チャーリーの青空トーク

60を過ぎた頑固ジジイが、ライフワークの「姓名判断」と「幸福に生きるには」を勝手に語るブログ。

「禅」 を知って楽々人生を過ごしましょう。

2011-09-19 21:41:09 | 仏様・禅

今日は 「禅」 について語っちゃおうかな? なんて偉そうに言っても仏教を勉強
した訳でもないし、宗教の専門家ではないので、ただ思っている事をぶつぶつつぶや
くだけですが・・・。

チャーリーの生まれた家の宗旨は臨済宗、これ禅宗ですね。 小さい頃から、托鉢の
お坊さんにチャーリーの家でお食事をお出したり、お茶をもてなし休憩に使ってもら
ったりして、家中でお坊さん達のお世話をしていました。 

 お盆やお彼岸には和尚さんが家に来ては、仏壇の前でお経を上げ、家族皆で仏壇の
前にかしこまり、先祖の位牌に手を合わせたものです。 正座で足がしびれた事しか
思い出せませんが・・・。

その後、中学3年の夏休みに家に居ても勉強なんかしてませんでしたから、ぶらぶら
遊んでいるくらいなら、寺にでもいって修業の真似事でもして来い。 と、親父に言
われるがまま、地元の由緒ある名刹にお世話になったことがチャーリーと「禅」の出
会いでした。 

その後、夏休みの度に、2・3週間と寺の生活を体験していく内に、自分から進んで
いくようになっていました。 その寺は街に在るお寺とは違い、臨済宗の僧侶が修業
をする「専門道場」とされており、本当の意味での禅の修行が行われている寺なので
す。 何が楽しかったって、学校の勉強をしないで済む事、それとそこでの人との出
会いです。 僧侶以外にも様々な人が来ていました。 

イギリス・アメリカ・フランスなど外国からも「禅」を学びに来ている方がいました。
皆さんそれぞれの思いを秘めて寺の門を叩き、そこで何かを掴もと或いは何か答えを
得ようとしている方ばかりでした。 チャーリーはまだその頃、中・高校生ですので、
の中の右も左も解らない年齢、大人から見れば只の暇つぶしでしか無かったと思いま
す。 ただ、「禅の世界の空気」は大いに知ることが出来ました。 

昨年とある本とめぐり合いその本を繰り返し、繰り返し読んでいます。 一度、読ん
だだけではとても理解できませんし、読む度に新しい感想が生まれてくるので楽しく
読ませて頂いています。

本の題名は
「禅の読み方」 副題「いま、自分自身を再発見するために」
ひろさちや著 クレスト選書出版

仏教の「禅」を易しく解説しながら、「禅」の教えに沿った生き方を大変解り易く教
えてくれる本です。 もっと簡単な言い方をすれば「禅」を知る事によって「もっと
楽に生きる事が出来ますよ。」と書かれています。

「禅」を学んだからといって悩みが消えるわけでは有りません。 悩みを解消するのは
「禅」の教えではなくそれを実践する自分です。

「禅」は○○の奴隷になるな。と説いています。 会社の奴隷、お金の奴隷、etc 
それは言い換えれば「主体性を持て!」と言う事です。 人間が生きる為には、自分が
自分で有るためには「主体性」を重んじろ、と説いています。 主体性のない生き様は
中身が空っぽの人間のすることです。


「主体性」とは・・・。 自分の存在をしっかりと自分で意識し、自分の生き方を実
践する。 人まねはダメ! 流行を追うなんて事は最低の行為! 周りを気にするな!
自分なりに生きろ! と言う事になりますね。 

現代社会を生きている人には中々難しいかもしれません。 新聞・TV・雑誌・ありと
あらゆるメディアが主体性・自主性を奪い或いは主体性を消し去り、全ての人に無駄な
金を使わせようと必死に宣伝広告を繰り広げています。 それが経済社会です。それを
て、あれも買わなくちゃ、これも買わなくちゃ、保険にも入らなければ、海外旅行にも
行かなくちゃ、流行のに乗り遅れちゃう。  なんて、要らぬ事を考えてしまいます。 

おかげさまで、チャーリーはこの年齢でも貯金が有りませんので、無駄なお金を使わず
に住んでいます。 「禅」の教えの実践です。 笑っちゃいますが・・・。 チョット
威張っちゃいます。

例えば、「家族のために旅行に行かなきゃ。」また、誰かの為に何かをする。と言うの
も「禅」は否定します。 家族の誰かが旅行に行きたい。と願うなら勝手に行かせれば
いいのです。 大抵、家族旅行というのは、お父さんが家族を連れて旅行に行きたいが
為にするもので、実際は家族のためではなく、お父さんの欲求を満たすためなんですね。
お父さんが。「俺は旅行に行くぞ! 一緒に行きたければ着いて来い。」と言うべきも
のなのでしょうね。

日本の消費社会は全てそんなものです。 本来の行動意識が別のものに摩り替えられて
皆がやっているから、自分もやらなければ・・・。と勘違いしてしまっていますね。


著者のひろ氏は日々の生活で実践できる、「禅」の5つの根本原理を示してくれてい
ます。 それがとっても解り易くて面白い本です。

皆さんはチャーリーの心の奥のホンネを聞いたら、「こいつはキチガイか?」と思う
ほど常識外れです。 

親の教育が行き届かなかったのでしょか? そうじゃ有りません。 チャーリーの両親
は大変健全で教育熱心でした。 非の打ち所の無いような両親です。 ただ、親の期待
に応えられずことごとく裏切ってきました。 ずーっと親不孝者です。

ですから、チャーリーの常識外れの部分はという一己の人間が自分の置かれた環境から
受けた要因によって自ら形成してきた物なんでしょうね。 そりゃ、52歳の今までい
ろんなことがありましたから、様々な事を見て肌で触れて体験してきました。 その一
つ一つが今のチャーリーを造っているのだと確信します。

「禅の読み方」中での5つの根本原理の一つに、常識を捨てろ! と説いています。 
非常識のススメ、です。(あれ?どっかで聞いたフレーズ?) 常識を捨てないと、主
体性を維持できない世の中になってしまっているのでしょう。 常識は世の中が、社会
がその形態を維持するために作り出した暗黙のルールです。 が、それは人間のための
物ではなく、コミュニティーを維持するためのものですね。
 
ですから、自己の主体性を重んじる「禅」の教えとは相容れないものとなってしまった
のでしょう。 それと同じ物に、道徳があります。 「禅」の世界では道徳をも嫌い
ます。 何故でしょう? 簡単です。 社会の形態、それを維持するルールは発生して
からたかだかここ数百年です。 常識なんて物は、社会の形態が変わればコロコロと簡
単に変わります。 「禅」が追求する自己の探求は、釈迦の教え依頼、達磨を経て今日
まで2500年余の年月を連綿と常に人を救う道を追求し続けています。 

コロコロと変わる社会常識なんてモノは「禅」の世界では関係ないのです。 ですから
それに縛られ身動きが取れずに悩んでいる人に向かって、常識なんて捨ててしまいなさ
い。 と、言っいるのでしょう。  

「常識」とは不特定多数の人々がほぼ同じ価値観で物を見ることが出来る物だと思いま
す。 ですから、Aさん、Bさん、Cさん皆さんそれぞれ同じ物差し、基準で判断する
ので所謂統一規格の中で物事を判断できます。 一見便利です。 が、これが「日本の
しき風潮」横並びの世界を生み出していると思います。 また、それを社会の規格とす
ることを由、としてその事に疑問を抱かせないようにしているのが、義務教育・学校で
す。 

そうなると、学校そのものの存在が怪しくなってきてしまいますね。 でも、考えてみ
てください。 何かを研究・探求する強い意志があればその者は進んで学校に行くでし
ょう。 また、自分で勉強する手段を見つけ出し、進んで勉強・研究するでしょう。 
素晴らしいことです。 義務教育は法律で定められた決まりですから行かなければなり
ませんが、そこでは人間形成を主題にして教育が行われているかは甚だ疑問です。 一
ついえることは規格通りの人間を作る場所だということです。 

学校の勉強が出来なくたって大丈夫です。 テストの点数なんて糞食らえです。 学校
は社会の規格を身に付けるだけのところですから。 そんな物差しは生きる為には必要
ありません。  山田太郎君は山田太郎君であってそれ以外の何者でもありません。 
唯一無二の存在なのです。 皆と同じ規格の物差しを持つ必要なんて何も無いのです。

「禅」の教えは人と同じ物差しを捨てなさい。 そして、自分の物差しをもって全てを
量りなさい。と説いています。自分で答えを出せ。 さらに大事なところは、自分で問
題を提起しなさい、全てにおいて。 と言うことです。 その上で、自分の出した答え
で命を落としたとしてもそれで「よし!」としろ。 ということです。  

主体性・自主性をもう一度自分なりに考えてみましょうよ。 そうしないと、自分が自
分でなくなってしまいます。 本当の自分を発見したいものです。 

自分の心の欲するが侭に生きる。 何故? それは自分の人生だから。


チャーリー

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