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織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(100)米沢 「米沢街道(会津街道)」

2011年05月21日 11時13分01秒 | 出羽・庄内の道
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 東北紀行(100)米沢 「米沢街道(会津街道)」  ,


国道121号線を行く。
この国道、山形・米沢では会津街道と呼び、会津からは米沢街道とも称している。 

街道の呼び名は各地方によっても異なるが、普通、行き先を告げたものが多いようである。 又、行く先の相手に敬意を払っての呼称かもしれない。
米沢と会津では西に聳える飯豊山の山脈が東に延びていてゆく手を塞いでいる。 

戦国期から江戸期にかけて、この山中を二つの米沢街道(会津街道)が貫いているのである。 
一つは大峠を越えるこの旧国道121号線であり、もう一方は5kmほど東にある桧原峠を越えて桧原湖畔をかすめる街道であった。


慶長3年(1598年)、秀吉から120万石を賜った上杉家は主城を会津(当時は黒川といった)に置き、主君上杉景勝が入った。 
一方、米沢は景勝の家老を勤めていた「直江兼続」が30万石で居を構えるようになる。

当時、僅か数年間であるが景勝は領地や米沢と会津を結ぶ主要道路の整備を行い、主君家と家老家は頻繁にこのいずれかの街道を行き来していたのかもしれない。


因みに、大峠越えの道が開かれたのは戦国期の天正13年(1585年)頃とされ、米沢の伊達政宗が会津侵攻の道として、ひそかに開いたとされる。 
一方、桧原峠越えは陸奥の国(会津)から出羽の国(米沢)て通じる道として、古代(8世紀代)には開かれていたらしく、戦国末期の永禄(1560年代)年間には米沢の伊達氏と会津の蘆名氏が檜原峠付近で攻防が繰り返されていたという。




会津街道;田沢地区にある道の駅・「田沢なごみの郷」



米沢から喜多方へ抜ける国道121号線の「入田沢」は、この国道沿いにある農村でここをを過ぎると喜多方への山越えとなる。
入田沢は小さな集落だが、訪れてみると民家が数棟あり、中門造りの藁葺きの民家は重厚な造りでなかなか良い集落である。

ここに道の駅・「田沢なごみの郷」があった。

豪奢な曲がり屋の建物がメインで、何でも180年余の間、農家として実際に使用されていたらしい。
建物はどっしりとした風格でほっと安らぎを与えてくれる雰囲気もある。 
中には売店と簡素な食堂がある。 

見るべきは やはり建物の中の柱や梁であろう。
江戸期や明治の庄屋や豪農の家屋を見るような造りで、特に屋内に横たわる黒ずんだ梁が縦横に走る作りは迫力がある。 
又、本来は当然ながら茅葺き屋根のはずであったが、消防法の都合で葺き替えてあった。






田沢地区、道の駅・「田沢なごみの郷」に立つ草木塔と説明板



ところで、この田沢地区には日本最古の草木塔があり、 草木塔発祥の地とされているらしい。 
この道の駅にも自然石では日本最大の草木塔(高さ4m20)を設置してあり、これには「自然保護」や「国土保全」 の意味合いが有るらしく、当地ではこの思想を全国にアピールしてゆきたいと考えているようである。


草木塔とは、「草木供養塔」のことである。
この塔は、山形県の置賜地方(内陸部南部を指す地方名)を中心に残されている石碑だそうで、現在、確認されている数は60基を越えるといわれる。 
このうち、最古のものは、米沢市塩地平にある草木供養塔で江戸中期頃、今から330年前に建立されている。

このきわめてユニークな石碑の由来は、草木の生命を人々の生活に取り入れるために採取したり、伐採したりした草木の霊を慰めようという思想から生まれたものと考えられている。 
今で言う環境保護の原点がここに在ったのである。
 
次回、「喜多方の産物



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東北紀行(99)米沢 「上杉鷹山」

2011年05月20日 09時26分59秒 | 出羽・庄内の道
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 東北紀行(99)米沢 「上杉鷹山」   、




上杉神社、参道横に立つ「上杉鷹山(治憲)」像




この時期、政権を手中にした太閤・秀吉は老齢に達していた。
上杉家の奥羽・米沢移転は上杉家の希望だけではなく、むしろ豊臣政権側の都合が大きかった。 
この頃、豊臣二代目と目された秀頼には有力な身内がいなかった。

豊臣家臣・五大老の中でも徳川家康が図抜けていて、何より、“太閤秀吉に負けなかった男、太閤様の次はと徳川様”と影での評判も囁かれた。
秀吉は家康に対抗できる第二の人物を作ることだった。 

前田利家も有力視されたが、領地は家康の3分1 程度であり、これを補うために第三の策として家康を牽制する勢力を作った。 
それが奥州・上杉家120万石であった。

転封に当って景勝は・・、
「 よく判っておる。3年の内に地を計り、組を整え、城を築き、道を敷く、それができれば誰にも勝手な事はさせぬ 」
慶長3年(1598年)、44歳になった上杉景勝は、そう言い切った。 
そして心に念じた。
「 俺は越後上杉2代目ではない、奥州・上杉の創業者だ 」と


上杉景勝は家老・直江兼続に30万石を与えて米沢に入れ、伊達氏及び山形の最上氏に対する抑えとした。 
しかし、秀吉が没して数年後、徳川家康による「関ヶ原の戦い」が始まる。 
結果、東軍が勝利したが、上杉氏は家康に敵対したため1601年(慶長6年)、景勝は120万石(会津・白河・出羽国・越後国、佐渡国など)から30万石に減封され、居城も米沢に移した。 
兼続は米沢城を景勝に譲り、「米沢藩」が成立する。

石高は30万石から、後に15万石に減封されている。 
しかし、相次ぐ減封にも拘らず、家臣の数は120万石当時とほぼ変わらなかったため、当然のごとく財政難に苦しめられて民衆も極度の困窮した。


ここで登場するのが上杉家中興の祖といわれる九代藩主「上杉治憲」(鷹山;ようざん)であった。 
鷹山は米沢藩再生に伴う藩政改革、財政再建した人物であり、江戸時代屈指の名君として現在に到るまでその名が知られている。

有名な鷹山の一言

『 生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり 』


又一方、米沢藩には世を騒がした藩主もいた。 
元禄赤穂事件の、もう一方の主人公である「吉良上野介吉央」の息子である三之助は、縁あって名門上杉家の家督を相続し、第四代当主・上杉綱憲となっている。

刃傷・松の廊下以来、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り戦闘の末、上野介の首級を挙げる。 
この時、上杉藩主・綱憲は父・吉良吉央の仇討ちに出兵し、赤穂浪士を逆に襲撃しようとするが、家老・千坂兵部高房によって押し止められる。


上杉神社」は、藩祖・上杉謙信を祀り、上杉鷹山を合祀している。 
参道には鷹山公の銅像も立つ。 

又、「上杉家廟所」は上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公を中央にしてその両側に12代までの藩主の廟が並んでいる。

次回、「会津若松へ」



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東北紀行(98)米沢 「上杉氏」

2011年05月20日 09時24分58秒 | 出羽・庄内の道
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 東北紀行(98)米沢 「上杉氏」  ,

 

山形・南陽道から米沢の北を通って会津街道へ到る。

米沢も過ぎる年、山形観光の帰りしな、上杉家に関連ある神社や廟所、寺院を見学している。
やはり、米沢は上杉家の街であり、上杉家に関する地域造りや行事、祭りなどが盛んに行われている。 
上杉氏との縁で出身地でもある上越市との関係も深い。


元より米沢は戦国期は伊達氏の本拠地となっていて、独眼竜こと伊達政宗は米沢城で生まれていて、仙台へ移転するまで米沢を支配していた。 
しかし、豊臣秀吉の時代以降には上杉氏が奥州、米沢を領地にしている。

上杉氏(謙信;長尾景虎)は何といっても戦国時代、宿敵武田信玄との五度にわたる「川中島の合戦」は名高い。



上杉氏の元を辿れば、発祥地は丹波の国・上杉の庄(京都府綾部市)を領して上杉を名字とし、公家(朝廷に仕える貴族・文官)の家柄であったという。
室町初期、鎌倉公方・足利基氏の執事(関東管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した。 
族として主に山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ・こちらも鎌倉の地名))二家が出ているが、関東管領の職はもっぱら山内・上杉家の当主が独占した。  
小田原北条氏が関東の覇権をするの及んで、上野(こうずけ・群馬)の国に所領を持つ山内・上杉憲政は関東を放棄して、越後守護代として勢力を張る長尾氏を頼り、関東管領の職を長尾景虎(上杉謙信)に譲ったのである。 
この時、扇谷上杉家は後北条氏に敗れ滅亡している。 

長尾氏は上杉と名乗り、景虎は越後の春日山城にて初代上杉藩主となる。 
だが、上杉謙信は越後を平定した後、関東への陣触れ直後、脳溢血で倒れ。
享年49歳であった。

謙信が亡くなると「御館の乱」で、謙信の二人の養子である景勝と景虎が後継者争いをし、景勝が勝利して上杉家第二代当主となっている。

豊臣政権になると上杉景勝は豊臣秀吉の重臣となり、秀吉の五大老まで登りつめた。

次回、「上杉鷹山



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東北紀行(97)上の山 「上の山方」

2011年05月18日 11時34分00秒 | 出羽・庄内の道
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 東北紀行(97)上の山 「上の山方」   、




蔵王山の麓にあることから、克っては、この地方を「山方」と呼ばれており、大きく分けて南側を「上の山方」と呼び、北側を「下の山方」という呼ばれていたらしい・・!


再び蔵王エコーラインから、今度は直に「上の山」(かみのやま)へ下った。
上山バイパス(国道13号線)から市街地のほぼ中央、白い城壁の上山城がチラホラ見え隠れしている。

思えば、一昔前に山形の名所である出羽三山や最上川、立石寺などを周遊した時に、都会風の温泉地でも知られる上山温泉に宿泊している。 
あの時、城下近くの旅館に宿泊し、お城・天守閣を見物していた。 
白い城郭の中は鉄筋コンクリートの作りでエレベーターも設置され、上山の文化や歴史を知る資料館になっていた。


上山城は城主を代えながらも、戦国期には華々しく活躍した城であった。
戦国期には山形の最上氏と米沢の伊達氏(前の領地;伊達政宗はこの地で出生している)が、この地で何度も攻防戦を繰り広げている。 
又、関ヶ原の戦い当時においても上山城(米沢上杉氏)が山形城(最上氏)への最終防衛ラインの一つとなり最上勢が上杉勢を食い止めた場所ともなっている。

しかし、江戸期の城主・土岐氏の改易によって幕府の命により跡形もなく破壊され、それ以降、上山は城を持たない城下町になっていた。


上山は羽州街道と米沢街道の交差する交通の要所として知られ、宿場町としも大いに栄える。
又、温泉は15世紀頃には既に開湯せれていて良質な温泉としても世に知られ、会津の東山、庄内の湯野浜と並び、奥羽三楽郷の一つに数えられている。 
江戸期には上山藩直轄となり共同浴場などを開設、湯治客だけでなく羽州街道の旅人や住民まで解放し多いに賑ったという。 

上山は城下町、宿場街、温泉街の三つを兼ね備えた都市で、全国的にも珍しいとされる。


古来よりこの周辺地域は蔵王山の麓にあることから「山方」と呼ばれており、大きく分けて南側を「上の山方」と呼び、北側を「下の山方」という呼ばれていたらしい。 
下山方」は後に「山形」と呼ばれるようになり、「上山方」は「上山」と呼ばれるようになったという。

普通一般に上、下の呼び名の違いは、神や氏神社に近い方、都に近いほう、或は実際に高地にあるため“上の地”(うえのち)と呼ぶ場合がある。 

「上山」はカミノヤマと読んでいて、実際にどういう理由で「上」になったかは定かでないが、 因みに、越後・新潟を上、中、下越と称しているが、都に近い方を上越と呼んでいるらしい。

次回、「上杉氏



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東北紀行(88)山形 「戦国武将・最上義光」

2011年05月07日 15時19分57秒 | 出羽・庄内の道
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 東北紀行(88)山形 「戦国武将・最上義光」   、



霞城跡(山形城址)と最上義光像



山形周辺は観光のメッカで、北の出羽三山から西の面白山高原から蔵王連峰、それに山寺の立石寺など全国的にも名が知られている。 

そして市内では戦国武将・最上義光に縁のある東北一の規模とされる木造建造物の専称寺や最上義光記念館、大正時代の洋風建築で旧県庁舎の文翔館、旧済生館本館など、そして何より山形の歴史を彩った霞城跡(山形城址)などが見所であろう。

霞城跡は山形駅のすぐ北側、奥羽本線の線路際にお城の大きさは約70万坪という
広大な敷地を抱き、現在は「霞城公園」として市民に親しまれている。
御城は戦国期の最上義光の時代に造られたという。 


元々、山形城と呼ばれていたが、別名「霞城」と呼ばれるようになった理由は、関ヶ原の合戦の頃、奥羽の関が原といわれた上杉・最上氏の戦いにおいて、直江兼続(上杉軍)が麓からお城を十日間見てたが霞がかかって何も見えなかったことから付けれたとも云われる。


山形城は、かっては本丸・二の丸・三の丸と城の主要な機能が配置されていたが、今はその殆んどが失われていて跡地を残すのみとなっている。 
現在、設計資料などを基に復元や復元する計画が実行されつつあると言うが・・!。



最上義光は最盛期には、東北では伊達政宗に並ぶ名将とされている。 
ただ、戦国武将としては余りに有名な伊達政宗の影に隠れてはいるが、実は、正宗は母方の関係で義光の甥にあたり、つまり伊達政宗の伯父がこの最上義光であることから、両者は親戚関係でもある。

関ヶ原の戦いに先立って、米沢城の上杉景勝の命を受けて直江兼続を最上義光の長谷堂城(山形県山形市大字長谷堂)に侵攻させるが、義光はこれを迎え撃ち、関ヶ原の戦いで西軍が敗退すると、今度は退却する直江兼続を追撃し戦功を上げている。
この戦果により最上家は出羽57万石の大領大名になり、本城としての山形城の改築、整備を開始している。


義光は、平城では日本最大級の広さを持つ山形城の拡張や城下町の建設、新田開発や社寺仏閣の造営など多くの実績を上げ、実石高は100万石とも200万石とも言われたとする。 
無論、義光が行った領国経営は、主城をもつ中心地の山形の町づくりをも積極的に行い、これが現在の山形市街地の基礎となっている。

しかし義光が死去すると家督争いが激化し、元和八年(1622)義光の孫・義俊の代に内紛理由で所領を没収され、近江に移されて一万石となりすっかり寂れてしまった。 
そして、江戸期には戦国の東北の覇者・最上家は衰退、消滅してしまうのである。
最上家は、家督相続やお家騒動に厳しい、徳川政権の犠牲になったとされる見方もある。

次回、「蔵王



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