「願興寺」悠久の1200年

最澄縁の願興寺ブログ。2015年には開基1200年祭を予定。本堂、24体の仏像が国指定の重要文化財。

愚渓寺序でに…

2010-07-10 18:01:48 | 願興寺
愚渓寺の僧侶たちによって、願興寺の仏像群や大般若経600巻が救われたお話を前回させていただいた。そのついでとは、愚渓寺に失礼であるが、今回取り上げさせていただく。

1420年代後半に愚渓寺は義天玄承によって創建された。義天玄承は妙心寺第五世であるが、彼の師である妙心寺第3世日峰宗舜は、師の無因宗因が死去後、彼の足跡を辿って美濃の春木(御嵩町平芝)に「無薯庵」という草庵を結んで修行に努めていた。その数十年後に義天玄承も、先師の足跡を辿ってこの地に「愚渓庵」を結んだ。

義天は当時、美濃国守護代「斉藤利永」親しく、京都では管領「細川勝元」を檀家にするというように権力者とのつながりがあった。愚渓庵は永正3年(1506)に美濃国守護「土岐美濃守政房」により、正式に「愚渓寺」の寺名を与えられた。この頃の愚渓寺は現在の場所から北方にあった。

京都の竜安寺は、白砂を敷き詰めた石庭が有名であるが、この愚渓寺にも「臥龍石庭」と呼ばれていた石庭が存在していた。この石庭には7つの石を配していた。臥龍形が施されていたのは、龍が仏法の守護神とされるからであったという。義天は竜安寺に石庭を建設する前に、この愚渓寺で石庭構想をつくりあげていた。

現在は3つの石を使った石庭が私たちを迎えてくれる。画像は愚渓寺風景で、2重の塔は、二条城の装飾にも携わった多治見の名工野村作十郎の設計とされる。

願興寺公式サイト



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