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織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(116)東山温泉 「温泉と著名人」

2011年06月08日 09時09分53秒 | 会津、会津地方
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  東北紀行(116)東山温泉 「温泉と著名人」    、 



東山温泉は、「鶴ヶ城」から南東に僅か約3kmの地、清流・湯川沿いに温泉宿・ホテル計20軒以上が営業している。 
湯量は毎分1,500リットルの湧出があるとされ、バリバリの温泉地である。

会津藩・松平家の別荘から発祥した「新滝」、会津藩指定保養所の歴史を持つ「向瀧」、新撰組副長・土方歳三が戦傷を癒した源泉を持ち、開湯当初からの湯宿とされる「不動滝」(土方の入湯については幾つか伝承がある)など、特性のある旅館が多い。

上山温泉、湯野浜温泉と東山温泉で奥羽三楽郷の一つとも言われ、開湯は八世紀後半、又は天平年間に行基によってなされたと伝えられ、当初は「天寧温泉」(温泉街の入り口に蘆名氏の菩提寺・天寧寺がある;同系の寺院は蘆名氏転封先の角館にもあえる)とも言われたという。
古くは豊臣秀吉や新選組副長土方歳三らが訪れ、又、竹久夢二、与謝野晶子等、多くの文人にも愛されたという。 


元より、豊臣秀吉(太閤秀吉)は温泉好きで知られる。 
京・大阪の奥座敷とも言われる「有馬温泉」には豪華な別荘「湯山御殿」を建てさせ、専用の「太閤風呂」を造らせている。 

更に戦乱の影響で衰退していた有馬温泉に手厚い保護と援助を行い、再興に努め、歴史と伝統のある温泉を復興させて天下人としての器量を見せている。


近世、松平23万石の城下町として栄えた会津藩は、藩租から屈強な武士道を鍛え上げ、「忠と孝」のもとに散っていた会津武士達も、一時は当地温泉でゆっくり身体を癒し、時を過ごしたのかもしれない。

泉質は「硫酸塩泉(カルシウム・ナトリウムー硫酸塩泉・塩化物温泉)」で、PH値は8.0の弱アルカリ性、特にリウマチや皮膚病に効能があるという。

次回、「秀吉の会津遠征



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東北紀行(115)東山温泉 「東山温泉街」

2011年06月07日 10時45分18秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(115)東山温泉 「東山温泉街」   , 




写真:東山温泉、「千代滝」の屋上展望風呂



「新滝」の何れの温泉浴槽も泉質はほぼ同じようなものであったが、いやはや異なる六種類の浴槽の雰囲気を満喫して、泊まり宿である「千代滝」へ戻った。 

部屋へ案内されて窓を開けると、すぐ山間に会津東山温泉街が一望できる。
今度はこちらの温泉入浴である。


屋上階にある浴室は大きな内湯と露天風呂と二箇所あり、入浴中は山々しか見れないが、立ちあがると会津若松市内と東山温泉街を眼下に見ることができる。 
そして尚、湯船を乗越して前にある非常階段のところまで歩み寄ると、若松城下の煌く明かりが一層鮮明に見下ろすことができるのである。  
なるほど、ホテルが絶景展望の露天風呂と称しているのには頷ける。


「千代滝」と姉妹館の「新滝」の宿泊客は、お互いの宿のお風呂に湯巡りできるようだが、やはり温泉入浴に関しては歴史のある「新滝」の方が一枚も二枚も上のようである。 
ただ、湯めぐり可能なのは制限時間があるらしく、午後は15時から22時と午前は早朝から午前10時迄らしい。

何れにしても若年の砌(みぎり)ならいざ知らず、年配の域に達した小生などは、余り温泉にばかり浸かると「湯疲れ」を起こす恐れもあり、このあたりが限度であろう。






東山温泉街(ホテルの部屋と湯川からの眺め)



東山温泉の中央を流れる「湯川」は上流に東山ダムを控え、その上部も湯川渓谷といわれる豊かな自然が広がり、奇岩や幾つもの大小の滝が連続する。

この温泉地には「千代滝」、「新滝」を初め「向滝」、「原滝別館・今昔亭」、「原滝本館」、「不動滝旅館 」、そして「庄助の宿・滝の湯」と、「滝」が付く宿が多い。 
因みに、「庄助の宿・・」は、小原庄助さん縁(ゆかり)の宿という謳い文句で、有名な会津地方の民謡、盆踊り唄となっている「会津磐梯山」に登場する人物である。


会津磐梯山』 福島県民謡

エンヤー)会津磐梯山は宝の(コリャ)山よ
笹に黄金が(エーマタ)なりさがる 
 
エンヤー)東山から日にちの(コリャ)便り
行かざなるまい(エーマタ)顔見せに
『おはら庄助さん なんで身上(しんしょう)つぶした。朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした。ハァもっともだ もっともだ』

朝寝・朝酒・朝湯好きで財産をつぶしたという「小原庄助」のことで、戊辰戦争で戦死した会津藩士などの説もあるが、しかし、実際については不明だともいう。


「会津磐梯山」の民謡に併せて、毎年お盆の時期の8月13日頃から一週間程度、開湯伝承を持つ老舗の旅館「不動滝」の前に櫓を組み、「東山盆踊り」が開かれる。 

踊り手は旅館の宿泊客や近郷近在から集まり、鐘と太鼓や笛が賑やかに奏でる中、色よい芸者さんたちが櫓の上で歌う。 
数日間行われる祭りの目玉は、サラシを巻き半被(はっぴ)姿の芸者さんが神輿の上に乗って、観光客等が温泉の手桶を使ってお湯かけるという、少し色っぽいお湯かけ夏祭りで盛り上げるという。

次回、東山温泉の著名人



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東北紀行(114)東山温泉 「土方歳三、療養の湯」

2011年06月03日 13時29分08秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(114)東山温泉 「土方歳三、療養の湯」   、 








新滝旅館の各浴槽、上より岩場の湯 大理石の湯 露天風呂




次に、新滝旅館の玄関横の「千年の湯」に向かってみた。
階段を下りて浴室へ向かうと突き当たり右側が男性用になっていて、左は女性用らしい。 
因みに、日のよって男女用が入れ替わるという。

千年の湯は、天然の温泉自噴岩盤をそのまま生かしたという豪快な浴槽で、四角い二つの浴槽の底からは僅かに自噴しているのが判る。 
一方、隣の浴槽は豪華な大理石風呂である。 次には東山を流れる湯川に面した大きな露天風呂で、渓流のせせらぎを聞きながらの入浴である。 
大自然に身を任せ、季節の移ろいを感じながら情緒ある東山の風景を独り占めできる温泉であろう。

戊辰戦争の折には療養中の土方歳三も訪れ、当時の岩風呂から川に飛び込んだという逸話が伝えられているという。(詳しく後ほど) 
隣の「不動滝旅館」に泊まって温泉療養したとされ、本館外壁には巨大な土方歳三の画像が示してある。
土方歳三は、無論、会津藩士ではなく京における新撰組の副長であった。




土方歳三が入湯したとされる浴槽跡



ところで、会津戦争は明治維新における戊辰戦争の最後の戦いと思われるが、実は最北の地・蝦夷函館において最後の決戦が行われていた。 
この戦いに土方歳三は参戦し、壮烈な最期を遂げていたのであった。

土方歳三は、幕末 (1863年)において近藤勇らと共に上洛し、京都守護職会津藩主(松平容保)お預りとして不逞浪士の取り調べ、市中見廻りを行なっていた。 
慶応4年(1868;明治元年)鳥羽・伏見の戦に敗れた歳三は、新選組の生き残りを率いて北関東、会津と転戦した。

戊辰戦争も終盤の慶応4年、官軍が「会津」へ殺到、一か月に及ぶ籠城戦となるも歳三は母成峠の戦いに敗戦し、籠城のための入城に遅れた土方は開陽丸で北上してきた榎本武揚と共に仙台で合流する。 
その後、榎本武揚の艦隊に合流し新天地に希望を求めて蝦夷地函館に上陸している。


新撰組の土方歳三、奮戦ス・・!!、

新撰組副隊長の土方歳三が戦死したとされる場所は、現在の函館駅近くの若松町辺りとされている。 敗走してくる仲間を率いて進軍させ、『 我この柵にありて、もし退く者を斬る・・! 』と発したという。


函館戦争の敗戦後、旧幕府軍である榎本軍の幹部は概ね明治新政府の要職に付いている。
その中で自ら死地前線に赴き戦死したのは「土方歳三」ただ一人であったという。

土方は、120人前後となった新選組と共に、榎本艦隊で仙台から蝦夷地へと向かった。 
約2500名の脱走軍は函館城(五稜郭)に無血入城し、12月には蝦夷地平定を完了し、「蝦夷共和国政府」を樹立した。 

熊石まで渡島半島の南端海岸線を巡っている。
土方は、新政府軍が函館総攻撃を開始する頃、敗色濃厚となっても新選組や前線兵士を救うため、僅か80人を従え騎馬で出陣し、元より死を覚悟しての陣頭であった。 

降伏戦死の後、土方の遺体は僚友・安富才助(新選組隊士、馬術師範)らにより五稜郭に運ばれ、埋葬されたという。 享年35歳の若さであった。

次回、再び「東山温泉・千代滝」




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東北紀行(113)東山温泉 「千代滝、新滝」

2011年06月02日 10時05分07秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(113)東山温泉 「千代滝、新滝」  , 




夕刻も迫り、東山温泉の「千代滝旅館」へ急いだ。

東山温泉は十代の頃より数度訪れたことがある。 
城下・若松の奥座敷として当時は人出も多く、建物も煌びやかで相当に賑わっていた記憶がある。 
夏のお盆の時期になると、湯の川を挟んで笛や太鼓による民謡・会津磐梯山の唄と共に踊り狂ったものであった。

今は、時代の趨勢もあってチョット落ち着きすぎた町並み風情に変わったような気がしたが・・?。



千代滝旅館



千代滝旅館は、向かうと左手に高台にあり、温泉街が一望できそうである。 
そういえばこちらの温泉浴場の目玉は屋上の展望風呂にあるらしい。
只今の時間は夕刻5時であった。 

ただ、こちらの入館入室時間は夕刻6時という条件付で、そのかわり通常より何割か割引き値あったはずだ。
旅館側に言わせれば、「 せっかく見所いっぱいの会津に来たのだから、ゆっくり観光を楽しみたい 」という気遣いでもあったのだろう。 

確かに、会津は一日では回りきれない程名所や観光スポットが満載である。 
歴史ある会津の様々な名所を回り、そして夜は通常よりも手頃な価格で宿泊できることは利用客としても有難い。



時間に余裕があるので、姉妹館の「新滝」の入浴を楽しむことにした。
こちらは本館(千代滝)と違って、温泉街の中にあり、湯の川の洒落た造りの先心橋を渡った先にあった。 

こちらも千代滝以上にホテル風の旅館である。
年配者風の案内係りに・・、

「千代滝から来たんだけどお風呂入らして、 それと車ここでいいかね」、 
「はい・・、源泉掛け流しのいい風呂だから、ゆっくり入ってきな」、

と気さくな返事が返ってきた。


豪華なつくりの玄関を入ると正面に受付フロンとあり、左手にガラス張りの大きなロビーが広がっていた。 
何でも歴史ある新滝旅館は、今年(2010年)リニューアルされたばかりどという。

温泉は玄関より右の廊下越にあるらしい。 廊下の入り口に早速「千年の湯」というのがあったが、これは後ほどの楽しみとして奥の方にもあるらしく、先ずそちらの浴槽へ向かった。





写真:新滝橋と新滝旅館



新滝旅館の「猿湯」 




わたり湯」、「殿猿の湯」(女性は姫猿の湯)そしてやや小さめながら露天風呂で妙な名前の「月取り猿の湯」のがあった。 モダンな殿猿の湯と木造りで湯治場の古風な浴槽との対比がいい。 
何れも広い窓によって表現されており開放感がいい。

木造り主材はヒバの木で、木造浴槽としては最高品といわれる。 
ヒバは国内では青森など緯北地域が特産とされ、材質的には殺菌効果、防虫効果、防腐・防湿効果、消臭・脱臭効果などの特殊な効果があるとされる。 
一昔までは神社や仏閣、お城などの建築に大いに利用されたらしい。

温泉は無味無臭で透明感があり、肌触りはさらりとして、小生にとっては温めの適温で、のんびりと入れるのがいい。

豊富な湯量の自家自噴泉は、日本温泉遺産を守る会により「温泉遺産」の認定を受けていて、古くは川の脇の素朴な湯治場として会津藩士に親しまれたという。

更に、「東山温泉



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東北紀行(112)会津 「徳一と振興仏教」

2011年06月01日 10時05分47秒 | 会津、会津地方



 東北紀行(112)会津 「徳一と振興仏教」   、 



磐梯山・恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部か、又は、其の数倍の境内とするほど広大な敷地を有し、興隆をきわめた。 
無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。 

当初は磐梯山の噴火等、恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いた。 
今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っていて、広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 

慧日寺」は、磐梯信仰の中心・磐梯神社との神仏習合の一大聖地であった。



ところで、仏教界で大きく飛躍するのは奈良から平安にかけてで、特に、新興宗教である「真言宗」と「天台宗」が、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 

従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城から平安に京が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。


その時期、徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その南都六宗の中心にいたのが彼であった。 
当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったといわれる。


最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 
徳一は、その最澄に反撃を加えて5年間にわたる理論闘争・「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん:仏教の解脱・成仏の条件として『生まれながらの貴族的身分』が必要か否かといった問題を巡る論争)を行い、その結果において最澄は徳一(法相宗)に勝てなかったとされている。 

最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったという。


一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 

会津において磐梯慧日寺の建立時、空海は徳一に手紙を書いている。
『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。 初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重・・・』
 

ところが、徳一と論争を交わして東北進出を阻止されたのは最澄であったが、この最澄の弟子が東北進出を果たすのである。 

慈覚大師・円仁である。 


小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら有名仏閣の開祖である。

坂上田村麿の往くところ、「円仁」の蔭があるともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 

円仁は最澄を超え、空海を超え、徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 
円仁」は、わが国が誇るべき世界の偉人であるともされている。


徳一」の偉大で、且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に努めた大人物であった。 
其の中で、徳一には東北布教活動において、中央政権下の藤原氏の強力な支援があったともいわれ、そのことは藤原氏自身の東北進出にも繋がっていき、このことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。

会津地方の人々は、この遥かな昔の偉人・藤原徳一の善にして強力な精神力が、知らず知らずの内に引き継がれていたのかもしれない。

次回、「東山温泉



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