チャーリーの青空トーク

60を過ぎた頑固ジジイが、ライフワークの「姓名判断」と「幸福に生きるには」を勝手に語るブログ。

清原、イイ顔になったよね。

2018-08-24 21:11:18 | 仏様・禅

清原和博氏が甲子園を訪れたそうです。
写真が流れましたが、良い顔になっています。

彼自身は甲子園に姿を見せてはいけない者と解って
いながら、出来れば・・・と思う彼の心情を周囲の
人が酌んで、彼を救おうと彼を支える人が骨を折っ
たことでしょう。幸せな人です。

以前いも清原氏の事をブログに書きました。チャー
リーはライオンズの4番だった彼よりも今の彼に魅
力を感じます。

チャーリーはものごころ付いた頃依頼50年以上のア
ンチ読売・パ・リーグファンです。彼がドラフトで読
売から指名されず、ライオンズへ行ったときは応援し
ましたよ。

思いだすのは西武対阪急戦を観に西武球場に足を運び
ました。なんとこれが幸運にも東尾・山田の投手戦!
今でも覚えていますがナイスゲームでしたネ。

話がそれましたが、甲子園で優勝しプロ野球で活躍し
富も名声も手にし人も羨む人生を歩んできた清原氏。
もちろんそこには血のにじむような本人しか判らない
他人からは見えないところでの努力があったからです。

天分・才能だけで通用するほどプロの世界は甘くはあ
りません。あれほどの事は成しえません。当然ながら
切磋琢磨の中で人格も磨かれたと確信します。

そんな清原氏でもプロ野球からの引退以降逮捕までの
数年間、満たされない思いを何故か覚醒剤よって解消
するという方法を選んでしまった。

当然ながら周囲から人は離れて行き、さらに孤独感は
増し心の隙間は益々大きくなるばかりで、どれほど苦
しんだでしょうか?自暴自棄になり自殺も考えたので
はないでしょうか?彼の心中を思うと辛くなります。

彼と出会う人間は常に彼を「4番清原」として見ます。
場合によっては持て囃し、煽て、彼からの心証を良く
しようとすり寄る者も居たでしょう。

ここに落とし穴が有るんですよね。

確かに「4番清原」は自他ともに認める存在ではあるけ
れど、それはプロ野球の世界の中であって我々が日々生
きているこの社会全体から見ればそれすらも一個の人間
でしかない。という現実があります。

謙虚に生きるという事は大切ですね。TV・マスコミなど
によって「4番清原」という虚像が彼を自信を支配し、謙
虚さを失い傲慢になり挙句に自分自身で「おれは4番清原
なんだ」という意識を持った瞬間に、人間・清原和博は消
えて別の「4番清原」になってしまった。

プロ野球の世界で大成功を収めた人が何であんなバカな事
をしたのでしょうか? 
覚醒剤を買える金があったから? 違います。 
誰かが売人を紹介し彼を上客にしたから? 違います。

彼は弱虫だったんですネ。 たとえ150kmの直球をバック
スクリーンに叩きこめる力を持っていても、彼の頭抜けた
その能力は、心の弱さの支えにはならなかったということで
す。

ここに人間が生きる上での難しさが有ります。富と名声は真
の人間の強さを示すものではありません。が、時に人は勘違
いして、虚勢を張り、傲慢な態度に出て人や社会との関係を
失くし、その延長で自分を見失ってしまいます。

これは誰にでも起こりうることです。困ったことに地位や名声
富とは全く縁のない我々市井の人々にも起こります。虚勢を張
り、他人と自分を比較する。そこに小さな優越感を見出しては
気持ちよくなる。常にそんな事を繰り返して日常生活を送って
いると「慢」に自分を奪われます。

その結果は自分が何者か?が判らなくなり、挙句闇の中で彷徨
うことになります。

ではどうすればいいのでしょう?

主体性を持つことです。「オレはオレ」「私は私」、これが基
本です。この場合のオレ・私は「裸の自分」です。なんの肩書
きも持たない自分です。

学校に通っていても、「○○校・○○大学の山田太郎」でない、
「山田太郎」です。

会社に所属していても、「○○株式会社課長山田太郎」ではなく
「山田太郎」です。

家族を持っている主婦でさえも、「山田家の奥さん山田花子」
ではなく山田花子です。

他人との比較を止め周囲からいくら持ち上げられて、「すごい
ですねー」と言われても、調子に乗らない事です。隣の芝生が
素晴らしくキレイでも、そこに競争心を持たず自分の庭をしっ
かり手入れする事です。

場合によっては、放っておいて雑草だらけでもそれはそれでい
いのです。

逆もまた真成り。たとえバカにされても、蔑まれても、差別を
受けても、「勝手に言ってろ、オレはオレだ。」とブレない強
さを持つことです。

右見て左見て「劣っている、優っている」などと一々考えるの
ではなく「主体性」を持つことです。

さらに言うなら、禅の教えで使われる、「放下著」です。
全てを棄て去ることです。

その上で、「オレはオレ」を貫くことです。

清原氏も引退後まで、「4番清原」を両肩に背負ったまま捨てら
れなかったんですね。
そんなものはとっくの昔の事なんですが、いつまでも「オレは4
番清原だ」と勘違いし、そのギャップを埋められなかったんでし
ょう。


今回の清原氏が甲子園球場に足を運んだ事は彼の社会復帰が進ん
でいる事を感じさせます。少なくとも「4番清原」から純真にボ
ールを追いかけていた高校生の自分に戻り、プロで勝ち取った名
声やその他のプロでの球歴を棄てようと試みているのだとおもい
ます。

つまずいてもいいんです。間違ってもいいんです。それを糧にし
どん底から這い上がれば・・・その先にはきっと素晴らしく幸せ
な人生が在ると信じます。

それが人間でしょう。




 

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