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織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(127)南会津 「村の意義」

2011年06月20日 09時30分23秒 | 会津、会津地方
.



 東北紀行(127)南会津 「村の意義」  .



21世紀は、「帰郷の時代」(Uターン又はIターン)とも言われる。 
つまり、村や田舎の時代が到来するといわれている所以であろう。        

古里の自然や人の繋がりは、懐かしいものである。
」という字を、漢字源で調べてみますと、村は『木+寸』で、「寸」は手の指をしばし押し当てること、つまり人々がしばし腰をおちつける木のある所を表すという。 

「村の風土」は人が育つために欠かせない要素で、人間は地上で生まれて死んで地に帰るものであって、つまりは地から離れるわけにはいかないのである。 
だから、人は地の徳(地の恵み)をよく考えるべきであると。 

我々は、その地で採れたものを食べ、身体を成長・維持させ、そして、死んでやがて地に帰る。 
地の恵み・「風土」に育まれて、活かされながら生きている。


身土不二」(しんどふじ)という言葉がある。
元々は仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せないという意味である。

昨今は、食養運動のスローガンとして「地元の旬の食品や伝統食は身体に良い」とされ更に、「人と土は別のものでなく一体である」、「人の命と健康は、食べ物で支えられ、食べ物は土が育てる。 故に、人の命と健康は、その土と共にある。」という捉え方で、「医食同源」という言葉と根っこは同じである。


明治時代の人は、四里四方(16km四方)でとれる旬のものを正しく食べようという運動のスローガンに掲げた。 
現代の日本でこれができたら先ずは最高の贅沢といえるし、出来る条件は何処かといえば、それは「」であり、農村地域のあろう。


昨今、話題になる「帰郷の時代」は、もっと具体的で現実的である。
それは一つに「団魂の世代」(一般に1947年~49年生まれの世代)、二つに「少子化問題」、三つに「環境の時代」が要因になると言われる。 

この世代の、人口は700万人位といわれ、来年、再来年(2006、2007年)の定年退職者が4~500万人相当が対照になるそうで、「2007年問題」と呼ばれる。 
これらの人々の5割以上は、都会から田舎に移って、(所謂、Iターン、Uターンと言われる現象)第二の人生を田舎でのんびり・・?、暮らしたという願望があるそうだ。



序に、「」についての最近の話題を一つ。
岡山県に新庄村(しんじょうそん)という極小さな地域がある。 
人口約1300人足らずの村で、県の北西部に位置し鳥取県と境を接する。

2005年3月に周辺地域である上房郡北房町、勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村ら5町4村が合併し「真庭市」が発足している。 
ここで真庭市は面積は県下自治体の中で最大になったという。 
又、同年・同月に隣接する新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町・哲西町の1市4町が合併により新たな「新見市」が発足している。

その新庄村は大地域となった真庭市、新見市との間に挟まれ、今にも押し潰されそうな存在になっている。 
当初は当然両市から合併話はあったようであるが、新庄村は敢えて単独で存続することを選択したのである。 

1990年より就任4期目となった村長の小倉 博俊氏は 「 小さいからといって合併しないといけないということはないし、財政問題のみで合併してはならない。合併したとしてもメリットが無いと予想されるし、夢やビジョンも見えない。又、新庄の村民には歴史や文化を大切にしていて、自分たちのことは自分達でやるという主体性がある 」との強い意向を示している。

村民はそんな村長の意向を全面的に支持してきたという。 
つまり、吸収合併して大地域となったとしても僻地には変わりなく、行政においても僻地地域ということで取り残される恐れもあるし、尚且つ合併によって自主性が失われ、独自の政策が執りにくくなるというのである。

次回、只見・「八十里越え



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東北紀行(126)南会津 「南郷村」

2011年06月19日 10時04分50秒 | 会津、会津地方
.



 東北紀行(126)南会津 「南郷村」  ,




田島の駅前から会津鉄道の高架をくぐり、直ぐに阿賀野川を渡って国道289号線を行く。

阿賀野川は南会津地方ではでは大川と称しているらしいが、さすがにこの辺りは山間の水源地にも近く(水源は県境の荒海山)細々と流れている。 
実は、新潟の日本海へ注ぐ阿賀野川は、下流部ではの河川水流量は日本最大級だそうである。


余り車の通らない国道を、純田舎の風景を堪能しながら駒止峠へ向かう。 
途中、所々に駒止湿原の案内表示が出ている。 
どうやら峠手前の針生の集落からルートが付いているらしく、こちらからだと20分程度の軽い山歩きで到達することができる。

 
駒止湿原は尾瀬ヶ原をギュット小さくしたような規模で、湿原の性質は殆ど同じ性格を持つという。 
南会津町と昭和村の間の標高1100mに位置する湿原で、三つの湿原がなり、(大谷地・白樺谷地・水無谷地)こちらも堂々と国の天然記念物に指定されていて尾瀬の陰に隠れたチョットした穴場の存在かもしれない。

尾瀬の標高が1500mあるのでシーズン開始はやや早く、5月上旬には雪解けが始まり、湿原に入ることができるようになるという。
こちらも湿性湿原特有の湿原植物の貴重な宝庫で水芭蕉をはじめ、ワタスゲ、リュウキンカ、ニッコウキスゲ、タテヤマリンドウ、ショウジョウバカマ、コオニユリ、エゾリンドウなど春から初夏にかけて次々と咲き乱れる。

特徴は三つの湿原からなっているが、駒止湿原でしか見ることのできない貴重なモリアオガエルの生息地域にもなっているという。

昔の駒止峠は、駒を止めるほど難所だったといわれる。 
燧ヶ岳、会津駒、浅草岳などが美しすぎて、駒を止めて一休みしたからとの説もある。 
ただ、駒止湿原が其の当時から知られていたかどうかは定かでない。


峠のトンネルを抜けるとこちらは南郷村である。
小生の手持ちの地図上では未だ南郷村であるが、当地は平成の大合併で2006年、南会津郡田島町・舘岩村・伊南村と合併して南会津町となっている。 

南郷村といえば九州の脊梁地といわれる日向宮崎の南郷村を思い起こす。 
無論、相当の山中、田舎であるが大陸(朝鮮・百済)の王が隠棲した地として有名なのである。
飛鳥期の7世紀、日本は朝鮮半島で百済の応援のため「白村江の戦い」(はくすきのえ)という戦いを起こし、唐と新羅の連合軍に大敗してしまう。 この時、百済の王族達は日本の各地を転々としながら最終的に落ち着いたのが、「南郷村」であったという。 日向南郷村の中心に百済王の御神体が祀った「神門(みかど)神社」や百済製装飾具が多数収蔵されている「西の正倉院」といわれる倉庫などが今でものこされているという。



気が付くとこの周辺には「」という名が付く町村が多い。
南郷村をはじめ、下郷村、西郷村、本郷町などである。 
(ごう、きょう、さと)というは元々、田舎または里を意味し、地方行政の単位(村の集合体)であった。
奈良時代に制定された律令制における地方行政の単位として、国、郡そして郷が置かれていて、現在の県、郡、村のよなものであろう。 
其の名残がと付く地名になったものであろう。 
会津若松を中心に見ると、下や西そして南の郷と付け、村や町にしたものであろう。 


それにしても小生の日本一周の旅でも気が付いていたが、日本の村がどんどん消滅しているのは寂しいことである。 
特に、近年の「平成の大合併」での市町村の数の推移を見ると、村の数が極端にへっているのが判る。 
因みに、昭和の大戦前後までには市数200、町数1,800、そして村数が9000に近い程あったが、2008年11月現在で市の数783、町の数806、そして「村の数」が193までになっていたのである。


次回、「村の意義



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東北紀行(125)田島 「会津西街道」

2011年06月18日 10時20分00秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(125)田島 「会津西街道」  ,




会津鉄道;「会津田島駅」


旧南会津郡役所(明治18年築、洋風2階建、昭和45年現在地に移築復原)


鴫山城址(会津の南部国境、中間防衛拠点として重要視された)



稲刈り後の黄金色に実った稲が、丸太を組んだ干し竿に干されていて、 田がとても美しく街道風景に色を添えている。
会津西街道、国道121号線は、次に南会津の主要地である「田島」に到った。 

国道から右の正面にある会津鉄道の「田島駅」へ所要のため寄ってみた。 
広い駅前にアーチ型の屋根を抱くモダンな駅舎は、チョット都会的なイメージで以外であった。 
先ほど通過した昔の農家を思わせる湯野上温泉駅とは対照的で面白い。


街道沿いは山中にも拘らず意外と賑やかな町並みである。 
気が付けば国道が四方向に交差し、会津鉄道が走る交通の要衝でもあった。
尤もで、田島は会津西街道の中央宿場町で、古来から交通の要所として重要視され、中世以降は会津四家の一つである長沼氏の居城・鴫山城(しぎやまじょう)の城下町として発展してきた。

田島は会津地方、会津藩の南の要であり、すぐ南の山王峠を越えると其処は関東・下野の国である。




国道の向こう側にはチョッとした町並みが広がっている。 その中に三角状の小山が鋭く立ち上がっている。 
街並みの一角には南会津の役所や簡易裁判所があり、その向こうには洒落た建物があって、旧会津郡役所とあり、原形どおりに復原されたものらしい。

小山は愛宕山というらしく、山頂にはに愛宕神社が祀ってある。 
愛宕神社は京都に本社をを持つ、古くから信仰されている火伏せ・防火に霊験のある神とされる。
NHK大河でお馴染みの「天地人・鴫山城址」(直江兼続の弟がこの地方を治めた)と記された幟が立っている。 

その鳥居をくぐった右手に説明板があり、そこから少し奥へ行くと、立派な空堀にカッコいい石垣がお出迎えしてくれる。 
ここが大門跡で、門跡の土塁上から眺めると、高さや深さが実感できチョットした感動ものである。



福島県指定史跡 鴫山城案内板

『 鴫山城は中世に南会津に君臨した長沼氏の本拠でした。戦国時代末に長沼氏は伊達政宗に属しますが、豊臣秀吉は会津を蒲生氏郷・上杉景勝領とし、鴫山城は若松城の有力支城となりました。江戸時代初めに廃城となり、今日に至っています。要はこの山城、傾斜地を階段状にたくみに造成して築城したもののようである。長沼氏とは中世鎌倉時代から室町・戦国時代にかけて田島を支配した一族である。 』


戦国期の天正18年(1590年)、秀吉の最後の大仕事でもあった「奥州仕置」によって、南会津を領有していた長沼氏は伊達氏に従って田島(当時は南山とも言った)を去り、鴫山城には蒲生氏郷の家臣・小倉孫作が6,300石で入城する。

その後、上杉氏時代は直江兼続(上杉景勝の執政)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原の戦い前後、徳川家康の攻撃に備えるために鴫山城の大改修をおこなっている。


直江兼続」は、越後の上杉景勝の重臣として仕えた戦国時代の武将だが、慶長5年(1600)の徳川家康の会津進攻に対する上杉氏の防御線として徳川との戦いに備えた。
兼続自身も会津城から西街道を下り、田島の鴫山城の改修状況を見聞しながら山王峠へ到って関東の状況を視察している。



会津田島は当時、材木や蝋燭(ろうそく)炭、そして隠れた重要な産物として「」が産出したともいわれる。 
拠点となる鴫山城の近くには金の鉱山がかつてあり、又、黒鉱と呼ばれる銀や銀を含んだ鉱石、石英、亜鉛、鉛など、南会津地方は重要な品目の産出地であったという。

次回、「南郷村



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東北紀行(124)大内 「大内宿と戊辰戦争」

2011年06月17日 09時27分22秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(124)大内 「大内宿と戊辰戦争」  ,



吉田松蔭」等が火を放った幕末革命は、いよいよ最終段階に差し掛かっていた。


会津戦争における南の関門ともいえる西街道筋、大内峠付近も緊張の度を増していた。
西軍(新政府軍)がいよいよ会津の鶴ヶ城を包囲し、日光口(会津西街道側)や三斗小屋口(会津中街道側)の藩境を守っていた会津軍には退却の命令が下る。 
会津城を包囲する西軍を後方から包囲するためだった。

しかし、その頃大内は西軍の薩摩藩・広島藩・佐賀藩を主力に九藩等が加わって攻め込んできたため形勢は不利になる。 

会津軍後退の時には大内宿は焼き払われる運命にあったが、当時の名主・阿部大五郎を先頭にした村人の必死の頼みで戦火を免れ、そのおかげで当時の宿駅の姿を今に残すことができたのであった。


因みに、日光口参謀として南会津での戦いを指揮していたのは軍監・薩摩藩士・中村半次郎(当時、「人切り半次郎」として異名をとり、新撰組を恐れさせたが明治元年頃、戦功により「桐野利秋」と改名している)であったと言う。
一行は、1968年(明治元年)9月1日に大内に到着し、会津若松攻略のための軍議を主催している。 その後、会津方面に侵出、会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務めている。


一方、土方歳三は参謀役として戊辰戦争のさなか慶応4年(1868年)に、今市から鬼怒川、川治を経て会津に向かい、宇都宮の戦いで負った傷を癒す為途中の川治温泉(怪我の川治、やけどの鬼怒川と当時言われていた)に逗留したとの記録が残っている。

戊辰戦争(1868年:戊辰の年)における土方歳三については先にも記したが、京・鳥羽伏見で敗戦となった幕府軍は関東へ引き上げ、再び北関東の宇都宮で決戦が行われる。 
土方はその参謀役として奮戦するが、やはり敗戦の憂き目を見ることになる。
決戦の最中、土方は敵の銃弾を受けて負傷しながらも、今市から鬼怒川、川治を経て会津に向かった。 
途中の川治温泉に逗留し傷を癒したという。

更に、次の戦いの場を求めて新撰組隊士の他、同じく負傷した旧幕軍幹部で会津藩出身の秋月登之助等とともに十数人で山王峠を越えて南会津の田島陣屋に到着した。
この後、土方は田島陣屋で秋月と別れ、大内宿、本郷を通り若松城下に到着することになる。

大内宿での土方の差配は定かでないが一旦、会津軍と合流した後、負傷している為と、元はといえば土方は客人であり応援部隊であったがため、この大内の宿で休養をとった後、会津軍が引き上げる前に若松へ向かったとも思える。

次回は 「会津西街道



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東北紀行(123)大内 「大内宿の幕末志士」

2011年06月16日 10時06分40秒 | 会津、会津地方
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 東北紀行(123)大内 「大内宿の幕末志士」   、




会津西街道(福島側では南山通り・下野街道)は、会津から今市までの約30里(約120km)で日光街道に通じ、会津~江戸の最短 ルートとして、会津にとっては白河街道とともに重要な街道だった。

因みに、会津へ通じる主要五街道は、「白河街道」、「二本松街道」、「越後街道」、「会津西街道(下野街道)」、「米沢街道」の街道である。
天正10年(1590)、かの豊臣秀吉の奥羽仕置を行うための会津遠征の時は、行きは白河街道であったが帰り道はこの大内の宿を通る会津西街道ルートだったという。


では、幕末及び戊辰戦争の頃の大内宿はどうだったんだろうか・・?



先ず、吉田松陰は江戸遊学中、幕末(1852年)に東北地方の見聞からの帰路会津から会津西街道の「大内宿」、その後、山王峠を越えて日光経由で江戸表へ出ている。
だが、松蔭が何時頃大内宿を訪ね、どの宿へ投宿したかは定かでない。

吉田松陰」については、小生、「日本周遊記」において山口県、長州・「萩」の項で記しているが、江戸末期、尊王攘夷論者で有名な「吉田松陰」は幕末革命の先駆者であった。 
だが、松陰が存命であったなら戊辰戦争や会津藩をどのように捉えただろうか・・?、いずれにしても、その後輩たちによって会津は「こっぴどいめ」あわされるのである・・!。


幕末の松蔭は、自国・長州萩を「脱藩」して江戸、そして東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
つまり、松蔭は細長い本州列島の西端から北端までを縦断しているのである。
その時の旅の様子を表したのが見聞記・「東北遊日記」である。
 


蛇足ながら、松蔭の「東北旅日記」の一端を記してみよう。

吉田松蔭は兵学修行のため長州から江戸に始めて訪れ、更に、本州の北端にまで遊学している。 
その時期はペリーが艦隊を率いて浦賀に現れる2年前の事であり、この時に松代藩の佐久間象山に師事している。 


松蔭の学問の主目的は、戦術や戦略であるが儒学や洋学をも学び、学問の本当の目的は「知識」ではなく「」を得る事にあると既に喝破している。 
松蔭の言葉に、「 井戸は、深く掘るか浅く掘るかは問題でなく、水の量が問題なのである、学問は一生ささげるべき対象であるが、道を得られたかどうかが問題なり 」、との思考が一貫していた。

 遊学中の江戸にて、数人の友人を得るが、20歳そこそこの松蔭が一番若く、他は皆先輩達であり、会話の中でも大概は「聞き役」であったという。 
友人達が松蔭を評するに「 いつも必要な事しか口にせず、一言発する時は必ず「温然和気、婦人好女の如し、是が松蔭の気迫の源なり 」と。


東北見聞旅行をしたのは江戸遊学の途、松蔭は21歳の時である。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談じ、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見聞することに真剣であった。 

疲れを知らぬ若さで、厳冬の時期にもかかわらず短い間に驚くほどの距離を踏破している。 
水戸、会津、新発田、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、平泉、仙台、米沢、日光などであり、松蔭は行く先々でその地域である国勢(藩勢)、地勢、人柄等を調べている。


最北の地・津軽を訪れた時、蝦夷・松前を望む海峡付近で、外国船が我が者顔に往来航行していた。 
攘夷思想家の松蔭は、「 何故こんなことが許されているのか・・! 」、 又、 竜飛崎近くのアイヌの集落では、日本人商人が彼等を牛馬並みの扱いをしているのを見て、人間味豊かな松蔭は、「 習慣や風俗が違っても同じ人間ではないのか・・」と、いずれも怒りを顕わにしている。


東北では関所を通るのに金が必要なのにも驚いていて、時折、理屈をこねて役人と喧嘩もしたが、米沢藩では入国者を調べはするが、金品は必要としなかったといい、「 さすがに東北を代表する雄藩と称することはある」と感心している。


その旅は苦労の連続であったが、安らぎの一時もあったらしい。
特に本州最北の地、津軽の十三潟(十三湖)を眼前にしたとき初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという。 
そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野が知恵や見識、勇気を与えてくれたことも察していたのである。

松蔭は、外国を含めた対外事情を見聞、経験するに従って、洞察力を見に付け「人は学識を広めてから旅をするというが一般的であるが、松蔭にしてみれば、「 旅をして学識を広める 」とも思えたのであろう。 

旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
記録によれば、江戸を出発(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─(会津西街道・大内宿)―今市─日光─足利─江戸(4月5日)。

江戸に戻ったのは嘉永5(1852)年4月5日であった。 


次回、「大内宿と戊辰戦争



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「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」