整理をしていたらアメリカのハモンド社が発行していた1964年の7月―8月号が出てきた。この号は珍しくジャズオルガン特集でJimmy Smithの手記と、ジャズ楽器としてのオルガン(ジャズオルガンの歴史)をジャズ批評家のレナード・フェーザーが書いています。ジミー・スミスの手記は先にFBに投稿したのでジャズオルガンの歴史を紹介します。日本語訳はYuki Maguireさん。
ジャズは、学術的な知識や十分な資金を持たないミュージシャンが演奏する自然発生的で非公式な音楽としてスタートし、発展過程で少しずつ演奏楽器の種類が増えていきました。 ギターやバイオリン、吹奏楽で使われる金管楽器(トランペット、トロンボーン、クラリネット、サックス)などの生の楽器(多くの場合手作りの)は、いつでもアクセス可能なピアノとともに、早い段階でシーンに登場していました。 当然のことながら、フルートやさまざまな木管楽器など、主に交響楽団系の楽器は、かなり遅れて登場しました。 オルガンの登場も同様の理由で遅れました。 初期の黒人教会音楽には、ジャズ以前の音楽形式と関連するものもありますが、実験開始から20~30年の間は、パイプオルガンでさえほとんどのジャズ演奏者にとっては手が届かないものだったのです。 ジャズは、現在、シンプルで文字のない民族音楽から洗練された芸術形式へと進化し、西洋世界のほぼすべての楽器で演奏されるようになりました。その中でも、1935年にローレンス・ハモンドによって発明されたエレクトリック・オルガンの進化ほど、急速で目覚ましいものはありません。わずか15年前にあまり見かけなかったものが、今日ではこの分野で最も人気のある楽器の1つになりました。ビッグバンドジャズ用としてではなく、全米の無数の小さなナイトクラブやカフェでピアノの代わりに使用されています。 「オルガントリオ」(通常はオルガン、ドラム、ギターまたはサックスのいずれかで構成されます)は、小さなコンボの楽器組み合わせで最も一般的なものの一つとなりました。 演奏者の質と量は信じられないほどのスピードで成長してきています。 ジャズにおけるオルガンを考察するには、まずは輝かしい存在であるピアニスト兼シンガーの、トーマス・「ファッツ(太っちょ)」・ウォーラー(1904-1943)まで遡らなければなりません。ウォーラーは、青春時代に教会でオルガンを演奏することを学びました。 1926年にビクター社がパイプオルガンで「セント・ルイス・ブルース(St.Louis Blues)」と「レノックス・アベニュー・ブルース(Lenox Avenue Blues)」を録音したのを皮切りに、亡くなるまでオルガンのレコーディングを時々行いました。特に、 彼の人生の最後の3年間には、有名な「Jitterbug Waltz」をはじめとする電子オルガンの名演奏がいくつかありました。 1920年代にウォーラーから非公式にオルガンの手ほどきを受けたカウント・ベイシーは時折オルガン奏者としてレコーディングしましたが、両刀使いの多くのピアニスト同様、演奏機会が少ないため、自分のテクニックに自信を持てずにいました。 1930年代にジャズの演奏を試みたオルガン奏者は他にも何人かいました。 ミルト・ハースはベテランのラグタイム・ピアニスト、ウィリー(ザ・ライオン)・スミスとのデュオ演奏シリーズを作り、グレン・ハードマンはテナー・サックス奏者の故レスター・ヤングをフィーチャーして、今では貴重なコレクターズ・アイテムとなっているレコードを制作しました。 しかし、1950年頃にビル・デイヴィスが彗星のように現れて新しい時代を切り開くまでは、ジャズにおけるオルガンの存在自体ほとんどなかったのです。 デイヴィスは、1945年から48年にかけて、ルイ・ジョーダンのジャズグループ「ティンパニー・ファイブ」のピアニストとして活動していました。 その頃、彼はジャズミュージシャンの間でオルガンに対する関心がほとんど欠如していることに気づいたのです。デイヴィスは、1949年から本格的な練習を開始し、倍増するピアニストにはなじみの薄いペダル奏法を身につけるとともに、多様な音の組み合わせに関する一般的な知識を身につけていきました。 1950年、デイヴィスは実験的なレコーディングをしました。そのうちの1枚には、モダン・ジャズ・オルガンというアイデアを気に入っていたデューク・エリントンのレコーディングにゲストアーティストのピアニストとして参加しました。 それは、前例のない初めての試みでした。 ジャズミュージシャンとして初めて、電子オルガンでスイングするという問題を克服したのです。 それまでは、オルガンには音や和音の持続性に大きな問題がありました。ほんの一秒鍵盤を押し続けるのが長すぎると、ジャズ本来の感覚を損なうレガート効果になってしまい、短すぎると、陳腐なスタッカートのような印象を与える傾向がありました。 実際、ウォーラーやベイシーなどの例外を除いて、ジャズのとらえどころのない本質と互換性のあるフレージングの方法を見つけることができなかったのです。 その後まもなく「ワイルドビル」というニックネームを獲得したビル・デイヴィスは、オルガンをナイトクラブに持ち込むようになりました。 すると、すぐに周りから敵意や懐疑的な反応が返ってきました。 「何をやってるんだ?」と、 常連客やクラブ運営者が彼に尋ねます。 「ここで教会でもやろうと思ってるのかい?」などです。 しかし、デイヴィスの即興演奏は、長い単音の直線的なパッセージであれ、血の通った和音の連続であれ、ほとばしるようなインパクトがあり、オルガンとジャズの関係のように、オルガンとナイトライフが相容れないわけではないことをすぐに明らかにしました。デイヴィスがデビューした同時期、ライオネル・ハンプトンのバンドのピアニストだったミルト・バックナーも、オルガン奏者として注目を集め始めました。 ジャズに欠かせない多くの革新的な技術が生まれたハーレムでは、いくつかの重要な動きがありました。 ジャズオルガンの変遷の中で見過ごされがちなオルガン奏者、チャールズ・スチュワートは、ハーレムの中心部にあるウェルズ(現在も他のミュージシャンで営業中)という小さなカフェでハモンドソリストとしてフィーチャーされていました。(僕はチャールズ・スチュワートを知りません。彼を知ってる方は教えてください) ビル・デイヴィスの最初のレコードや出演が新しいパターンとして定着してから間もなく、同じような経歴を持つ2人のミュージシャンがオルガン奏者として注目されるようになりました。 二人ともルイ・ジョーダンとピアノを弾いていました。 1950年代前半にエラ・フィッツジェラルドのレコードにオルガン奏者として参加していたビル・ドゲットと、フロリダ出身でダイナー・ワシントンやフィッツジェラルドなどのピアノ伴奏をしていたこともあるジャッキー・デイヴィスです。 ジャッキー・デイヴィスは、ジャズピアニストの中でもいち早くオルガンに転向した人物ですが、オルガン演奏での地位を獲得するまでには数年がかかりました。技術的に最も熟練したパフォーマーの1人である彼は、一部のオルガン奏者がジャズの興奮と同一視する、時には過度に「ワイルド」なサウンドをあまり傾倒しませんでした。 彼の味のある、時にリラックスしたソロは、最近のワーナーブラザースのアルバム「Easy Does It」で最も素晴らしいです。 デイヴィスは、ジャズオルガン奏者の少数派になりますが、ストリングベース奏者と一緒に演奏することに反対しませんでした。ジャズオルガン奏者の中には、ペダル奏法を習得する手間を省くためにベース奏者を起用する人もいましたが、ベース奏者の演奏する音がオルガン奏者のペダル演奏する音と重複したり、場合によっては衝突したりするのではないかと感じる人もいたのです。 これは、ジャズオルガニストとストリングベース奏者がお互いを理解、フォローし、お互いを補完し、お互いに補完し合うアイデアを生み出し、全体のサウンドに貢献することで初めて解決する問題です。 モダン・ジャズ・オルガンの「3D」(ビル・デイヴィスBill Davis、ジャッキー・デイヴィススJackie Davis、ビル・ドゲットBill Doggett)の登場後、次に重要な役割を果たしたのは、フィラデルフィアに住む若いピアニストでした。 1953年、ビル・デイヴィスに触発されたジミー・スミスは、オルガン演奏に着手することを決意し、2年ほどかけて革命的なテクニックとスタイルを独学で身につけました。 スミスは、1955年末にトリオを結成し、1956年春にニューヨークで初めて演奏を披露しました。 彼は瞬く間にセンセーションを巻き起こし、続けてブルーノートのアルバムを次々とレコーディングし、1960年代初頭には最初のベストセラージャズオルガン奏者、そして、全く新しい流派の創始者としての地位を確立していったのです。 スミスの最大の長所は、まず、マニュアルとペダルの両方で驚異的なスピードとテクニック、そして前例のないほどの多彩なストップを使いこなしたことです。 彼が熱狂的なアップテンポでブルースを演奏するのを聞くことは、旗信号を一生かけて見た後にモールス信号で勢いよく出てくるメッセージを聞くことに匹敵するような経験です。 スミスの最も価値のある商業資産、そして驚異的な成功の秘密は、緊張と興奮の雰囲気を作り出す能力です。 時に、彼は片手で長いオスティナート効果を確立し、もう一方の手でまばゆいばかりで終わりのない一連の8分音符または16分音符をアドリブすることによって作り上げるのです。 リズムのアクセントに対する生来の感覚が、彼の作品にジャズ的な価値を与えていますが、スミスのアイデアは決してリズムのギミック(仕掛け)に限定されません。 私はかつて、彼の成功は「トーン、リズム、メロディ、ハーモニックの4つのレベルでの達成の融合」であると書きました。 スミスがクラブでピアノの代わりとして、そしてアルバムでの表現の媒体として、電気オルガンの大きな商業的可能性を確立すると、ジャズ・シーンにオルガン奏者に改宗したピアニストが大量に押し寄せてきました。現在ではあまりにも多くの才能あるアーティストがいるので、すべてを挙げて分析することは不可能ですが、より注目に値する貢献者を何人か挙げてみることにしたいと思います。 ここ数年、主にロサンゼルスで活動しているリチャード・"グルーヴ"・ホームズはデイヴィスとスミスの良いところを組み合わせたオルガン奏者です。 彼は、ビッグでスウィングするバンドと組んでモダン・ジャズ・アルバムを成功させた最初のオルガン奏者です。(パシフィック・ジャズのジェラルド・ウィルソンズ・オーケストラと共演した『You Better Believe It』)。ジミー・スミスは、数年前にブルーノート・レコードからヴァーヴに移籍して以来、ビッグバンドでの録音も成功させています。 ジャズにおけるオルガンの新しい使い方が、ここ数年で明らかになってきました。 卓越したジャズシンガーが、クラブやレコードでオルガン奏者を伴奏に起用していますが、その理由は、オルガンに特有の温かみのある親密なハーモニーで、また、オルガンは、一人のミュージシャンがいるだけでで重厚なオーケストラサウンドができますし、他に15人もミュージシャンを雇う費用を節約できるからです。 ヴォーカルとオルガンを組み合わせたアルバムとしては、ジョー・ウィリアムスがカウント・ベイシーと共演した『Memories Ad Lib』(ルーレット)、エラ・フィッツジェラルドがワイルド・ビル・デイヴィスと共演した『These Are the Blues』(ヴァーヴ)などが印象的な作品です。 少なくとも2人の著名な歌手が表現の手段としてオルガンに注目しています。 レイ・チャールズがジャズの観点から最も成功したアルバムの1つが、インパルスから発売された『Genius Plus Soul Equal Jazz』で、彼は全曲オルガンを演奏しており、10曲中2曲だけを歌っています。 ナット・キング・コールは最近、キャピトルからLP「Let's Face The Music」をリリースしましたが、その中で数曲、ハモンド・オルガンを演奏しています。 電子オルガンがジャズの主役として確固たる地位を築いた今、あと一つだけ越えなければならない重要な壁があるように思われます。 1950年にこの楽器の使い方を現代仕様にし、1955年から60年の間には時代に合わせてきたオルガン奏者たちですが、その後のジャズの数々の新展開には、不意を突かれた者もいます。 オーネット・コールマンの無調の実験、ジョン・コルトレーンのインド風の革新、ガンター・シュラーのさまざまなグループが実践している交響楽団とジャズバンドの要素を融合した「サードストリーム」など、さまざまな形で表現される前衛ジャズは、まだジャズオルガン奏者の注目を集めたり、参加を促したりすることはないようです。 唯一の例外は、ハリウッドで活躍する作曲家・編曲家・ピアニストのクレア・フィッシャーで、彼がパシフィック・ジャズからリリースした最新アルバム「Extension」では、オルガンを斬新な前衛的に使用しています。 アルバムの解説によると、「フィッシャーはバンド内の楽器を主に "オーケストラ・ミックス "として使用し、彼が重要と思ういくつかの楽節でハーモニーの密度を高めている。」とのことです。 現在のジャズ・オルガン奏者の多くは、まだ、ブルースや和声的にストレートなバラード演奏や楽器の目新しさに固執していますが、フィッシャーのオーケストラ的な楽器の使い方構想は、画期的な突破口を示すものかもしれません。 それが実現すれば、遅ればせながらも、ジャズという多彩なポリフォニー(多声音楽)において、迅速なサクセスストーリー、つまり、電子オルガンが力強く、凛とした存在感のある重要な役割を果たすという注目すべき一章が加わることになるでしょう。(は元々ハモンドB3オルガンを弾いていましたがどうしてもジミースミススタイルの演奏になり二番煎じになるのを嫌いパイプオルガンや他の電子オルガンを弾いています。)