松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆こどものまちの公共性(相模女子大学)

2016-08-15 | 1.研究活動

・はじめに

 こどものまち全国サミットが、サガジョであった。今回で10回目という記念すべきサミットである。お盆の土曜日と日曜日、講演会やワークショップが行われたが、私もコーディネーターをやり、いくつかの場面ではコメントを求められた。

 基調講演をされた延藤先生が、いつも軽妙かつポイントを突いた比較的長いコメントをされるので、私は、あまり出しゃばらず、短めのコメントをしてきた。ただ、最後のワークショップでは、「こどものまちの目指すもの、続け方」を巡って意見交換が行われたが、ここは、とても大事なところなので、やや長めで辛口のコメントをさせていただいた。
 覚えているうちに、言いたかったことを少し書き足し、記録として残しておこう。
 

1.こどものまちの理論・理念

 話した内容は、こどものまちの理論・理念の必要性である。この活動の理論的な裏付けが、今こそ必要で、それが問われていると感じたからである。ただ理論といっても、内容的には、そんなに難しいものではない。

 結論部分を簡単に言うと、私的活動領域にとどまっている「こどものまち」を緩やかな公共空間に落としこむ作業が必要ではないかという話である。それがないと、いくら「子どもから、学ぶことがあった」という体験を語っても、「よかったですね」という個人的感想に終わってしまうことになる。 

2.発展・持続のポイントは公共性

・なぜこどもの家ではなく、こどものまちなのだろう

 こどものまちの活動が、継続し、安定していくためのポイントは、公共性だと考えている。なぜならば、この活動が、子どもの「家」ではなく、こどもの「まち」だからです。まちには、ハードもソフトもあるが、「まち」なので社会性、公共性が付いて回る。そこがポイントである。 

 公共性は社会性でもあり、もう少しわかりやすく言うと、大義名分だと思う。大義名分とは、みんなが納得する、その通りだという、共感性、説得性である。どの市民活動でも、持続し、広がっていくには、この共感性、説得性があるかどうかである。この共感性・説得性の理論・理念を腹に持って活動しているかである。逆に言うと、全国サミット10回目を迎え、全国に80以上あるという(こどものまちとは何かという定義によっては、もっとたくさんあるだろう)こどものまちが、どのような理論、理念を持っているのかがいま問われているのだろう。

 ・公共性の対はバカップル

 公共性の対は、バカップルである。バカップルとは、電車の中で、二人だけの世界をつくってイチャイチャしているカップルを言うそうである。当事者同士は了解しているが、はた目には迷惑だし、少し羨ましいから、それが反発に変わる。なんだあいつらということになる。 

 でも最初の活動のスタートは、バッカプルでよいと思う。同じ関心を持ち、やってみようという思いを持つ人がいなければ、始まらない。長く続きもしない。人目をはばからないバカップルの紐帯はとても強い。 

しかし、いつまでもそのままだと、バカップルになってしまう。その結果、
 ・その人が疲れると終わってしまう。
 ・ほかの人が入れない。
 ・アイディアや行動がワンパターン化してしまう。
 ・それは、こどものまちではないという言い方になる。
 
バカップルは、閉鎖性、負のスパイラルに落ち込む危険が常にある。

 他方、発展や広がり、持続するという場合のキーワードは、公共性・社会性である。公共性とは納得性である。「よくわかった」という共感がなければ、発展や広がりは望めない。「その通り」と思う説得性が、こどものまちにあるのか、それを腹に持っているのかが問われてくる。 

 ここでは、こどものまちのステークホルダーごとの共感性や説得性を考えてみよう。

・親とこども

 子どもは、面白い、楽しいが共感性である。だから、子どもにとって、楽しめるものをつくっていく必要がある。それが必要だし、面白くなければ肝心の子どもが参加しない。

 他方、親にとっての共感性は、それぞれの親ごとにあると思う。自分の子どもが、成長していく機会として、こどものまちがあれば、そこに我が子が生き生きと参加すれば、親とすると何よりうれしい。参加させてみようという気になるような内容にすることが、共感性のポイントである。

 子どもと親が、楽しめることは、この事業の出発点であり、大切にすべきことではあるが、あくまでも私的領域での事柄にとどまっている。これは時にはバカップルにとどまってしまう。さまざまな事情で参加できない子どもや親から見て、バカップルと見えてしまうこともあるだろう。そう見えるようだと、社会や自治体からの共感性は、獲得できない。

 ・大学 

 大学が、こどものまちに参加するのは、主に学生の教育と外部評価(評判)である。外部の評判の先には、入学者の確保という期待もある。それが大学にとっての共感性である。

 昨日の懇親会でも話したが、子どものまちの実行委員長の小林さんも豊島さんも1年生の時から私のゼミである。だから、よく知っていて、入ってきたときは、こんな人前で話をするような学生なるとは思わなかった。それが、こんな大役を果たす学生に成長したということは、こどものまちは、学生教育に効果があるということである。少なくとも私の授業より効果的ということである。 

 大学を取り巻く厳しい状況の中で、大学は生き残り競争の真っただ中に放り込まれている。その生き残り策の一つが、地域に信頼される大学になるということである。これは大学の経営という観点から考えるとすぐにわかる。大学には10%の税金が入っているが、国家財政が厳しい中、早晩、削減の対象となる。そのとき生き残るのは、税金を出している住民の信頼である。相模女子大学は、地域貢献女子大ナンバーワンで、地域に役立っているから、税金を出そうという判断になる。こどものまちは、地域の信頼を得る有効な事業である。

 地域からの信頼は、もっと直接的なPR効果もある。また、こどものまちを手伝うスタッフには、たくさんの高校生もいる。いわば一つのオープンキャンパスである。入学者増加という大学側の思惑にも合致する。 

 だからこどものまちの活動に、大学を巻き込むことは容易である。この大学側の共感性(大義名分)に焦点を当てて、働きかければ、大学の参加は大いに期待できる。これから始めるところは、ほかの子どものまちの取り組みを具体例として示しながら、大学側のメリットを示しながら説明すればいいと思う。 

 大学も巻き込めば、一定の広がりが出てきて、少し、公共性が出てきたが、まだ私的世界での行いにとどまっている。 

・企業

 企業が参加する大義名分は何だろうか。ひとつは、利益の確保である。参加することで、売上が上がれば一番よい。同時に企業としての社会貢献・社会的評価も重要である。今日では、社会貢献への配慮なしに、企業活動はなりたない。企業も社会的存在だからである。 

 この点については、時間がないので、詳しく述べないが、協賛、後援企業としての宣伝、その企業に子どもや親が買い物に行くといった仕組みや工夫が、企業を巻き込むポイントになると思う。

 それでもまだまだ、私的な世界にとどまっている。  

・役所

 さて、一番、ここで論じたいのは、自治体である。自治体がこどものまちの事業に参加、協働するにはどうしたらよいかを考えてみたい。

 自治体の目的は、市民サービス、住民自治の向上である。それが参加、協力の大義名分、公共性である。分科会での発言を聞いていると、ここに苦慮をしているようだ。

 たしかに全国サミットをやりますと手を挙げる場合、自治体からの何らかの助成が必要になる。活動を継続する場合、自治体による人的、物的、さまざまな支援が必要になる。しかし、こどものまちの公共性をめぐる理論や体系が弱く、そこが行政との連携・協力を停滞させる原因のひとつになっていると思う。

 行政の行動原理は、この事業が「みんなのこと」になっているかである。なぜならば、行政というのは、みんなの税金で活動するからである。助成金、補助金など、さまざまな形で税金を出すが、こどものまちに興味のない人にとって、共感できる内容になっているかである。言い換えると、行政が、大半の興味のない市民に向かって、自信をもって説明できる理論や体系を示せているかである。

 こうした共感性や納得性が得られないとどうなるか。これに税金を出すと、「私たちの税金を使わないでよ」という声になる。昨日も言ったが、私的なボランティアに公金を出すと憲法違反と、わが憲法には書いてある。この憲法を乗り越えるだけの公共性(大義名分、納得性)を示すことが求められる。

 自分たちは、いいことをしているのだという声は、私的な世界ならば通じるが、公共空間では通用しない。安易な税金の支出は、訴訟になる。自分たちの税金を私的なことに使ったといって、住民訴訟が起こってくる。これを乗り越える共感性や説得性が求められるということである。

 それなしに、今度、全国サミットをやりたいのですがと窓口で相談しても、「いいことですね。どうぞ自由にやってください。邪魔はしません」、「全国サミット、いいじゃないですか。でも、自分たちでお金を出してやってください」ということになってしまう。

 ただ、自治体によっては、全国サミットをやることで、県外から一定数のお客さんが来る、損得計算するとプラスだからという説明で納得するところもあると思う。これも共感性、説得性であるが、この論理は、一定数の県外からのお客さんが来ない活動の場合は使えない。基本にさかのぼった、こどものまちの理論や理念を早急に組み立てなおす時なのだろうなと思う。

 3.私にとって、子どものまちとは

・まちの主体としての子どもを育てる

 そもそも、こどものまちの理念は何だったのか、それは保護の対象に過ぎなかった子どもを、まちの主体としての子どもに育てていくということである。いいかえれば、民主主義の体現者としての子どもを育てていこうという思いが、こどものまちの事業の根底にあったはずである。

・大人のまちへの問いかけ

 同時に、こどものまちは、おとなのまちへの問いかけである。現在の大人の社会は、このままでよいのかという問いかけでもある。大人たちは、まちの主体として、その力を発揮しているか、あるいは民主主義の体現者として行動しているかを、子どもを写し鏡にして、大人自身一人ひとりに問うている。

 ここで民主主義とは、多数決ではない。価値の多様性である。価値は一様ではなく、いろいろな価値があり、それぞれにきらりと光るものがある。それを認め、さらに伸ばしていくのが民主主義である。そこから、新しい発見や発明を見つけていこうというのが民主主義になる。日本の年少人口は1600万人であるが、残りの1億人強の大人に対しての問いかけているのが、こどものまちといえる。        

 私も気をつけているが、大人というのは、自分のこれまで経験してきた心象風景に縛られ、そこから物事を発想する。子どもの視点からは、別の風景があることに教えられ、考え直す機会となる。「負うた子に教えられ」と言うが、子どもに言われると、大人は比較的素直に共感する。

 4.こどものまちの理念を考える

・こどものまちは、私たちの社会の基本理念である支えあいを学ぶ場である。

 人口減少の時代、また超高齢社会でもある。高齢化率はすぐに30%に達し、40%に向かう。これを支える社会保障制度は、支えあいの仕組みであるが、実は、それ以外に制度化されていない、たくさんの支えあう仕組みがあり、それで私たちの社会が維持されている。 

 多くの国民を将来支える、支え手である子どもたちが、まちの当事者でないのことはそもそも不合理である。次代を支える若者が、まちにそっぽを向いたら、私たちの支えあう社会は続かないし、いやいや支えるようならば、殺伐としたまちや社会ができあがる。

 こどものまちでは、子どもも働き、税金を払う。これは支えあいの仕組みの実践である。ハロ-ワークや銀行、警察や消防も支えあう仕組みである。

 子どものうちから、支えあっている社会やまちの仕組みを、しかも楽しみながら学ぶ場は、そうあるものではなく、これがこどものまちの優位性だと思う。

 ・こどものまちは、疑念・対立を越えて、協力・連携を学ぶ場である。

 世界を見ると、人種や宗教に理由に、あちこちでテロや殺人が行われている。日本では、そこまでには至っていないと安心していたが、ヘイトスピーチが、公然と行われる社会になった。ネットの世界では、差別や偏見に基づく発言があふれ、マスコミでは、一方的なレッテル張りも、平然と行われる社会になった。こうした土壌の上に、あの相模原の事件は起こったのだと思う。

 ここで問われているのは、民主主義である。何度も言うが、民主主義とは価値の相対性である。それぞれに言い分があり、それぞれにきらりと光るものがある。そこに光を当てて発展させていく社会というのが民主主義の意味である。それは他者を認めるということである。その民主主義をきちんと身に着けていかないと、第二、第三の相模原の事件が起こるのではないか。

 子どもの発想には、私たちの未来を拓くヒントがあることは、昨日の延藤先生の絵本にたくさんのヒントがあった。他者を認め合う場所として、こどものまちがあるあるはずである。この観点から、現在のこどものまちが、うまく作られているか、そこに継続や発展のヒントがあると思う。 

・これからの住民自治を担う市民を育む試みとしてのこどものまち

 自治体がこどものまちの活動に共感し、さらには協力、助成を行う際のポイントは、自分たちのまちは自分たちでつくるという住民自治の原理である。こうした住民自治を組みてて直していかないと、私たちのまちや社会が続いていかないことはすでに述べた。 

 これをどう具現化するか考えていくのが、大人の担い手たちの役割である。何度も言うが、たいして難しい話ではないと思う。ここに光を当てて、情報を出し合い、知恵を出し合えば、いいヒントはいくらでも出てくるように思う。

 住民自治などというと、その言葉自体で、すぐにひかれるので、言葉としていう必要はない。これを頭に入れて、腹にはきちんと落として、楽しい活動を組み立ててほしい。 

5.自治体側に期待すること

 せっかくのいい提案やアイディアも、聞こうという気持ちがないと、聞くことができない。私の好きな亀井勝一郎は、これを邂逅という。邂逅とは、めぐり合いであるが、めぐり合いは、めぐり合おうといういう気持ちがあって、初めてめぐり合える。 

 だから、行政や議会・議員は、感性を研ぎ澄まし、豊かな感受性をもって、向かい合ってほしい。その感性は、人口減少・超高齢時代を見据えて、自分たちのまちの未来を考えれば、簡単に磨けるはずである。 

 今は、こどものまちと自治体側の間には、小さな川があるが、両者の架橋は、そんなに難しいことではない。ちょっと集中して考えれば、すぐに橋は架かる。ぜひ、考えてみてほしいと思う。


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