●昨日、我が校の高校2年生の生徒さんらにお話をする機械をいただいた。
じゃない。機会をいただいた。
●で、だ。
進学について、多くのこと(時間の使い方やら他人との交流の仕方やら)を話したのだが(詰め込みすぎたかもしれん)、その中で内田樹の研究室の費用対効果教育の一部分を活用させていただいた。
本当は刺激になる文章なので、全文読んで欲しいのだが、時間の関係でどうしようもなく部分ということに…。
●その利用した一部分というのは学力低下について論じているあたり。
長いけど、以下を引用した。
(前略)
彼らの学力が低下しているのは、彼らが「どれほど費用対効果のよい仕方で学校教育という“苦役”の対価として教育商品を手に入れるか」という「賢い消費者」になるためにそのある限りの知力を投入しているからである。
(中略)
このような心的傾向の人々に向かって「苦役」の絶対量を増やして負荷をかけるということは、さらに集中的に「費用対効果のよい仕方」の探求に知的リソースが投下されるだけの結果しか生み出さない。
「学校なんかぜんぜん行ってねっすよ」「教科書なんか開いたことない」「試験なんか、ぜんぶ一夜漬けで、あとカンニング」というような言葉が「ほとんど誇らしげ」に口にされるのは学校教育で競われているのが「何を学んだか」ではなく「いかに効率よく競争に勝つか」だと彼ら自身が信じているからである。
日本の高校生の50%以上が自宅学習時間ゼロである。
ほかに用事があるから自宅学習をしないのではないと私は思っている。
いかに少ない自宅学習時間で進級し、卒業し、あわよくば有名大学に入学し、学士号を手に入れるか、それが彼らの「知的価値」の賭け金である以上、「どうやってできるだけ勉強しないですませるか」ということが喫緊(きっきん)(差し迫って重要なこと)の課題となる。
日本の子どもたちは日々死力を尽くして「勉強しないで競争に勝つ」ための工夫を凝らしている。そこにある限りの知的リソースを投じている。
その前提には、「勉強をしないで競争に勝つ人間がいちばん賢い」という価値観が同学齢で共有されているということがある(もし、うっかり「勉強って楽しい」とにこにこ勉強する子どもがいたりすると、大変なことになる)。
そのための子どもたち内部での「勉強するなイデオロギー」の宣布運動の熾烈さはいかなる宗教の勧誘も及ばない。
子どもたちが級友たちの勉強を組織的に妨害し、そのことを自分の「得点」に数え、それが「賢いふるまい」として賞賛される・・・というループの中で、日本の子どもたちの学力は構造的に低下している。
さて、どこから手をつけていいのか、私にもわからない。
(後略)
●高校生には、やや難しい部分もあるので、軽く解説をしながら、それをふまえて学力向上の秘訣をアドバイスした。
何、簡単なことだよ、学力低下の逆をやればいいだけのことだ。
苦役を覚悟する=負荷をかける
脳みそも筋肉を鍛えるのと同様に負荷をかけないと成長しないものなんだよ。回避しないでいきましょうって感じの話をした(と思う)
費用対効果のよい仕方の探求に知的リソース(資源)を投下しない
まあ、自分に力が身につかない方向の言い訳をしないようにしようとか、逆ギレでごまかさないとか、不用意に科目を切らないようにしようねとか、切ると絞るは違うんだよとか、負荷があってもくじけるなとかを語ったような気がする。
勉強って楽しいと思う
無理って言っている生徒さんもいた。気持ちはわかる。
( ̄― ̄)(―_―)( ̄― ̄)(―_ ―)ウンウン
まあ、これも負荷=苦役の一種と思っていただけれればと。
あと、何か向上しはじめると、本当に楽しくはなるんだけどね。
その瞬間がくるといいなあ。協力はするけど、いや、先生って協力しかできんのよね。
級友たちの勉強を組織的に助け合う
勉強しようと互いに言い合うとか、お互いにテストを出し合うとか。
ちなみにおいらの場合、日本史が偏差値65くらいだったんだが、友人に70の人がいて、よく問題を出してくれたもんだ。
ある日、お礼を言ったら「なに、偏差値65の人がどんな問題を間違えるかを知りたくてさ。気にするなよ」
生涯で初めて殺意を覚えた瞬間だったやもしれぬ。
先生の授業の完成に協力する。
授業はライブ。聴衆である生徒のノリで内容も変わる。先生の実力を100%出させるような聴講をしやうみたいな話をしたのかなあ。
このあたり、代ゼミで習っていた原秀行師の「ベストの講義をします。ベストの聴講をください」(だったかな)という言葉の影響なんだろう。
●ここまでを話して、「競争は受験を前に当たり前だけど、協調もしよう」という趣旨のことを生徒さんらに語る。
生徒対生徒、生徒対教師、そしておそらくは生徒対社会。
共に協力する以外に昨日よりましになることって多分、難しい。
むろん、よりましになるのは、生徒だけでなく、教師もであって。
うまくいけば、社会もであって。
●内田樹氏が「どこから手をつけていいのか、私にもわからない」とおっしゃっているのは、おそらくは日本レベルだろう。
ウチの高校から、いや、生徒一人でいいから、一粒の種が出てくるといいなと思いながら、話してみた。
じゃない。機会をいただいた。
●で、だ。
進学について、多くのこと(時間の使い方やら他人との交流の仕方やら)を話したのだが(詰め込みすぎたかもしれん)、その中で内田樹の研究室の費用対効果教育の一部分を活用させていただいた。
本当は刺激になる文章なので、全文読んで欲しいのだが、時間の関係でどうしようもなく部分ということに…。
●その利用した一部分というのは学力低下について論じているあたり。
長いけど、以下を引用した。
(前略)
彼らの学力が低下しているのは、彼らが「どれほど費用対効果のよい仕方で学校教育という“苦役”の対価として教育商品を手に入れるか」という「賢い消費者」になるためにそのある限りの知力を投入しているからである。
(中略)
このような心的傾向の人々に向かって「苦役」の絶対量を増やして負荷をかけるということは、さらに集中的に「費用対効果のよい仕方」の探求に知的リソースが投下されるだけの結果しか生み出さない。
「学校なんかぜんぜん行ってねっすよ」「教科書なんか開いたことない」「試験なんか、ぜんぶ一夜漬けで、あとカンニング」というような言葉が「ほとんど誇らしげ」に口にされるのは学校教育で競われているのが「何を学んだか」ではなく「いかに効率よく競争に勝つか」だと彼ら自身が信じているからである。
日本の高校生の50%以上が自宅学習時間ゼロである。
ほかに用事があるから自宅学習をしないのではないと私は思っている。
いかに少ない自宅学習時間で進級し、卒業し、あわよくば有名大学に入学し、学士号を手に入れるか、それが彼らの「知的価値」の賭け金である以上、「どうやってできるだけ勉強しないですませるか」ということが喫緊(きっきん)(差し迫って重要なこと)の課題となる。
日本の子どもたちは日々死力を尽くして「勉強しないで競争に勝つ」ための工夫を凝らしている。そこにある限りの知的リソースを投じている。
その前提には、「勉強をしないで競争に勝つ人間がいちばん賢い」という価値観が同学齢で共有されているということがある(もし、うっかり「勉強って楽しい」とにこにこ勉強する子どもがいたりすると、大変なことになる)。
そのための子どもたち内部での「勉強するなイデオロギー」の宣布運動の熾烈さはいかなる宗教の勧誘も及ばない。
子どもたちが級友たちの勉強を組織的に妨害し、そのことを自分の「得点」に数え、それが「賢いふるまい」として賞賛される・・・というループの中で、日本の子どもたちの学力は構造的に低下している。
さて、どこから手をつけていいのか、私にもわからない。
(後略)
●高校生には、やや難しい部分もあるので、軽く解説をしながら、それをふまえて学力向上の秘訣をアドバイスした。
何、簡単なことだよ、学力低下の逆をやればいいだけのことだ。
苦役を覚悟する=負荷をかける
脳みそも筋肉を鍛えるのと同様に負荷をかけないと成長しないものなんだよ。回避しないでいきましょうって感じの話をした(と思う)
費用対効果のよい仕方の探求に知的リソース(資源)を投下しない
まあ、自分に力が身につかない方向の言い訳をしないようにしようとか、逆ギレでごまかさないとか、不用意に科目を切らないようにしようねとか、切ると絞るは違うんだよとか、負荷があってもくじけるなとかを語ったような気がする。
勉強って楽しいと思う
無理って言っている生徒さんもいた。気持ちはわかる。
( ̄― ̄)(―_―)( ̄― ̄)(―_ ―)ウンウン
まあ、これも負荷=苦役の一種と思っていただけれればと。
あと、何か向上しはじめると、本当に楽しくはなるんだけどね。
その瞬間がくるといいなあ。協力はするけど、いや、先生って協力しかできんのよね。
級友たちの勉強を組織的に助け合う
勉強しようと互いに言い合うとか、お互いにテストを出し合うとか。
ちなみにおいらの場合、日本史が偏差値65くらいだったんだが、友人に70の人がいて、よく問題を出してくれたもんだ。
ある日、お礼を言ったら「なに、偏差値65の人がどんな問題を間違えるかを知りたくてさ。気にするなよ」
生涯で初めて殺意を覚えた瞬間だったやもしれぬ。
先生の授業の完成に協力する。
授業はライブ。聴衆である生徒のノリで内容も変わる。先生の実力を100%出させるような聴講をしやうみたいな話をしたのかなあ。
このあたり、代ゼミで習っていた原秀行師の「ベストの講義をします。ベストの聴講をください」(だったかな)という言葉の影響なんだろう。
●ここまでを話して、「競争は受験を前に当たり前だけど、協調もしよう」という趣旨のことを生徒さんらに語る。
生徒対生徒、生徒対教師、そしておそらくは生徒対社会。
共に協力する以外に昨日よりましになることって多分、難しい。
むろん、よりましになるのは、生徒だけでなく、教師もであって。
うまくいけば、社会もであって。
●内田樹氏が「どこから手をつけていいのか、私にもわからない」とおっしゃっているのは、おそらくは日本レベルだろう。
ウチの高校から、いや、生徒一人でいいから、一粒の種が出てくるといいなと思いながら、話してみた。