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織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(105)会津 「斗南藩士(2)」

2011年05月26日 19時07分40秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(105)会津 「斗南藩士(2)」  ,


陸軍大将・柴五郎は、旧会津藩士・柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれてる。

会津・日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。 
新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母と妹は自刃して果てた。

八歳の時、斗南藩への転封が下され、その後は北奥でのどん底の開拓生活が待ち受け、一家は辛酸をなめた。 
彼は後に、斗南藩時代を書いた「野辺地日記」や不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著を残した。

彼は廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、日清、日露戦争での活躍により大正2年(1913)には陸軍中将に、大正8年(1919)には陸軍大将なり、後に12年の予備役となっている。
薩摩・長州の藩閥(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府で、陸軍大将にまで進んだ人物・柴五郎は、会津藩士として武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた会津人であったという。

新天地斗南藩(青森県)へ移住した後、北の冷涼の痩せた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよった。 


挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに対し、父は、『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ・・、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・』と、常に叱責していたという。

 
会津藩士としてもう一人の傑出した人物がいた。 白虎隊士から東大総長へ出世した「山川健次郎」である。 

彼は会津藩士・山川尚江(なおえ)の三男として生まれている。
山川家は代々300石の中級藩士の家柄であった。 
だが、祖父の代には家老職となり家格をもりたてたが、父は幼い時期に亡くしている。 
兄は山川大蔵(後に浩:会津藩家、官位は陸軍少将男爵)、妹は後に鹿鳴館の華と云われた山川捨松(後の薩摩出身、元帥、陸軍大将・大山巌の妻)である。

15歳の少年の頃白虎隊に入隊したが、訓練の段階で鉄砲があまりにも重過ぎて健次郎を訓練から外したという。 
城に戻り籠城戦に加わったが、雨あられとふる弾丸の中で、毎日この世の地獄を見ていた。 そして、ついに城に白旗があがった。

会津戦争で敗戦後、猪苗代に謹慎していたが、その後、越後に脱走、こともあろうに長州藩士・奥平謙輔(長州・吉田松陰の門下生、明倫館の秀才で後の会津戦争では北越軍の参謀として参戦)の書生となっている。 
奥平氏に教授された健次郎は、アメリカへの留学生に選抜され国費で渡米している。

その後、彼は東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長を歴任していた。

次回、「会津と仏教文化




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東北紀行(104)会津 「斗南藩士(旧会津藩)」

2011年05月25日 11時50分29秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(104)会津 「斗南藩士(旧会津藩)」   ,


下北半島は、本州と北海道の間に斧のような形に突き出した半島である。 
陸奥湾と太平洋を隔てる斧の柄の部分は、それほど高い山もなく、JR大湊線の車窓からは今も荒涼とした淋し気な景色が続く。

市街地から大湊駅を左に国道338を行くと、「斗南藩士上陸之地」と古ぼけた案内板が有った。 
普通の人なら目にも留めないで、通り過ぎてしまうような地味な所である。
やや細まった道を海岸に出ると、奥の方にその碑はあった。
その碑は会津若松市の方向を向いて建てられているとのこと。
明治3年6月10日、新潟から乗船した1800人の旧会津藩士とその家族が、 ヨウヨウにして到着、上陸した場所であった。  (小生;日本周遊紀行より)

日本周遊紀行: 陸奥・むつ 「旧会津斗南藩
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-5.htm



大きく世の中が変革を遂げようとする時期、この野辺地の港に明治3年、旧会津藩の船が入港してきた。 
その中に、会津藩士280石取の柴佐多蔵の五男として会津若松城下に生まれた「柴五郎」が含まれていた。


品川沖からアメリカの外輪蒸気船に乗った五郎らは、まず野辺地港に入り、島谷清五郎の呉服屋を経て「海中寺」という寺に止宿していたようである。 
このときの様子を柴五郎は、「野辺地日記」に記している。
その後、田名部(現、むつ市)の「落の沢」に移り、柴家永住の地との決意を持って移住した。
旧会津藩士(斗南藩士:明治期、廃藩置県で藩はなくなるが、)・柴五郎は、後の会津若松初の陸軍大将になった人物であった。


斗南藩・落の沢について五郎は、後にこう述懐している・・、
『 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、隣村の大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり・・。霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることまれなり。犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。 』・・と。


戊辰戦争で苦杯をなめた会津藩は戦後、新政府により会津松平家の再興を許された。
領地として旧領内の少区域の猪苗代湖畔、もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。

その際「 農業により領地の財政基盤を築くこと 」との条件があったため、衆議の結果、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。 
新しい藩名は「斗南」(となみ)と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。
その中に柴五郎らの家族もいたのであったが、そこは火山灰土の風雪厳しい、農業には全く不向きな不毛の土地であった。

『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ・・、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・!! 』

次回、引き続き、「会津・斗南藩士



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東北紀行(103)会津 「戊辰戦争(2)」

2011年05月24日 11時33分04秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(103)会津 「戊辰戦争(2)」 



会津藩の戦い・・!!

1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を上げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。 

慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。 
しかし幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。 
だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。 
そして遂に「奥羽諸藩」による会津追討の命が下る。 

しかし、奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。 
遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。



戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。 
近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非=えせ官軍と言う)に、母成峠、戸の口(猪苗代湖の北西部、飯盛山を掘りぬいて作られた会津盆地の灌漑用水路。戊辰戦争の時、白虎隊が追手から逃れる抜け穴としてこの水路を利用したといわれる)と攻められ城下まで戦火は及ぶ。
この時期に会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。


藩士家族は城内へ・・!  、

敗色濃厚、やがて鶴ヶ城は落城確実と見られた折、藩家族の一部は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。 
藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。
 
藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する。 (実質的に会津藩の滅亡) 

 
その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。
数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。

次回、北の果て;「斗南藩士



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東北紀行(102)会津 「戊辰戦争(1)」

2011年05月23日 09時15分26秒 | 会津、会津地方
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  東北紀行(102)会津 「戊辰戦争(1)」  ,






『鶴ヶ城』 戊辰戦の弾痕跡も生々しく、今にも朽ちそうな鶴ヶ城(資料)と現在の姿




国道121号線は会津若松の中心市街へと連なる。 
更に、悲劇の城郭・「鶴ヶ城」の横を通って東山温泉へ向かう。


同県出身(福島県いわき市湯本)の小生は、会津若松は既に何べんとなく訪れている。 
今更ながらであるが若松は幕末悲劇の町の象徴とされていて、それらに関する史跡や神社仏閣、記念館などが数多く残っているのは周知である。 
だが、戊辰戦争の強烈なインパクトによって、それ以外の歴史的遺構は陰に隠れて霞んでしまうほどである。
それでも会津を訪ねるとき、この偉大なる大事変についつい魅入られてしまうのである。

過ぎる年、「早乙女 貢」の大河歴史小説・『会津士魂』を読破した。 
会津に遠籍を持つ早乙女 貢のこの本は、全二十一巻の大長編物語で、殆どが史実にもとずいて書かれている。
特に後編の本州の果て、下北を舞台にした続編は、万感胸に迫るものがあった。
ここで、会津に関連しながら簡略な幕末史を覗いてみよう。



時代が変換してゆく中には必ずと云っていいほど、それなりの戦役を体験している。
中でも戦国期以降の大事変については、「関が原の戦い」、「明治維新」、そして「太平洋戦争」が日本の歴史上の大転換点であり、更に現代がそれに次ぐ時代とも言われている。
特に近代への入り口である明治維新を知ることは、現代に通じるものも多いと思われるのである。



幕末の動乱期・・・!!  、

幕末の動乱期、「会津藩」は京都で京都守護職という役職につき、「新選組」を擁して京都を浪士達から守っていた。 
ここでの浪士・不穏分子とされていたのは薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派たちの所謂、急進派であった。 特に過激な浪士が民家を襲い、市中を混乱させていた異分子である攘夷浪士達を、新撰組が取り締りに当たっていた。 
この様な世相の中、会津藩藩主・松平容保(かたもり)は将軍・家茂、孝明天皇から絶対の信頼を得て任務にあたっていた。

この時期、京を騒がしていたその最たる事件が世に言う「池田屋事件」であろう。 
その後、「八.・十八の政変」(1863年8月18日、長州が京から追われ、同時に七卿も落ちる)や「禁門の変」で、薩摩藩とともに長州藩を追放するが、この長州追い落としの際、中心となったのが会津や桑名藩であり、この事が後に長州が会津に対する恨みの要因となったといわれる。

同じ時期、将軍・家茂(いえもち)が亡くなり、孝明天皇の崩御で時態(事態)が急変する。 後任の25代将軍に徳川慶喜(よしのぶ)が就任することになり、そして風雲児・坂本竜馬らの仲介のもと、「薩長同盟」が結ばれている。 
幕府の屋台骨がぐらつき内政外交で窮地に立たされる中、薩長土佐の勢いが増す。 
そんな中、政局難に陥った慶喜は「大政奉還」(政権を天皇に返す)を行い、更に「王政復古」を行い、朝廷からは慶喜に謹慎、領地の没収などの命が下る。

次回、更に「戊辰戦争」



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東北紀行(101)喜多方 「酒、蔵、ラーメン」

2011年05月22日 10時01分36秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(101)喜多方 「酒、蔵、ラーメン」  ,





市内、酒蔵所MAP(酒蔵奉行所)




古くから酒や味噌などの醸造、そして蔵、ラーメンの街として著名になった・・! 、

道の駅は山間の長閑な雰囲気の静寂な地にあった。 
駅の裏には最上川の支流である鬼面川の清流が流れている。
これより新道なった大峠を越えると、福島県であり蔵の町、最近ではラーメンでも有名になった喜多方である。 


喜多方は、会津若松地方の北部に位置し、かつては北方(きたかた)と呼ばれていたという。
明治初期に小荒井、小田付などの各村が合併して北方から「喜多方町」が成立している。

会津が蒲生氏郷の時代、城と城下町の整備を命じ、武士と商工業の城下町集住を推し進めた。
一方、農業の整備も行い城下町以外の地を広く開拓し、農村での定期市なども開催した。 
以降、会津地方では若松を城下町、北の方・喜多方を農村部の都市的空間の在郷の町とした。 

喜多方が「蔵の街」として全国に知られるようになり、今日にその姿を残していたのは、当時の農産、醸造物などを保存するためのものでもあったのである。

「 喜多方は、いい米にいい酒、そして今や蔵と美味しいラーメン王国・・!! 」


喜多方には2600棟余の蔵があると言われている。
このように多くの蔵が建てられた理由として、米や農産物の貯蔵もさることながら、それ以外に酒蔵、味噌蔵として使われている蔵が多いと言われる。 
それは、この地が良質の水と米に恵まれ、醸造業を営む場として蔵が最適な建物であったことがあげられる。

だが、もう一つの大きなきっかけとなったのが、明治13年の大火であったともいわれる。
この火事は市の中心部の約300棟の家々を焼き尽くしてしまう。 その後は火に強い蔵造りの建物が多く建てられてきたことであった。


喜多方市は人口3・5万人(2006年の合併後5万人)に対し、120軒ほどのラーメン店があるという。 
これは対人口比では日本一であり、知名度に関しては札幌ラーメン、博多ラーメンと並んで日本三大ラーメンの一つに数えられることもある。
元より、喜多方は「蕎麦」(そば)の産地でもあるため、ラーメンの事を指すときは「支那そば」と区別して呼んでいた。 

日本では元々、そば類は「日本そば」が古来よりの食種であり、昭和の始めに支那風の面が出来たことから区別する意味で「支那そば」と称していた。

喜多方では昭和初期、市内ラーメン店の主人が小麦粉とそば粉ミックス中華麺に近い「支那そば」を打ち、日本そばの単純な味とは異なる豚骨スープなど中華風の味にしたことで評判をよんだという。

当時は、戦争の影響による食糧難の時代でもあり、この「支那そば」は市民にとって素晴らしいご馳走であり、その味はやがて市民生活に浸透していくこととなった。
その後、PRやマスコミ報道で一躍知られるようになったという。

それにしても、札幌や博多という大都市圏で広まったのにラーメンに対して、こちらは東北の小都市から発信され全国的に有名になったのには驚きであり、敬意を表するしだいである。



喜多方の町並みはからは殆ど途切れることなく会津若松の市街地へと連なっている。
会津若松はおしなべて大都市とは言いがたく、喜多方が若松のベットタウンではないかもしれない。 しかし、会津若松の衛星都市、郊外のよなもので共に特色を出しながら栄えているようだ。

喜多方は「戊辰の役」においては直接的な大規模戦闘や被害はなかったようだが、闘将家老・佐川佐川官兵衛の家族が避難してきた地であり本人の墓地もある。 
当然ながら、戦役に関連した史跡や墓地なども数多く残っているようである。

次回、会津・「戊辰戦争



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