ひいひいひいひい
「ひいひいひいひい」といっても、別に、腰痛に悩まされているわけではない。ま、むずかしい話ではなく、面白い話ですから、聴いてください。
「ひいひいひいひい」といっても、別に、腰痛に悩まされているわけではない。ま、むずかしい話ではなく、面白い話ですから、聴いてください。
徳川宗英(むねふさ)氏の「徳川家内緒話」は面白い。
...氏は御三卿の筆頭・田安徳川家の十一代目の当主である。1929年ロンドン生まれ。慶応大工学部を卒業後、石川島播磨に就職、子会社の副社長を最後に退職という経歴の主。
★添付の写真は、一橋家家紋
■氏の話のひとつをご紹介したい。 (以下、■から■まで)
同じ御三卿のひとつ一橋治済(はるさだorはるなり)は、大変な謀略家だったというのが通説。田安家は、八代将軍吉宗の次男・宗武を祖とする。二代目当主となった治察(はるあき)が病弱で、安永三年(1774)、跡継ぎの子どもができないうちに22歳で病死してしまった。
弟は二人いたが、すでに他家へ養子に入っている。下の弟は有名な松平定信である。定信は幼少の頃から英明と評判が高かった。しかし治済の「田安つぶし」の陰謀で養子に出されてしまったというのだ。田安家に大事が出来した祭には、定信を田安家に戻すという裏約束は反故にされてしまった。
13年間の空白の後、田安家の跡を継いだのは、治済の子で斉匡(なりまさ)だった。第11代将軍家斉の弟である。
治済は、息子二人を使って、徳川宗家(将軍家)と田安家の双方を乗っ取ったことになる。この陰謀説が真実なら、治済は飛んでもない人物であり、「とても好きになれない」と宗英氏は云う。
「でも悪口を云うのは、天に唾をするようなものなのです。治済は、私の『ひいひいひいひい爺さん』なのです」。■ 以上
……だそうである。あぁ、疲れた…ひいひいひいひい…