きんいろなみだ

大森静佳

【月と六百円】浜田康敬『望郷篇』2016/1/20

2016年01月31日 | 短歌
「塔」短歌会事務所(烏丸丸太町)で月に一度、「月と六百円」という歌集読書会をひらいています。筑摩書房の『現代短歌全集』全17巻に収録されている歌集から毎月一冊ずつを選んで、皆で読みあう会です。「塔」の事務所を会場にしていますが、会員でない方の参加も歓迎。
毎回約15名前後の参加がありますが、この日は雪と寒さのためかやや少なめで10名の参加。
とりあげた歌集は浜田康敬『望郷篇』(1974年)です。

浜田康敬は1938年北海道釧路市生まれ。23歳のとき「成人通知」で第7回角川短歌賞を受賞するも、一時は作歌を離れたこともあって、第一歌集が出たのは13年後の74年。現在は結社無所属で、宮崎市在住。角川短歌賞の賞金2万円で旅行した宮崎が気に入って、そこにそのまま移り住んでしまったという逸話が鮮烈です。現在までに歌集は五冊。

今回の読書会では、浜田康敬の特徴として
・「叙述」のひとであること
・ものをよく「見る」ひとであること
が挙がりました。

豚の交尾終わるまで見て戻り来し我に成人通知来ている

「成人通知」50首の末尾を飾った、歴史的名歌。確かに、叙述のパワーを感じます。豚の交尾を目撃してしまったことと成人通知が届いたこととは本来無関係なんだけれど、そのふたつを繋げることで、グロテスクに乾ききった現実が立ちあがってくる。三句目、たとえば「戻り来れば」などとしてゆるやかに展開させることもできたところを、「戻り来し我に」と自分の行為さえも外側から描写する。徹底的に叙述のひとです。叙情ではない。心理的な襞を繊細にうたいあげるロマン派的なタイプとは真逆の作風です。

『望郷篇』には、塚本邦雄による解説「亡羊変」が添えられていますが、歌集の解説文としては異例の長文で、熱っぽい口調に圧倒されます。その冒頭、成人通知の一首についてはこのように言っています。

浜田康敬はみづからの二十歳をこのやうに記念した。正確に言へば呪つたのであらう。少なくともここに頌歌の趣は皆無であり、当然のことながら感傷は微塵もない。さらに言ふなら無感動と呼ぶ艶消しの感動すら翳を止めず、有るのは青春への憎悪と愛想尽かしであり、ひいてはかく呪はねばならぬ不条理への告発だつた。

「無感動と呼ぶ艶消しの感動」すらない、ぶっきらぼうで不器用な青春歌。言葉の美や思想を追求した前衛短歌運動の残響のなかで、いっそう新鮮に響いたことと思います。

動くこと美しければチェロ奏きのチェロの高さにのどぼとけ見ゆ

これはものをよく見ている歌。演奏会に来ているのに、音楽を「聴く」のではなく、奏者の姿を「見る」ことに徹しています。「動くことそのものが美しい」という抽象的な箴言から入って、チェロ弾き→チェロ→喉仏へ、だんだん小さなものに焦点を合わせてゆく詠み方に躍動感があります。成人通知の歌でも、豚の交尾を「終わるまで」見ていたという告白があったように、単にものを「見る」だけではなく、「凝視し続ける」と言ってもいいような粘っこい執拗さが独特。その執拗さ、粘着質な凝視に、日常に倦んだような青年のこころの重たさが浮かび上がってくるのが魅力です。

また、
・暗闇のなかでものを見ようとする歌
わが部屋にある裸婦の絵を闇中に慣れゆく目にて確かめている
闇に目の慣れたるわれが音楽の鳴りいるラジオ見ていたるなり

・鏡によってなにかを見る歌
朝焼けを鏡に写し見ているに夕暮れどきを見るおもいなる
児らに神話を語らんとして壁掛けの鏡にやさしく目をつくりつつ

なども、「見る」歌のバリエーションとして、あるいは「見る」ということに託された青春の苦しみの象徴として印象に残りました。

海の画像写りしテレビそのままの重さかかえて部屋隅に寄す
なわとびに宙を飛ぶ子のほの白き足裏見えている夕べなり


読書会で話題になった歌から二首。
一首目、画面に海が映っていることとテレビが重たいことが、原因と結果の関係にあるかのように読めて面白いです。テレビ自体の物理的な重さではなく、広大な海の重さを両腕に抱えているような。「そのままの重さ」という三句目が、叙述でありながら叙述以上の膨らみを出しています。
二首目、家族の歌になるととたんに素朴なうたいぶりになります。この歌も、「ほの白き足裏」という見方に、わが子への優しい視線や、もっと言えばひとつの命の儚さが、しっとりとうるんで感じられます。

言い出しかねている言葉あり老婆の部屋に老婆まったくもの言わぬ夜
元旦に母が犯されたる証し義姉は十月十日の生まれ
祝婚歌うたう合唱聞こえ来ぬ夜の墓場の側(そば)行くときに
方形のガラスを運ぶ男いて透明をかくも重くかつげり


露悪的な認識や断言調の多さなども、読書会では指摘されました。
そこには、塚本邦雄からの影響も多分にあったのではないかと思います。一首目の文学的モチーフとしての「老婆」の登場させ方、二首目にあるような性や生殖への憎しみ。「祝婚歌」と「墓場」(三首目)や「透明」と「重さ」(四首目)といった対比のさせ方は、聖と俗や生と死など、正のものと負のものをあえて衝突させる、塚本流のアイロニカルな方法を思い出させます。
とは言え、冷たく冴えた塚本の歌とは反対に、浜田康敬は限りなく「温かさ」のひと。
悶々とした日常の受け止め方や、ごつごつした不器用な文体に、塚本にはない人間的ななまなましさと体温があります。
そのほか、好きだったのはこんな歌です。

噴水のこちらに立ちて向こうより虹のごとわれは見られていたる
水たまりまたぐ瞬時にわが影が写れり空を飛ぶかたちして


この作者にしては鮮やかな把握が目立った二首。
噴水を挟んで虹のように鮮やかに見つめられる自分、あるいは水たまりに一瞬映った自分の影の飛翔のかたち。何も声高には言っていないけれど、こういう歌にもどことなく青春の残酷さが感じられる気がします。

当日はレポーターの方が「成人通知」が角川短歌賞を受賞した際の選考座談会のコピー(近藤芳美を中心に酷評の嵐)なども配布してくださって、楽しい発見がいろいろありました。

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