きんいろなみだ

大森静佳

第2歌集『カミーユ』

2018年04月25日 | 告知


5月中旬に第2歌集『カミーユ』が刊行予定です。
2013年の『てのひらを燃やす』以降5年間の作品を収めました。
書肆侃侃房の「現代歌人シリーズ」の一冊。

Amazonなどで予約注文ができるそうです。

お読みいただけると嬉しいです。

岡井隆『鉄の蜜蜂』

2018年04月15日 | 短歌
『鉄の蜜蜂』(2017)は岡井隆の第34歌集。

感情の最後の小屋が燃えてるつて(大きな声で言つたか  君は)
文語訳聖書を読みて寝ねむとす大河のそばつて早く経(た)つんだ
詩はつねに誰かと婚(まぐは)ひながら成る、誰つて、そりやああなたぢやないが。


暗喩によって内面や意識を掘り下げてゆくような、こういう歌が相変わらずかっこいい。「感情の最後の小屋」、ここに「小屋」が来ることの凄み。ひとの感情の、あらゆる激しさが絞り尽くされたのちに、その「小屋」はぼろぼろとゆっくり燃え落ちてゆく。痛ましく、寂しい感じがする。「君」はそのとき、叫んだのか。黙ったのか。
寝る前に読む文語訳聖書の荘厳さを「大河」と言う。聖書の文体や物語にどうどうと力強く水が流れるのを感じるうちに、いつのまにか時間が経っている。「早く経つんだ」のような、こういう口調にあらわれる岡井隆独特の色気はなんだろう。渋いような、甘いような、不思議な色気。
次の歌もいかにも岡井調で、ひとりごとが途中から誰かとの対話になってゆく。一首が途中でほどけ、開かれてゆく。「そりやああなたぢやないが」の「あなた」が一瞬、この歌を読んでいる自分のことのように思えて、びくっとなる。

傾いていくつてとてもいいことだ小川もやがて緋の激流へ
忘れたいからこそ写生(スケツチ)してるんだ花水木の蕊と暗いその樹皮
いやあむしろ忘れるために今がある季節の外に合歓(ねむ)は咲いてて


あまのじゃく。というか、世間でこうだと思われていることをまったく悪びれずに反転させているのが面白い。「傾いていくつてとてもいいことだ」は年齢、時代、思想などいろいろな含みを想像する。「忘れたいからこそ写生してるんだ」「いやあむしろ忘れるために今がある」も考えさせられるフレーズだけれど、そもそも忘却ということへの強い拘りがあるからこういう表現になるので、そうすると単なる反転とは違うのかもしれない。「忘れたくない」の反対は「忘れてもいい」であって、「忘れたい」ではない。「忘れたくない」と「忘れたい」はむしろ近い。

若者が入りたがらぬのも尤(もつと)もだ此処(ここ)荒野(あらの)それに雨も降つてる
いやあ彼らの立つてゐるあの場所こそが荒野なんだと知らないのかい
数千年の時を伝つて来るものをヘンだと思はない方が変
稲妻のあと雷(いかづち)の来ぬやうなそんな批評もないではないが
宴(うたげ)には加はるがいいしかしその結末からは遠退(とおの)いてゐよ
〈正しい!〉と鹿の啼きあふ苑だから挨拶は  きみ  あへて短く


あとはこういう、短歌や歌壇への皮肉めいた歌にも注目した。1首目と2首目は、結社に所属したがらない若い歌人たちへの心寄せ、という文脈で読める。3首目と4首目は短歌の批評性について。5首目と6首目は歌人同士の集まり(批評会とかパーティー)にありがちな馴れ合いや内輪褒めのような空気を、批判的に見ている歌と読むと痛快。こういう歌が歌集の随所に出てくる。「稲妻のあと雷の来ぬやうな」「鹿の啼きあふ苑」など、喩がいちいち魅力的だから、全然理屈っぽくもお説教臭くもない。もっと読みたいと思った。


死にたいといふ声がまた遠くからきこえる午後を茶葉で洗ふ歯



ワークショップ記念冊子「メランジェ」

2018年04月13日 | 短歌



昨年夏から5回にわたって岡山の吉備路文学館でおこなってきた短歌ワークショップ「31文字の私に出会う」第2期(主催:NPO法人アートファーム)の記念冊子が完成しました。第1期から引き続き参加してくださった方や生まれてはじめて短歌をつくったという方をふくめ、受講生は十代から八十代までの13名の皆さん。記念冊子のタイトル「メランジェ」はフランス語で「混ぜたもの」というような意味で、皆でアイデアを出しあってこれに決めました。冊子の内容は、受講生の皆さんの15首連作とエッセイです(私も15首を寄せています)。講座、あるいは記念冊子「メランジェ」に興味を持たれた方は気軽にご連絡ください。1冊お送りいたします。

以下、受講生の皆さんの連作から1首ずつ紹介します。

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一年後の自分に電話してみたい一年後鳴る電話いやだな/秋山享祐

柔らかな言葉をくれる時でさえ私の鼻は冷たいまんま/市美穂

真っ白い三日月の空は君のことが見えるだろうか 紅茶が熱い/岡桃代

他人とはどのへんまでを言うのだろう父を横目に噛み切るスルメ/岸和秀

寒からう川面に浮かぶ鴨たちは手毬のごとく丸まりて漂ふ/高塚啓子

つりさうな首すぢ二本で支へてる作り笑ひでけづれたゑくぼ/土井康司

レポートの提出期限 宇宙にて枝毛をちぎる あと12分/西川塔子

金属の雲の球面に映り込むほんとうの雲すこし歪んで/ぱいんぐりん

猫ひろう、ようにあたたかい朝だった 慣れた手つきで巻くたまごやき/長谷川麟

病床についてる君の口元に泣きながらはこぶ冷ましたたこ焼き/福山大介

六十年生きればいろいろありまして固き花梨に気合の包丁/藤井弘子

ニンジンが勝手口から逃げたのも月のウサギの計画のうち/村上航

文庫本のページなかなか捲れない指先にまづ冬は来てゐる/山口智子

天河神社の喝食

2018年04月12日 | 能・能面


これは山中智恵子第10歌集『喝食天』のあとがき。
「吉野天河、弁才天社に在る能面喝食から題名を採りました」とある。

先日、滋賀のミホ・ミュージアムで開催中の「猿楽と面」展に行ったら
この天河神社(奈良県吉野郡天川村)所蔵の能面がかなり来ていた。
天河神社には重要文化財の古面が30点もある。



そのなかに、山中智恵子があとがきで触れている「喝食」もあった。
今回展示してあったのはこちら(江戸時代)。
かなり素朴な顔立ちで、人間臭い。



天河神社にはもうひとつ、こんな「喝食」もある(室町時代)。



うーん、こっちのほうが美形ですね。

山中智恵子が愛した喝食は、どっちなんだろう。