連載

2018年10月19日 | 告知



お久しぶりです。以下、書いています。

◎「現代短歌」作品連載24首

2017年10月号「ダナイード」
2018年1月号「秋のまぶた」
4月号「橋姫」
7月号「孔雀の重さ」
10月号「熱砂」

***

◎京都新聞「季節のエッセー」
毎週月曜日に「京都文芸」という頁があります。

3月12日「火の記憶」
4月16日「橋から見えるもの」
5月21日「島と紫陽花」
6月25日「蛙の王国」
7月30日「夏の食卓」
9月3日「夏とほくろ」
10月8日「左耳から海」
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山中智恵子と過ごす会 合宿②御杖・神末

2018年05月01日 | 短歌
奈良県宇陀郡御杖村神末。
というところに泊まりました。






この道をゆかば神末にいたるとぞ落葉をふかくあゆみゆくかな 『神末』

夢告げて白き鶺鴒あゆめるを御杖の村にいくたびみしか




御杖村のゆるキャラ「つえみちゃん」。
「神末」(こうずえ)ももともとは「神杖」(=神の杖)で
つまり「御杖」と同じような意味の地名だそうです。





旅館で待っていてくれた山中智恵子。
夜はお酒をのみながら歌会も。

2日目は神末の「御杖神社」へ。




神末の社のほとり霧湧きて古墳多くは少年の人 『神末』








樹がうつくしい。


秋風にひとりあることおぼつかな御杖神末(みつゑかうずゑ)手をゆだねなむ 『神末』
神末に杖きく頃となりにけり秋たけなばとひとはいひしか
白鷺の立ちつくしゐる神末に秋のひかりは果てにけるかも






死のみゆる神末にきて虹たちぬきみなきいまを老いがたきかも 『神末』




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山中智恵子と過ごす会 合宿①夏見

2018年05月01日 | 短歌
山中智恵子の全歌集を読む会のメンバー7名で
智恵子ゆかりの地をめぐる旅(一泊二日)をしました。



1日目はまず三重の名張駅に集合して「夏見廃寺」へ。
すばらしい青空。


夏を夢見る夏見の寺の青きそらの一滴の詩のわれに来れよ 『喝食天』
われらつひに夏見廃寺に来れると告げなむものか大伯皇女に 『神末』







夏見廃寺の夕にきたりさにづらふ歩天の歌をひとと歌はむ 『神末』
秋あかね夏見廃寺をよぎりゆく大津の皇子の血の矢あふれて
夏見廃寺たが記憶にかただよひて大津皇子の夢みるところ 『喝食天』



夏見廃寺は初代斎宮と言われる大来皇女によって
7世紀末〜8世紀前半に創建された古代寺院の跡。
父・天武天皇のために建てたとも、一説には非業の死を遂げた弟・大津皇子
を偲ぶために建てたとも言われているそうです。








あらたなる記憶のなかにこぼたれて文書のなかの夏見廃寺か 『神末』
われらが夢の鶺鴒二羽かあくがれて夏見廃寺の礎石に交(つが)ふ





夏見廃寺に咲くスミレ。


ほのかなる夏見の空のひとところ雪降るとみて逢はずありけり 『虚空日月』


続いて、青蓮寺湖と香落渓へ。
香落渓で四つ葉のクローバーを拾いました。




風の根のごときもみぢの香落谷(かうちだに)抱かれていまいづこゆかむか 『神末』
夏見川青き湛へにひと顕ちてひとと鶺鴒分かちがたしも
蒼き頸浮(う)けてあしたを鴨のゐる青蓮寺湖に歩み来にけり



曽爾高原。
秋はいちめんのススキが見られるそうです。








たくさんたくさん歩きました。



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第2歌集『カミーユ』

2018年04月25日 | 告知


5月中旬に第2歌集『カミーユ』が刊行予定です。
2013年の『てのひらを燃やす』以降5年間の作品を収めました。
書肆侃侃房の「現代歌人シリーズ」の一冊。

Amazonなどで予約注文ができるそうです。

お読みいただけると嬉しいです。
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岡井隆『鉄の蜜蜂』

2018年04月15日 | 短歌
『鉄の蜜蜂』(2017)は岡井隆の第34歌集。

感情の最後の小屋が燃えてるつて(大きな声で言つたか  君は)
文語訳聖書を読みて寝ねむとす大河のそばつて早く経(た)つんだ
詩はつねに誰かと婚(まぐは)ひながら成る、誰つて、そりやああなたぢやないが。


暗喩によって内面や意識を掘り下げてゆくような、こういう歌が相変わらずかっこいい。「感情の最後の小屋」、ここに「小屋」が来ることの凄み。ひとの感情の、あらゆる激しさが絞り尽くされたのちに、その「小屋」はぼろぼろとゆっくり燃え落ちてゆく。痛ましく、寂しい感じがする。「君」はそのとき、叫んだのか。黙ったのか。
寝る前に読む文語訳聖書の荘厳さを「大河」と言う。聖書の文体や物語にどうどうと力強く水が流れるのを感じるうちに、いつのまにか時間が経っている。「早く経つんだ」のような、こういう口調にあらわれる岡井隆独特の色気はなんだろう。渋いような、甘いような、不思議な色気。
次の歌もいかにも岡井調で、ひとりごとが途中から誰かとの対話になってゆく。一首が途中でほどけ、開かれてゆく。「そりやああなたぢやないが」の「あなた」が一瞬、この歌を読んでいる自分のことのように思えて、びくっとなる。

傾いていくつてとてもいいことだ小川もやがて緋の激流へ
忘れたいからこそ写生(スケツチ)してるんだ花水木の蕊と暗いその樹皮
いやあむしろ忘れるために今がある季節の外に合歓(ねむ)は咲いてて


あまのじゃく。というか、世間でこうだと思われていることをまったく悪びれずに反転させているのが面白い。「傾いていくつてとてもいいことだ」は年齢、時代、思想などいろいろな含みを想像する。「忘れたいからこそ写生してるんだ」「いやあむしろ忘れるために今がある」も考えさせられるフレーズだけれど、そもそも忘却ということへの強い拘りがあるからこういう表現になるので、そうすると単なる反転とは違うのかもしれない。「忘れたくない」の反対は「忘れてもいい」であって、「忘れたい」ではない。「忘れたくない」と「忘れたい」はむしろ近い。

若者が入りたがらぬのも尤(もつと)もだ此処(ここ)荒野(あらの)それに雨も降つてる
いやあ彼らの立つてゐるあの場所こそが荒野なんだと知らないのかい
数千年の時を伝つて来るものをヘンだと思はない方が変
稲妻のあと雷(いかづち)の来ぬやうなそんな批評もないではないが
宴(うたげ)には加はるがいいしかしその結末からは遠退(とおの)いてゐよ
〈正しい!〉と鹿の啼きあふ苑だから挨拶は  きみ  あへて短く


あとはこういう、短歌や歌壇への皮肉めいた歌にも注目した。1首目と2首目は、結社に所属したがらない若い歌人たちへの心寄せ、という文脈で読める。3首目と4首目は短歌の批評性について。5首目と6首目は歌人同士の集まり(批評会とかパーティー)にありがちな馴れ合いや内輪褒めのような空気を、批判的に見ている歌と読むと痛快。こういう歌が歌集の随所に出てくる。「稲妻のあと雷の来ぬやうな」「鹿の啼きあふ苑」など、喩がいちいち魅力的だから、全然理屈っぽくもお説教臭くもない。もっと読みたいと思った。


死にたいといふ声がまた遠くからきこえる午後を茶葉で洗ふ歯


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ワークショップ記念冊子「メランジェ」

2018年04月13日 | 短歌



昨年夏から5回にわたって岡山の吉備路文学館でおこなってきた短歌ワークショップ「31文字の私に出会う」第2期(主催:NPO法人アートファーム)の記念冊子が完成しました。第1期から引き続き参加してくださった方や生まれてはじめて短歌をつくったという方をふくめ、受講生は十代から八十代までの13名の皆さん。記念冊子のタイトル「メランジェ」はフランス語で「混ぜたもの」というような意味で、皆でアイデアを出しあってこれに決めました。冊子の内容は、受講生の皆さんの15首連作とエッセイです(私も15首を寄せています)。講座、あるいは記念冊子「メランジェ」に興味を持たれた方は気軽にご連絡ください。1冊お送りいたします。

以下、受講生の皆さんの連作から1首ずつ紹介します。

***

一年後の自分に電話してみたい一年後鳴る電話いやだな/秋山享祐

柔らかな言葉をくれる時でさえ私の鼻は冷たいまんま/市美穂

真っ白い三日月の空は君のことが見えるだろうか 紅茶が熱い/岡桃代

他人とはどのへんまでを言うのだろう父を横目に噛み切るスルメ/岸和秀

寒からう川面に浮かぶ鴨たちは手毬のごとく丸まりて漂ふ/高塚啓子

つりさうな首すぢ二本で支へてる作り笑ひでけづれたゑくぼ/土井康司

レポートの提出期限 宇宙にて枝毛をちぎる あと12分/西川塔子

金属の雲の球面に映り込むほんとうの雲すこし歪んで/ぱいんぐりん

猫ひろう、ようにあたたかい朝だった 慣れた手つきで巻くたまごやき/長谷川麟

病床についてる君の口元に泣きながらはこぶ冷ましたたこ焼き/福山大介

六十年生きればいろいろありまして固き花梨に気合の包丁/藤井弘子

ニンジンが勝手口から逃げたのも月のウサギの計画のうち/村上航

文庫本のページなかなか捲れない指先にまづ冬は来てゐる/山口智子
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天河神社の喝食

2018年04月12日 | 能・能面


これは山中智恵子第10歌集『喝食天』のあとがき。
「吉野天河、弁才天社に在る能面喝食から題名を採りました」とある。

先日、滋賀のミホ・ミュージアムで開催中の「猿楽と面」展に行ったら
この天河神社(奈良県吉野郡天川村)所蔵の能面がかなり来ていた。
天河神社には重要文化財の古面が30点もある。



そのなかに、山中智恵子があとがきで触れている「喝食」もあった。
今回展示してあったのはこちら(江戸時代)。
かなり素朴な顔立ちで、人間臭い。



天河神社にはもうひとつ、こんな「喝食」もある(室町時代)。



うーん、こっちのほうが美形ですね。

山中智恵子が愛した喝食は、どっちなんだろう。

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山中智恵子第10歌集『喝食天』

2018年03月30日 | 短歌
鳴きのぼりつつ光のなかに失せてゆくひばりよとはにわが手のがれよ

ひばりよ、とはにわが手のがれよ。
強く希求する一方、自分で自分を押さえつけてしまうような
相反するふたつの感情の動きがきらきらとクロスする。
私は自分の手のおそろしさを知っているのだ。

一昨年から続けてきた山中智恵子を読む会は、いよいよ全歌集の下巻に入りました。第10歌集『喝食天』(1988)は作者の年齢で言うと六十代前半、782首が収められた歌集。『星醒記』『星肆』『神末』と3冊にわたって夫の挽歌をうたいつづけてきて、次の『喝食天』ではもう少し違った意志的なもの、そして物語の情熱が激しく噴出する。

たましひを打たむとせしが肉を撃つ面のまことを存在といふ  
肉に深く傷つくものを面といふリルケ、ロダンの秋ふかかりき


主題制作の試みが目立つ『喝食天』のなかでも特に大作が「面百詠」。「百詠」と言いながら、じつは100首ちょうどではなく119首あるこの一連、地元三重の友人であった能面師・丹羽征夫との交流を背景に、めくるめく多くの能面が登場し、能面と能面が見つめ合い、声を聴き合い、ときに打ち合う。なかで、上に挙げたような思索的な歌に惹かれる。「存在」とは結局、魂だけでは成立しえず、根源的に「肉」であることの痛みや傷を負っている、そういう苦しさだろうか。

面こぼつまで抱かれしかな斎王のくちびるうすき秋の日の翳  
喝食のすねこぶらめでて斎王のわななきたまふ唇(くち)のうつくし
喝食のひるがへる空つねに飢ゑしモーツアルトのむすぶ種の翳 


歌集のタイトルにもある「喝食」は禅宗のお寺ではたらく少年の能面で、山中智恵子はこの「喝食」と斎王(伊勢神宮に仕える未婚の女性)との危うい恋とエロスの世界を展開してゆく。うすき唇、わななきたまふ唇。唇への執着がすごい。2首目の「すねこぶら」(脚のすね+こむら)も何というか、語感が不気味。かと思ったら急に、永遠の少年性みたいな連想からでしょうか、モーツァルトに飛ぶ。

そのほか好きな歌
〈青とはなにか〉この問のため失ひし半身と思ふ空の深みに 
一寸の青をもとめて行きたりし遠からずわが青に死なむを
寂寥を蜜蜂の巣にかへせとぞ巣を編むものの叫びゆきたり 
見ることは問ふことなれば秋の野の一輪の花流れゆくはや 
鳥問ひつめる眸のごとくありにしをジャコメッティとなづけしひとや
樹液こそにあふれ泪なすとクレーはいひきこの春の夜の夢



言葉は物より旅立ちゆくかふと秋のふかまるときの感情にして
物が意味の形をとりて歌となるひびきのごとき秋に在りたり

といったメタ的な歌はどの歌集にも必ずある。

累々と子を生すものの頂に斎王立ちて子のなきはすずし
は葛原妙子の「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり 」『橙黄』を受けつつ。

幻想の祖国を視たり夢のなかに天皇退位あたためゆかむ
など、この次の次の歌集『夢之記』における昭和天皇挽歌に先立つような一首もすでに出てきている。
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最近書いたもの

2018年03月18日 | 告知
「現代短歌」
http://gendaitanka.jp/
で24首×8回の作品連載の機会をいただきました。

2017年10月号「ダナイード」
2018年1月号「秋の瞼」
2018年4月号「橋姫」
をすでに発表しています。
引き続き3ヶ月ごとに掲載になるので、お読みいただけると嬉しいです。

「阿修羅」15首(「京大短歌」24号)
「反論」15首(「メランジェ」※短歌ワークショップin岡山の記念誌)
ももうすぐ。

***
この春から京都新聞「季節のエッセー」の連載も始まりました。
京都在住の作家、詩人、歌人、俳人など5名が交代で書くコーナーで
毎週月曜日の「京都文芸」の頁に載っています。
(つまり、私のエッセーが載るのは5週間に1回です)

あと、これは短歌関連ではないのですが
依頼をいただいて、小説の書評を初めて書きました。
大島真寿美『モモコとうさぎ』(角川書店より2018年刊行)について。
共同通信配信のものなので、今月あたり各地方紙に載るor載ったはず…

先週書店に行ったら、このような形で棚に貼りだしてあったので
いつのまにか京都新聞には載っていたみたいです!






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能「葵上」と泥眼

2016年02月19日 | 能・能面
2月14日(日)、滋賀県立文化産業交流会館にて能「葵上」を観ました。
「滋賀能楽文化を育てる会」さんの企画です。
「葵上」の前に、滋賀県立大学能楽部による仕舞の発表や「源氏物語と葵上」と銘打った解説的なお話、能装束の着付け実演、お囃子の紹介などがあって盛りだくさんな午後になりました。

能「葵上」

シテ(六条御息所) 浦部好弘
ツレ(照日の巫女) 浦部幸裕
ワキ 小林努
ワキツレ 原陸
アイ 新島建人
後見 深野新次郎
地謡 分林道治
   吉田篤史
   吉浪壽晃
大鼓 石井保彦
小鼓 林大輝
笛  左鴻泰弘
太鼓 上田慎也

「葵上」といえば2年前に京都春秋座で能ジャンクション「葵上」を観ましたが、あれは片山九郎右衛門&観世銕之丞×茂山童司による現代演劇と能のコラボだったので、ほんもの?の「葵上」はこれが初めて。

「葵上」という題ですが、葵上役は登場しません。
舞台中央にひらりと置かれた小袖一枚が、病床の葵上を表現しています。
物の怪にとりつかれて臥せっている葵上のもとに、六条御息所の生き霊が襲いかかる。
才色兼備で元皇太子妃でもあることからプライドが高く、いまは源氏の愛人である六条御息所。
正妻・葵上に嫉妬と屈辱の恨みを抱いて、自分でもわけがわからないうちにどうしようもなく魂が飛んでいってしまう。

「葵上」は謡の言葉が妖艶で、夢のような響きがあります。
露、月、蛍そのほか、掛詞的にいろいろなイメージが導かれ、絡まり合って、したたるような響き。

葵上に嫉妬していたこの頃、六条御息所は24歳だったそうです。
光源氏は17歳。
六条御息所といったらかなり年上の女性で、年配であることが若い源氏への気おくれとコンプレックスにも繋がっていたという感じがあって、てっきり30代後半くらいかと思っていたので、24歳だったと知って驚きました。
当時と今とでは平均寿命も違うし、年齢の感覚はかなりずれているとはいえ。
24歳。ということは、私はいつのまにか六条御息所の年齢を追い越してしまっている……!
26年間生きてきたのに、私はまだ生き霊のひとつも飛ばせないでいます。







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