goo blog サービス終了のお知らせ 

織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(110)会津 「恵日寺の盛衰」

2011年05月31日 09時35分27秒 | 会津、会津地方
.



 東北紀行(110)会津 「恵日寺の盛衰」   、



会津磐梯山は猪苗代湖北方に位置する火山性の山で、頂上付近の直径約1.5kmの火口を抱き、円錐形の優美な山容を呈しているため「会津富士」ともいわれている。

万葉集の東歌にも

『 会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 
             偲ひにせもと 紐結ばさね
 』
(会津嶺の聳える国から、遠く離れねばならなっくなった、だから愛しい君とも逢えなくなれば、せめてもの偲ぶよすがにしよう そしてこの紐をしっかり結んでくれ) 

と歌われ親しまれている。


民謡にも「 会津磐梯山は宝の山よ 」という歌詞は周知であるが、宝の山は無論、豊作を叶えてくれる神様の山という意味でもある。 
古来、磐梯山は山麓部の住民から農業、豊作を約束してくれる神の山として厚く信仰されていた。 
会津全域において、収穫された稲の束を磐梯神社に納める風習があったとされ、磐梯山信仰が、猪苗代町、磐梯町だけではなく、磐梯山が見える会津全域にあったともいわれている。 


近年の明治21年(1888) 磐梯山が大爆発(裏磐梯の各湖ができた)を起こし、付近村民に大損害を与えたが、平安初期においても激しい爆発を起こし、この時、標高が2000m以上あった円錐形のたおやかな山様が、概ね今の姿になったといわれる。 
無論、周囲地域にも大災害を発生させている。



奈良の高僧・藤原徳一が会津地方にやってきたのは其の直後であった。
徳一はこの時期既に、藤原仏教文化を東北地方へ広げることを実施、行動に移していたときとされている。 

直前になって民衆信仰の山でもある磐梯山の大爆発を起こして耕地は跡形もなくなり、住む家や食物を失った人々が道端に屍を晒し、相当に難儀しているときでもあった。 
元より会津は磐梯山信仰の厚い地域であり、徳一は必然的に民衆救済の大目的をもって会津へ赴いたのかもしれないのである。


徳一は、磐梯明神に観音を授けて、慧日寺というお堂を設け、先ず、住民救済と布教活動を行ったのである。 
神仏混交された慧日寺は時代を経るに従って、次第に民衆の支持を集め、時を経るに従って隆盛を極め、一大仏教王国を築きあげたのである。

往時の寺院隆盛の頃のエリアは、現在の磐梯町の広さの数倍の規模であったともいわれていわれ、最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3800とも伝えられている。
いかに強大で凄い規模であったかが判る。



だが、さしもの仏教王国は、戦国期の天正17年(1589)伊達政宗の会津侵攻により慧日寺は炎上し、衆徒離散して廃墟となってしまう。 
その後、江戸期までどうにか存続したが、明治初期の神仏分離政策、廃仏毀釈の令とともに廃寺にされたのであった。

もし、伊達政宗が焼かないでそのまま見過ごし、又、廃仏の憂き目にあわなかったら国内でも真っ先に世界遺産になったことだろうとも言われている。、

次回、「恵日寺と振興仏教



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





東北紀行(109)会津 「高僧・藤原徳一」

2011年05月30日 09時48分43秒 | 会津、会津地方
, 


 東北紀行(109)会津 「高僧・藤原徳一」  ,



藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、常陸の国(鹿島神宮・祭神 武甕槌命)の出身で藤原氏の始祖にあたる。

大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名である。 
その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 
藤原不比等は日本という国家の大元を作った人物として有名であり、その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。


徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したのである。


石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 
常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 

つまりは、早くから開けていたというより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていた。



大和朝廷の新勢力は九州から畿内へ、更に中部、関東と広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが、この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であった。
道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。 


仏教の普及が、古代からの信仰と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。

「藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥地でもある常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出の拠点として陸奥の南端では東の街道が石城であり、そして、西の街道の「会津地方」であった。

徳一は、筑波山に中禅寺を、石城には湯の岳山麓に長谷寺を置き、磐梯山麓に恵日寺を置いて根本道場としたのである。 

その時、藤原家の相当なる経済的、政治的な側面援助があったことは言をまたない。 

次回、「恵日寺の創建



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





東北紀行(108)会津 「慧日寺の古縁起」

2011年05月29日 11時56分49秒 | 会津、会津地方
.



 東北紀行(108)会津 「慧日寺の古縁起」  ,


先ずは、小生の故郷でもある同じ東北の石城地方について・・! 。

石城は古くからは関東圏に内包され、東北地方ではもっとも早く開発されて、大和朝廷化した地域であることは確かとされている。 

弥生文化といわれる生活様式も鉄器、稲作などが導入されたのも比較的早く、そして海の幸・山の幸を含めると、石城地方がある時期、東北地方でもっとも豊かであったらしい。 
季節的にも普通云われる東北のイメージとは異なり、雪などはめったに降らない温暖な地で、東北の「湘南」とも言われている。 


東北南部は、蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(平城京)へ向かおうとした地域とされている。 
だが、平安初期のこの時期、「坂上田村麻呂」により遮断され、更に蝦夷の動乱は田村麻呂によって悉く阻止されている。 

朝廷の東北進出は初め武力が主であったが、経営的には文化の両面からも行なわれたとされ、その文化の面では特に「宗教」に力を入れたのではないかと思われるのである。


飛鳥初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の詔が出されるまでに到る。 
後に、布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は仏教教化の重要な拠点であったのではないかとも言われ、その中の一人に「藤原徳一」という名僧がいたことは史実でも明らかにされている。


徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男と伝えられている。 

初め東大寺や興福寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下った。
新興宗教の空海とも相容れず、最澄との間で一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)を展開したことは有名である。 
この間、常陸国筑波山、陸奥国会津など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。



大和の三輪山  、

我が家の実家(いわき湯本)から徒歩で10分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、「徳一」が開基した寺とされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。
 
徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 
それは、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないといわれる。 
古来、湯の岳は地元民衆の根本的な信仰の拠り所であった。

徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。
この山全体が徳一観音信仰の霊場と決め、 修行に勤しんだのかもしれない。 

徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。



奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。 
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 
神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 
つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきて、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。
日本において神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称した。
そこで三輪神社の神宮寺は、大神寺、通称、大御輪寺であった。

三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。
神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになった。 
さらに日本全土を大和と呼び習わすようになったといわれる。 

大和朝廷の都の成立であり、その信仰の中心的支柱が「三輪山」であり、歴代天皇家の地となった。

これら大和朝廷及び天皇家を擁護し、画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 
製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 

「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。
ここで現われたのが高僧・藤原徳一であり、徳一は宗教文化普及のため蝦夷(えみし)の国・東北に出向いたのであった。


次回、「高僧・藤原徳一



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」






東北紀行(107)会津 「磐梯山・慧日寺」

2011年05月28日 09時19分39秒 | 会津、会津地方
.


 東北紀行(107)会津 「磐梯山・慧日寺」  ,


三つのゾーンの内、次に「戒壇地区」は本寺地区の西方にあり、丘陵末端部を利用して作り出された小山状の遺構が残っているという。 
「戒壇」とは、出家するための戒律を授ける場所で、戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。 日本では754年(天平勝宝6)に中国から鑑真を招き、東大寺大仏殿前に設置したことに始まる。

慧日寺の戒壇跡と伝えられてきたスペースは、その後の発掘調査によって平安時代の石塔や火葬骨片が出土し、墓域ではないかとも推定されている。 
尚、戒壇跡遺構の南側水田からは礎石建物や掘立柱建物、製鉄炉の遺構まで発見されているという。


次に「観音寺地区」は本寺地区の北東1.7km、二子山の麓・標高570~590mの山中に位置しており、5棟の礎石建物跡が露呈している。 
未だ発掘調査はまだ行われていないが、規模や配置から門、塔、本堂、倉の跡と推定されているという。

これら慧日寺の規模は、当時の奈良や京都に匹敵する仏教文化が会津にあったことを物語り、
これら史跡をぐるっと巡るだけでも凡そ1時間半もかかるという。


現在、磐梯町内のほぼ2割、17万平方メートルが国の史跡に指定されているが、往時の寺院隆盛の頃のエリアはこんなもんではなく、現在の磐梯町の広さの数倍の規模であったともいわれている。
最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3800とも伝えられ、いかに強大で凄い規模であったかが判る。


だが明治2年(1989)の廃仏毀釈によりさしもの大寺も 大半が廃寺になったが、大正2年(1913)には毀釈令も解かれ、往年の恵日寺を目指して徐々に復興を目指している。 

現在は、慧日寺跡として発掘調査が行われ、近い将来には主要建物を復元されるという計画もあるらしい。 
2007年4月、国の重要遺跡指定を受けている。



慧日寺の開基は、平安初期の大同元年(806年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との因果関係には人民信仰の必然性や山岳信仰上の関連もあるのではないかする見方もある。


開祖は、平安の初めに南都(奈良)法相宗の高僧・徳一によって開かれた寺院で、東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のものとされる。
他にも、徳一大師が開基となったといわれる寺院は会津地方を中心に福島県内に30数件あるともいわれる。

徳一大師は更に、東北の奥地へ足を延ばそうとしていたらしいが、会津より山一つ越えた米沢あたりで止まったとも見られる。 
米沢では徳一の開基といわれる笹野観音(米沢市笹野本町)が祀ってあり、伊達氏、上杉氏の信仰も篤かったといわれる。

次回、「慧日寺の縁起




【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





東北紀行(106)会津 「会津地方の仏教文化」

2011年05月27日 11時15分08秒 | 会津、会津地方
.



 東北紀行(106)会津 「会津地方の仏教文化」   、




写真:慧日寺・金堂の復元工事は、平成17年12月から2年4ヶ月にわたり無事竣工。 一般公開されている。(資料)



会津地方についてはもう一つ大事なことを記さねばならない。
小生の田舎、同県の「いわき湯本」の項で湯本温泉や湯の岳、長谷寺、そして藤原徳一と仏教文化に関する事項を長々と述べたが、古代、この地方でもまったく同様か、或はそれ以上の壮大な規模で、一つの仏教文化が花開いたのであった。
それは、会津の人々の心の支柱にもなっているかも知れない精神文化、巨大な仏教文化の華が開いた時期があったのである。 


会津地方の人たちのねばり強さや頑固さは、厳しい環境の中でも信念を曲げずに意志を貫いたのは、「徳一大師」にそのルーツがあるともいわれ、徳一という名前を知らなくても会津の人々は知らず知らずのうちに徳一の心に包まれながら生きているのかもしれないのである。
それは「慧日寺」という古いお寺で、藤原徳一という奈良の高僧が創建した一つのお堂から始まるのである。


会津若松の北側の隣町に磐梯町がある。 
磐梯の町並みの北側一帯、大きくは磐梯山の麓、近くをいえば雄国沼を囲む古城ヶ峰、二子山、扇ヶ峰の山腹から直下にかけて広大な規模の「慧日寺」の境内が広がっていたのである。 
端的いうと、盛んな時期にはこれはお寺の境内というような規模ではなく、慧日寺本堂を中心とした仏教王国が展開されていたといってもよいかもしれない。

最近では地元の人々の長年の宿願が叶って慧日寺金堂が再建されたのをはじめ、現在、建物は徳一廟、薬師堂、恵日寺、磐梯神社、不動院龍宝寺、馬頭観音被覆堂など伽藍、お堂、宝塔などが広大なエリアにぽつぽつと確認されている。

その広大な寺跡は昭和45年(1970年)に国の史跡として文化財にも指定され、将来に向けて復元整備が図られているところであり、平成20年4月に真新しい真っ赤な金堂が復元され、一般公開される運びとなっている。
将来的には、史跡公園として一部の重要な建物を復元しつつ、付近一帯が重要な文化財として広く公開される計画であるという。


この広大な境内地域は三つのゾーンに分かれているという。
中心地域である「本寺地区」は、慧日寺の中心伽藍があった場所で、発掘調査によって創建当初は中門、金堂、講堂、食堂と推定される主要な建物が南北一列に建立されたことが判明している。 

また、現在は中心伽藍遺構の東側に薬師堂と仁王門、さらにその東に龍宝寺不動堂と乗丹坊供養塔、中心伽藍の北には徳一廟が残されている。 
現在の薬師堂は明治時代に再建されたものという。 

徳一廟の内部には平安時代に建立されたと推定される五輪塔があり、徳一の墓と伝えられている。 
また、龍宝寺不動堂裏手の森には往時のものと思われる土塁や石塁が現存している。 
現在、中心伽藍跡は史跡公園として整備されており、平成20年(2008年)には金堂が復元された。

次回、「磐梯山・慧日寺




【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




.