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『 私の人生 』と題して、私自身の事、両親や身近な偉人の事や、オススメの曲の紹介など書いたりしています。

私の人生 8

2019年05月15日 22時50分33秒 | 日記

5月15日(水)

私は、幼い頃から 母にかなり厳しく躾けられました。 行儀作法・言葉使い・隣人への愛・・・。 それは何故?

今日は、私の母の曽祖父 関口 隆吉(せきぐち たかよし)について 記してみます。
皆さんは ご存知ですか?

母の曽祖父は、幕末の幕臣で、明治時代の政治家、初代静岡県知事でした。
県知事時代には、静岡女学校(後の静岡英和女学院)の創立にも関わりました。


関口隆吉は
天保7年(1836年)、江戸本所相生町に幕臣関口隆船の次男として生まれ、関口家は今川一族の関口氏広の子孫であり、父隆船は佐倉村(現在の静岡県御前崎市佐倉)の池宮神社出身。



月岡八穂神社(静岡県菊川市) 隆吉の屋敷跡や顕彰碑がある。



慶応4年(1868年)徳川慶喜御謹慎所勤方、さらに身辺警衛精鋭隊頭取並および町奉行支配組頭となり、慶喜の警護役を務める。
江戸城明け渡しにも立会い、市中取締役頭に就任、勝海舟や山岡鉄舟、松岡万らと盟約を結び、徳川慶喜を駿河に遷すなど、幕末の戦後処理と新時代の確立のために尽力した。

明治3年(1870年)、慶喜のいる遠州城東郡月岡村(現在の静岡県菊川市内田地区月岡)に一家で居を移し、金谷開墾方頭取並となり、移住した旧幕臣たちとともに牧之原台地の開墾と大茶園造成事業に着手した。



明治19年(1886年)、地方官官制公布により、初代静岡県知事に任命される。為政者として図書活用の有用性を認識していた隆吉は、早くから「久能文庫建設ノ広告」において私費図書館である久能文庫の構想を打ち出していた。

明治20年(1887年)、静岡教会牧師の平岩愃保と共に、静岡県内初の女子教育機関である私立「静岡女学校」(現静岡英和女学院中学校・高等学校)を開校する。

明治22年(1889年)4月11日、自身が敷設に尽力した東海道線開通試運転のためトロッコに乗車中、車との衝突事故に遭い、左足足首打撲骨折の重傷を負う。
この傷からの破傷風が致命傷となり、同年5月17日に亡くなる。

≪親族≫

妻 睦(のちに改名し綾 茶道宗徧流正伝庵六世の山田宗弥の娘)
長男 関口壮吉(浜松高等工業学校初代校長)
二男 新村出(言語学者・文献学者。『広辞苑』編者として知られる)
三男 加藤周蔵
四男 関口鯉吉(天文学者・気象学者)
長女 関口操
次女 関口万寿
操の智養子 関口隆正(静岡女学校第3代校主・漢学者)

以上 インターネットから 掲載させていただきました。

静岡県の川勝平太県知事も、月岡を訪ねてくださいました。



(左端は 父と母です。母の隣は川勝平太県知事です)








関口隆吉の次女 関口万寿は、母の祖母にあたり、私の曾祖母になります。
万寿は、菊川市の月岡に住んでいましたので、関口隆吉遺徳顕彰会の皆様は ご存知です。
私も両親と 月岡や、桜が池(池宮神社)に 行きました。


私が、幼い頃から 母にかなり厳しく躾けられたのは・・・関口の家系だったからです。
祖母や母も、関口の家系の中で 厳しく躾けられたそうです。
当時、ものすごく嫌だった厳しい躾けも、今になっては 感謝しています。