ナムアジダファット」となるようである。もちろん、「ベトナム」は仏教徒の国だから、意識的には「仏様のほうが重要」なのは理解できるが、少なくとも「仏様」=「ファット」='Phat'のせいにしたり、お縋りするような表現は見当たらない。このあたりは、ベトナム人のプライドみたいなものも存在するのか、「神様」にも「仏様」にもすがろうとする「日本人」とは異なるような気がする。
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