きんいろなみだ

大森静佳

【月と六百円】真鍋美恵子『玻璃』2016/2/3

2016年02月06日 | 短歌
二月の「月と六百円」でとりあげた歌集は真鍋美恵子の『玻璃』(1958年)。
この読書会は昨年五月に始まったので、今回がちょうど第10回目でした。
参加者17名で盛況。
『玻璃』は私の推薦だったので、レポーターを務めました。

真鍋美恵子は1906年生まれ。東京の東洋高等女学校を卒業の後「心の花」などに入会。戦後「女人短歌会」創立に参加して独自の作風を確立。第四歌集『玻璃』で第三回現代歌人協会賞受賞(塚本邦雄と同時受賞)。1994年没。歌集は全部で十冊。1983年に沖積舎から「真鍋美恵子全歌集」が出ています。

眠りゐし黒猫が起(た)ちてゆきたればその下に繊(ほそ)くありたる亀裂

この「亀裂」の怖ろしさ。「黒猫」という目の前の存在を起点にして、異様な空間が広がってゆく。真鍋の歌は、現実のなかに、底知れない不安な気配や予感を捉えたものが多いです。

桃むく手美しければこの人も或はわれを裏切りゆかん
飴色の非常扉の外にある暗夜は直(ただ)に海につづかん


こういった歌に顕著なように、「今」を起点にしながらも、時空を超えて何かを予感する文体です。「桃むく手」「飴色の非常扉」という目の前にある現実から、下句では「今ここ」からは見えないはずのものを鋭くつかんでくる。一首が完了の「ぬ」や「つ」、「たり」で締められることは少なく、どの歌もすぱっと終わった感じがしない。一首の続きにぬめぬめと時間が垂れ下がっているような、不思議な余韻があります。

疾走し過ぎたる青き自動車(くるま)ありて硬直したるごとき夜の道
体臭の濃き男が竹笊を売りゆきてより速く昏るる日
月のなかの斑点が濃く見ゆる宵もの吐きて来し雌猫の眠る
くるぶしのいたいたしきまで白き娘(こ)が立ちをり山脈の襞深く見ゆ


自動車が走り抜けていった後、道路が硬直したように感じる。体臭の濃い竹笊売りの男が過ぎていった後、日の暮れ方が速まったような気がする。論理的な説明はつかないんだけれど、こういうふうに感じることってあるよなぁと思わせる力があります。「自動車」と「夜の道」、竹笊売りの「男」と日の暮れる速さ。日常の奥で、もの/こと同士が共鳴し、連鎖してゆく変な感じがあります。
次の二首も同様。「もの」や「こと」は決して単独で存在しているわけじゃなくて、鎖状に絡まり合ってそこに在る。そういう現実のカオスを、真鍋美恵子は感覚的表現によって言おうとしているのではないかと思います。

共鳴や連鎖を孕んだ奥深い現実を前に、真鍋のまなざしはときに残酷。
特に「食べる」「産む/産まれる」といった生の根幹をなすような行為に対して、冷えた眼を向けている。

山鳥の脂肪(あぶら)濃き肉食(は)みたれば脆きまですぐに身のぬくみくる
蜥蜴たべし口なめずりてゐる猫とわれとありたり月照る畳


一首目は「脆きまで」に、二首目は蜥蜴を飲み込んだばかりの猫と自分が等しく配置されている構図に、どことなく不気味さを感じます。食べることの、まがまがしさ。

みごもりて乳房のいまだ硬き猫しきりに青き蘭の葉を嚙む
交尾期の犬らが山に猛りつつ鳴く夜は早く燭(しよく)を細むる
孵卵器に電流ながれつつありて無花果の葉の影黒き昼


産む/産まれるという生殖をうたった歌も、こんなふうに不穏。後年の歌集には「なべてものの生まるるときのなまぐささに月はのぼりくる麦畑のうへ」(『雲熟れやまず』)という歌もあります。

透明な硝子戸が極度の硬直を保ちつつ山上の夜あけは来(きた)る
透明とわれのなりつつゆく如き睡(ねむ)りのなかに風の音する
赤き色に鉄塔を人のぬりをりて塗料を滴(た)らす灼けたる土に


修辞的にもいろいろな指摘ができそうな歌集ですが、一首目のように硬質な漢語で畳みかけるように言葉を修飾する文体もその一つです。「硝子戸」にわざわざ「透明な」を付け足したり、「極度の硬直」という強調の仕方だったり。
また、助詞や語順にも工夫があって全体に一首一首が粘着質なつくりになっていて、さらっと読み飛ばせない。「透明とわれのなりつつ」「赤き色に鉄塔を人の」という語順のたどたどしさが、不思議な味を出しています。初句に「透明」「赤き色」といった色彩語が来ることで、印象も鮮烈になる。

意見交換のなかで人気だった歌は
堀り上げて盛られし土が濡れてゐるところもそのまま夜に入らんとす
短かき四肢もつ日本の女らが烏賊ほす写真はグラフにのれり

など。

その他に、直喩の斬新さ、絵画的構図、戦後の東京という都市の様子がよく伝わってくる点などが議論に。
昨年十月の会で葛原妙子の第一歌集『橙黄』を皆で読んだので、葛原妙子との比較、さらには土屋文明、高安国世、森岡貞香、河野裕子らとの影響関係についても意見が出ました。
よりストイックに真鍋美恵子らしくなってゆくこの後の歌集も、ゆっくり読んでみたい。



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