きんいろなみだ

大森静佳

映画『奇跡の丘』

2016年01月31日 | 映画
楽しみにしていた『奇跡の丘』(イタリア語原題:Il Vangelo secondo Matteo)を少しずつ観る。原題は「マタイによる福音書」の意味。1964年の映画で、監督はピエル・パオロ・パゾリーニ(1922~1975)。
四つの福音書のなかでもっとも簡潔な美しさを誇るマタイ伝に沿って、イエスの誕生から磔刑、復活までの物語がきびきびと流れてゆきます。
無神論者のパゾリーニが、徹底的なリアリズムによってイエスの生涯を描く。
イエス役をはじめすべてのキャストに、職業俳優ではなくいわば素人を起用しているというのが見どころ。ベタニヤのマリアをイタリアの作家ナタリア・ギンズブルクが、そして老母マリアはなんと監督の実母スザンナ・パゾリーニが演じています。

まず、はっとさせられたのが、画面の乾いた明るさ。
映画全体を通して夜の場面がほとんどないんです。南イタリアでロケが行われたということもあって、拍子抜けするほど明るい光が溢れています。モノクロの画面のなかで、光の質感と風にそよぐ髪や衣服が印象的。
これまでに観たイエスの映画、たとえば『パッション』や『ゴダールのマリア』などでは、夜の暗闇の神秘がいたるところで効果的に使われていたと思うのですが、『奇跡の丘』はとにかく明るく乾いた場面が続く。夜のイメージが強い東方三博士の来訪やゲッセマネの園の場面でさえ、白っぽい光が容赦なく射して、イエスの枕を這う蠅なんかを照らしているのです。

リアルで、ストイックで、ある意味とても残酷なイエス伝。
大学生が演じるイエス、小太りのヨセフ、猿みたいな髪型の洗礼者ヨハネ。
どれも西洋絵画などで普段目にする聖人たちの鮮やかな姿とはまるっきり正反対で、とてつもなく平凡です。十二使徒はみんな若くて頼りなさそう。東方の三博士も、さらには天使と悪魔だって、普通の人間の恰好をしている。きわめつけはヘロデ王の宴で踊って洗礼者ヨハネの首を要求したサロメ。妖艶で邪悪なイメージがありますが、この映画のサロメはただ痩せっぽちで素朴な少女です。
聖書の奇跡が、そういったきわめて平凡なひとびとの平凡な世界で進行してゆくことに、何だか胸を衝かれる思いでした。

いわゆる美男とか美女は全然登場しません。でも、平凡なひとびとの平凡な顔が矢継ぎ早にアップで映るとき、人間の顔って本当にいいなあと思わずにいられない映画です。マタイ伝にある言葉だけを忠実に採用していることもあって、登場人物たちの台詞は、説教シーンのあるイエスを除けば、極端に少ない。その分、各人物の顔の筋肉と骨格、そして表情が、眩暈がするほどの迫力で語りかけてくる。

裏切りの使徒ユダは、最初に画面に登場したときからずっと眩しそうな表情です。

麺麭割きてなんぢユダてふ 夕映は硝子の肉のうちにこもれり  塚本邦雄『青き菊の主題』

モーリャックのイエス伝『イエスの生涯』を座右の書に挙げている塚本邦雄もまた、「もとより神、唯一超越神を信じたこともない。私が會つたのはナザレ生れの青年イエスであつた」と告白しながら、神ではなく生身の人間としてのイエスの魂を、短歌に呼びこみ続けました。そういう意味では、無神論者のパゾリーニと近いものがあるのかもしれません。
『イエスの生涯』で描かれた、ユダの激しい孤独と妬みを思い出します。ユダには、すべてが眩しすぎたのかもしれません。イエスの死刑が決まった後、自分のしたことに絶望したユダは自殺。全速力で走って崖へ行き、木の枝に自分の首を吊ってしまう場面は、スピーディで淡々としていて、余剰のなさが怖い。

一番印象的だったのは、冒頭の処女懐胎のシーン。マリアの顔が大写しになった画面から、この映画は始まります。懐妊を告白するマリアと、戸惑いを隠せないヨセフの顔が交互にゆっくりと映って、台詞は一切なし。深いふかい沈黙です。

この冒頭のマリアの顔の果てしない無表情が、かえって雄弁です。まばたきもせず、大きくひらかれて虚空を見つめる瞳。このマリアの瞳のなかに、すべてのことがあらかじめ物語られているような。マリアにだけは、イエスの最期が見えてしまっているような。

風の苧環 イエス殺されたるのちのマリア襤褸のごとながらへき 塚本邦雄『魔王』

前半の若いマリアが終始何かを見上げるような表情なのに対して、後半に出てくる老いたマリアはずっと俯いています。十字架のイエスを直視できていない。

しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり 塚本邦雄『水葬物語』
掌の釘の孔にてみづからをイエスは支ふ 風の雁來紅(かまつか) 同『星餐圖』

終盤、イエスは拷問によってぼろぼろになった肉体を十字架に打ちつけられます。十字架上で三度目の槌が振り下ろされたとき、イエスの掌の骨が砕ける音が響く。
イエスが最期の叫び声をあげた瞬間、町が地震でひび割れ、建物が崩れます。この大仰なシーンだけはどうも興ざめだなと思って観ていたのですが、マタイ伝には確かに「地震ひ、磐さけ、墓ひらけて」という記述があるんですね。

『奇跡の丘』では、イエスはどちらかと言えば冷酷な人物として描かれますが、平凡で人間臭い弟子や両親たちの渦の中に置かれることで、イエスの冷たさの奥にある孤独や苦しみがじわじわと見えてくる。バックに流れる世界各国の宗教音楽も、不思議な効果をあげています。

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