ちょっと意味深な導入部分が冒頭にある小説ですが
それを過ぎると
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入口近くの山の上に住んでいた。
というさりげない語り口で、なじみ深い空間に入っていくかのように物語に引き込まれることになります。
「私」という人物が語る小説世界です。
そして、興味深く読み終わり「面白かったー」とため息をつくのですが、
その感想を人に話そうと思ったときに、はたと気が付くのです。
主人公である「私」には名前がない!!
これまで『1Q84』は天吾と青豆という主人公がいました。
『海辺のカフカ』の「僕」には、本名ではないらしいけれど、田村カフカという名前があります。
『色彩を持たないむ多崎つくると、彼の巡礼の年』の主人公は、
タイトルにうたわれているとおり、多崎つくるという名前を持っています。
でもこの『騎士団長殺し』の主人公には名前がつけられていない!
(もし「いや違う、この部分に名前がちゃんと出てるじゃないか」と見つけられた方がいたら、
教えてください。 よろしくお願いします)
なぜ名前をつけなかったのでしょう?
もちろん意図的な仕掛けだと思います。
読み終わってもしばらく名前がないことに気づかないくらい、自然な感じで物語は語られます。
そこには、作家としてのなにがしかの工夫があるのでしょう。
「私」に名前をつけなかったのは、名前をつけることによって
「個人」としてのフレームが出来上がるのを嫌ったからではないか。
名前をつけないことで「私」はどこまでも拡がっていける。そういう可能性を求めたからではないか。
それこそ、私の意識の中であれば、どんなことでも不自然ではなく、可能になるからではないか。
僭越だけどそんなことを感じます。
短編小説なら、名前をもたない語り手というのもよくある話ですが、
これだけ長い小説となると、どうしても村上春樹さんの書き手としての意図を感じざるを得ません。
これって、考えすぎでしょうか?