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織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(121)大内 「大内宿の紹介者」

2011年06月14日 11時30分29秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(121)大内 「大内宿の紹介者」  ,



それにしてもである・・
日本は明治以降、近代化の波を受けて旧来の考え方や物質文化が蔓延ってきて、道路や鉄道といった公共機関から、おのずと個人の生活もより良い方向へと便利さを求めた。 

大内周辺でも、すぐ横に幹線道路が新しく敷かれて、人の往来も頻繁になり、近くの温泉宿で身を癒すほどに社会的に余裕も出てきている。


しかし、「大内村」は、そんな世の中の急変している時代に気が付いていても、平然として江戸時代の暮らしを続けていたのである。
この大内村の時代を超越した生き方や暮らしぶり、更には変わらぬ建築物や町並みを、外部の人によって見出され、これらのことを世に問うたのであった。 
それは先ず、外人の旅行家によって紹介されていた。

イザベラ・バード」というイギリスの女性旅行家、紀行作家で、明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(日本での題名:『日本奥地紀行』、『バード 日本紀行』)などに「会津・越後を歩く」として詳しく書かれているらしい。 


イザベラ・バードは日本各地を訪れているが、特に「日光」が気に入ったらしく10日以上滞在している。 
中禅寺湖、男体山、華厳滝から奥日光の湯滝、湯元湖などを闊達に描写し絶賛している。 湯元温泉では湯治場や湯治客にいへんな関心を示し、その様子を詳らかに記している。


バード一行は、この後いよいよ外国人がかつて誰も訪れたことの無い地方に入る。
南会津町から船で大川(阿賀野川)を渡った一行は大内宿で宿泊する。 

大内の宿泊所は「美濃屋」という大きな農家で、江戸時代の大名の宿泊所でもあったらしい、所謂、本陣であった。 因みに、この美濃屋は明治以降は、郵便局や運送所も兼ねていたという。

彼女は、この時の大内村の様子を、西欧の影響を全く受けていない地方の生活様式や日本人の暮らしを母国である故郷に手紙で知らせている。 
この中から、当時の日本人がおおらかで文明化に向けて希望を持っている様子が見えるという。


又、近年になって、日本を代表する民俗学者の一人である「宮本常一」氏によって、現在の大内宿が紹介されている。
彼は生涯において、丹念に日本中を歩き、村の暮らしの話を採集した人であり、三十三巻の著作集を残している。
明治後、大内宿は明治のある時期に他に道路ができたため、山間で孤立してしまった。 
大概の宿場は文明開化の名の下で廃れてゆく中、それでもなお村の旧観が残ったというのは、奇跡に近い。そのことについて、この宿の人々をたたえている。


宮本氏は・・、
村人の結束もかたい上に、特別に大きな財産家もない。村人を出し抜いて自分だけはよい生活をしようとするような人もいなかったことが、このような村を残したのであろう。」
それにしても、この大内の人々は、見上げたものと言わざるを得ない。 江戸時代が去り、もはや参勤交代の行列がやってこなくなっても、さらには新街道が別の方について山間に捨てられてしまっても、住居や村を変えようとしなかったと言うのは、遠い昔からの日本人の心だったというべきだろう。」(宮本常一著作集 1989年)



そして、「街道をゆく」を著した司馬遼太郎が大内宿を訪問しているが、大内宿の印象を以下のように述べている。 
「 大内の小盆地に入ったとき、景色のすがすがしさにおどろいた。 まわりを、標高千メートルほどの峰々がかこんでいる。 北に六石岳、東に小野岳、西に烏帽子岳、神籠ヶ岳などといった山々で、私どもは南から入った。 大内という在所だけが、うそのように平坦だった。 そのなかにひと筋の古街道がとおっていて、その古街道の両脇に、大型の草ぶきの屋敷が、幾棟も幾棟も、棟をむきあわせてならんでいるのである。 (中略) 江戸時代そのままのたたずまいだった。 残っていつ規模が大きく、戸数五十四戸が、整然とならんでおり、どの家もよく手入れされている。 たったいま会津若松城下から、松平候の参勤交代の行列が入ってきても、すこしもおかしくない。 」 

同宿場は「重要伝統的建物群保存地区」に選定されている。


重要伝統的建造物群保存地区選定基準として・・、 
(一) 伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
(二) 伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
(三) 伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
この内、大内宿は(三)の選定基準に当てはまるものとして昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

次回、「大内宿の伝説



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東北紀行(120)芦の牧 「湯野上温泉と大内宿」

2011年06月13日 10時19分25秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(120)芦の牧 「湯野上温泉と大内宿」  ,




大内宿の民家を模して造作された東北の駅舎百選の「湯野上駅」




会津街道を南下すると、やがて芦の牧温泉、湯野上温泉が現われる。

芦の牧温泉」は東山温泉と同様に古くから開けていた温泉場で、阿賀野川沿いに旅館やホテルが20軒ほど建ち、今では東山温泉と同格ぐらいに賑わっている。
ただ、明治初期の頃までは近郷の人々の療養の場のみであったらしく、今の会津街道などは未だ開通してなく従ってドン詰まりところで、当時は袋小路の様な奥に位置する「幻の温泉村」だったとも言われる。


又、近隣の「湯野上温泉」も昔は芦の牧温泉同様、盲腸のような道路にあって近郷の村人たちが利用するだけの鄙びた温泉場であったという。  
今では芦の牧温泉を一回り小さくしたような温泉場であるが、国道沿いで、しかも人気の「大内の宿」にも至近ということで人気がある。 


特に、会津線・湯野上温泉駅舎が日本では唯一つ、田舎風の茅葺屋根の造りということで意外な人気があるらしい。 
大内宿の街並みになぞらえた茅葺屋根の駅舎を有するとして、2002年(平成14年)、東北の駅百選に選定された。 

又、2005年度の日本鉄道賞特別賞を授与されている。
両温泉場とも、近隣の人が利用するのみの温泉であったが、明治35年に道路が開通したことにより温泉地としての発展を見せていった。


その湯野上温泉から最も近距離にある「大内宿」には、歴史に興味をもつ小生も2度ばかり訪れている。 

この地は正に異郷の地であった。
山間の地にあって江戸時代の集落そのもが整然として軒を並んでいるのである。
それは南信州の奈良井の宿や妻籠の宿とは比べても、更に、一昔前の雰囲気を醸しだしているのである。

しかも、奈良井も妻籠も古代より東国と西国を結ぶ大幹線道路の一つである中山道の宿場町として機能してきた。 
だが、大内宿は東北の田舎の山の中で、道の両脇には堀の水が流れ、全長約450mの街道に沿って、道の両側に50軒の寄棟造、茅葺の民家群がほぼ等間隔に建ち並んでいる。 
今にも参勤交代が通りそうな雰囲気であり、どうしてこれ程の江戸の町並みを温存することが出来たのか・・?、 


今でこそ下野・日光から奥州・会津へは会津西街道つまり、国道121号線が貫通しているが、明治中期頃までは下郷町楢原から先は、倉谷、中山(中山峠)、そして大内を通って会津へ達したのであり、先に述べた湯野上温泉方面は細々と村道が通っていたに過ぎず、芦の牧温泉はそのドン詰まりであったのだ。

大内を通る街道は、本来の会津西街道(南山通り)、 あるいは下野街道と呼ばれ城下町会津若松と栃木県今市・日光を結ぶ重要な街道であった。 
大内峠を越えると間もなく会津の城下に達する。

その大内峠の手前に大内の宿があり、会津へ向かう最後の宿場町として栄えたのであった。
江戸時代の宿場の面影を今に残す村・大内宿は全国でも数少ない貴重な集落として知られる。 

この村を通る旅人や南会津郡の産物を若松や関東に輸送したり、庶民が関東への出稼ぎや西国への神社詣等にも使っていたとされる。
又、会津藩主の参勤交代の大名行列も、旅の疲れをこの宿場で癒していたという。

次回、更に「大内宿



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東北紀行(119)会津 「家康、会津へ進軍」

2011年06月11日 08時19分12秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(119)会津 「家康、会津へ進軍」  .




この直江状が家康の下に届けられたのは、慶長5年(1600年)5月3日であった。
家康はこの書状を受け取って激怒しながらも、内心ではむしろ喜び、そして同日の内に上杉景勝征伐、つまり会津攻めを決意したという。

6月6日には大坂城西の丸において会津攻めにおける評定が開かれ、家康が軍を纏めて会津攻めに向けて大坂城より出陣するのは、凡そ1ヵ月後の6月16日である。
会津攻めの先鋒には福島正則、細川忠興、加藤嘉明など秀吉恩顧の大名諸氏が任じられた。


家康は余裕を見せつけるが如く、遅々とした進軍を続けた。
7月17日には江戸城、7月19日に入って徳川秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣する。 
家康自身は7月21日に入って、江戸城から出陣して会津に向かう。
そして7月24日、家康が下野国小山に入ったとき、鳥居元忠の急使により石田三成ら反家康派の挙兵を知った。


三成らの挙兵を知った家康は直ちに会津征伐の中止を宣言、直ちに「小山評定」といわれる会議を開き、上杉景勝に対しては結城秀康の軍勢を押さえとして残し、自らは反転西上して三成らの討伐に向かった。


一方の景勝もこれを受けて一旦安堵しながらも、後顧の憂いを絶つため出羽の最上義光を攻略することに方針を転換する(慶長出羽合戦)。
従って、徳川軍と上杉軍が直接対決することは無かったのである。


因みに、秀吉が戦国期の総決算として東北地方の仕置をしたのが小山のほんの先の宇都宮で、「宇都宮評定」と云われている。
その時、宇都宮での秀吉の悠々満顔の心境に対して、小山における家康の心中不穏の心境の対比が興味深い。

次回、「芦の牧、湯野上温泉と大内宿




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東北紀行(118)会津 「向羽黒山城 」

2011年06月10日 09時46分30秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(118)会津 「向羽黒山城 」   , 




阿賀野川沿いに望める岩崎山(標高408m 旧向羽黒山城跡)



東山温泉での一夜が明けた。
さて、本日の行動予定は好天なら南会津から尾瀬の沼山峠で、尾瀬の紅葉風景を堪能しようと思ったが、しかし、生憎の曇曜日(ドン曜日)で、今に落ちてきそうな陰鬱な様気であったので・・?。

天候の様子を見ながらであるが、先ずは南会津の山間地をドライブ気分で出立した。
白亜の鶴ヶ城をすぐ左横に見ながら、国道118号線、通称、会津西街道を南下する。
間もなく会津美里町本郷に差し掛かると大川(阿賀野川)越にポッカリと標高400m程の小高い山が見て取れる。
この山こそ東北でも1,2を争うほどの豪快な山城・「向羽黒山城」の城址である。(平成13年、国史跡指定)


会津若松は戊辰戦争以前にも大きな危機が訪れていた。 
それは戦国末期における会津上杉と徳川家康との決戦であった。

上杉景勝が秀吉から120万石を賜って会津の太守になって間もない時期に秀吉は亡くなる。
家康は秀吉の遺言(豊臣政権下、奉行、大老は秀頼公の補佐に当ること)にもかかわらず、専横的で傍若無人な態度を示すようになる。
上杉家にも圧力をかけてきて、大阪城へ登城して臣下としての礼を尽くすようにとの催促状が届く。 
これに対する返答が、かの有名な「直江状」であり、これは会津で書かれたものといわれる。

家康の詰問状に対する直江兼続返答書(直江状):長文の要旨
『 上杉家は、おととし国替えして会津に来たばかり。国替え直後に上洛して、それで9月にようやく帰れたと思ったら、また1月には上洛しろって言われても。それなら、いつ領国の政務を行えばいいんですか? それに、なにぶん会津は雪国でしてね、10月~2月までは何もできません。 出身の人に確認してもいいですよ(マジですから)。」
「それに、上杉家が謀反というなら、まずはそれを訴え出た者に追求していただきたい。それができないのであれば、実は家康様こそが謀反を企んでるんじゃないですか・・?
 』

家康に一歩も引かない姿勢を示し、逆に家康を挑発するような、16ヵ条からなる返答書を送りつけ、家康を激怒逆上させている。 
そして、このことが会津征伐の口実を作ったのであった。 
1600年、徳川家康は豊臣秀頼の名のもとに上杉景勝討伐を決める。


一方、直江兼続は、早々に家康軍を迎え撃つ準備を始める。
徳川家康の会津攻撃の報を聞くや、景勝・兼続は、「向羽黒山城」を対家康戦の最後の砦として考え大改築を行ったとされる。 
会津で東北の関ヶ原が行われていれば、向羽黒山城は最も重要な砦となりえる山城であった。

築城には直江兼続が総指揮となり、本丸は家臣団で築城し、堀と石垣・門まで築いた。
天守閣は本丸北西に築き、二の丸は家臣と領民8万もしくは12万ともいわれる人数を動員したとされる。 
面積は鶴ヶ城の2倍、家臣団の屋敷は鶴ヶ城外郭の2倍、500ヘクタールに及ぶものであった。 
それには13の村を移転したとの記録もあるという。

二の丸跡の北東角である鬼門には、御神木となる国天然記念物(樹齢600年、築城200年前よりあり)の「高瀬の大木」といわれるケヤキの木がある。

次回、「家康の会津進軍



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東北紀行(117)会津 「秀吉の会津遠征」

2011年06月09日 11時35分05秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(117)会津 「秀吉の会津遠征」   



因みに、「豊臣秀吉」はが会津に入ったことは余り知られていない。 

これも幕末維新の大戦争による記憶が余りにも深く大きくて、それ以前の史的産物は陰が薄くなってしまったのかもしれない。 
しかし、会津若松の整然とした町並みはこの時から起こったとされている


秀吉は戦国時代の総決算、全国の統一として、最後に奥州の仕置(領地の配分や管理手法を決める)を行う。 
これは東北地方における一大事件であり、大革命であったとされている。
会津への巡察行軍は、宇都宮を発って再び帰城するまでの10日間の日数であった。


天正18年(1590年)、小田原城を陥落し北条氏を討った秀吉は、応仁の乱以来100年余り続いた戦乱に終止符をうち天下を統一した。
その後、東北地方を支配するため自ら伊達正宗の本拠だった黒川(若松)に入り、奥州仕置に着手した。

このことは、奥州支配にあたって関東につながる会津がいかに重要な地であったかを示すもので、腹心・蒲生氏郷を会津に配置した。
これは、400年前に頼朝が関東武士に分割支配させて以来の大変革であり、「 闘わずして奥州を手に入れる 」といった秀吉の言葉は、そのまま実現して同時に天下統一は完成した。

会津においては、天正18年(1590年)、秀吉による奥州検地の命令によりきびしい検地が行われ、福島地方を浅野長政、会津地方を豊臣秀次、白河地方を宇喜多秀家など、当時のそうそうたる武将が奉行を務めたという。
しかし、この検地には農民の強い反発がもり、この時の農民一揆で63人が首がはねられたという大事が発生した。 
これは、赤岡村(現在の南会津郡下郷町)にあった事件で、県の史上最も厳しい弾圧であったともいわれる。


会津若松市東山町の背あぶり山の頂に「関白平」と呼ばれる標高約800mの高原がある。 
秀吉はこの山頂に立って、会津盆地を一望しながら東北の仕置を考えていたのかもしれない。
実際、宇都宮へ帰城してから「宇都宮評定」といわれる席上で、東北の仕置を命じている。

関白平の名は、昭和に入ってから付けられた名前らしいが、関白秀吉は天下人として、新たに手に入れた領土を家臣に見せ、力を誇示するために一望できるこの場所を選んでともいわれている。

その、「背あぶり山」の麓に東山温泉があり、当然ながら秀吉一行(一行は凡そ3,000人とも言われる)はその帰路、共々、東山温泉にて英気を養ったであろう。 
当時の温泉関係者の慌てふためく狂騒振りが想像できる。


会津は、秀吉の命(宇都宮評定)によって「蒲生氏郷」に領地の運営を任されることになる。
氏郷は織田信長に仕える近江国(滋賀県)蒲生郡日野城の領主で、信長の死後、豊臣秀吉の家臣となっていた。 
数々の戦功をあげた人物で、秀吉にその優れた能力を認められ、東北地方を支配するのに重要な地だった「会津」を任された。 

氏郷は1593年(文禄2年)、会津に入ると大きな天守閣を持つ城を築き「鶴ヶ城」(つるがじょう)と名づけ、城下町を整備し産業の振興を図る。 
氏郷は更に、黒川の地名を「若松」と改名する。 
これは氏郷の故郷・近江国(滋賀県)蒲生郡の「若松の森」にちなんだと言われている。

又、雑然としていた城下を整備、拡張に着手、城の周りに侍屋敷を配しその外側に土手(外郭)を築き城を中心に、郭内・郭外に分割する。 
それまで郭内にあった町人屋敷を郭外に移し、町の北側に多くの寺院を移築し城下の整備をする。 

検地によれば、氏郷の領地は91万9,320石となり、徳川家康・毛利輝元に次ぐ全国で3番目の大大名になっていた。
この町割りは、現在の市街地の原型になっていて、今でも市内のいたるところでその名残を目にすることができえう。 郭外の町域は大町・馬場町・本郷町・三日町・桂林寺町・六日町等である。

1593(文禄2年)、七層の天守閣を持つ「鶴ヶ城」が完成する。 
その威容は会津盆地を圧し、若松は「奥州の都」とうたわれるほど繁栄するようになったという。

次回、「向羽黒山城



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