きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー11「素顔の梅」

2019年08月10日 | その他
素顔の梅           大森静佳


 
ようやく陽射しが春めいてきた。冬用のコートのボタンを留めずに出かけると、コートの内側が風でふんわり膨らむのが嬉しい。
 
近所の京都府立植物園の梅も咲いて、たくさんの人が思い思いに写真を撮っている。
 
梅の花の、あのぽかんとした無心のうつくしさ。桜では、こうはいかないだろう。日本人にとっての桜は、どうしても、もっと大きなものを背負ってしまっているから。
 
白梅がとくに好きだ。ほのかに白い梅林は、遠くから見ると霧のように煙り、近づいて見ればひとつひとつが泡のように弾けている。桜とは違って、梅の幹や枝にはどこかなまなましい切迫感がある、とも思う。空に向かって、空間に向かって、すがりつくようにぎこちなく伸びた枝々。梅林に立ちつくしていると、自分が梅の花を見ているのか、くろぐろと枝分かれした樹形のほうを見ているのか、ときどきわからなくなるくらいだ。枝のあの思いつめた感じにひきかえ、梅の花はどこまでもぽかんとしている。
 
最近、山元彩香さんという兵庫在住の写真家を知った。私より少し歳上の三十代で、おもに女性のポートレートを撮っている。一人でロシアや東欧を何ヶ月も旅して、街や村で出会った女性たちに、身振り手振りをまじえて撮影の許可をもらい、共産圏特有の暗いブルーの壁が残っている建物に案内してもらって、その廃墟のような場所で写真を撮るのだそうだ。
 
縁あって彼女と連絡をとるようになり、何度か一緒にお酒を飲んだ。撮影ではじっくり時間をかけながら、モデルの作為や意志がゼロになる透明な瞬間を待つ、という話がとても印象に残っている。撮影には、化粧も一切なしで来てもらうらしい。
 
そういえば、彼女が撮った女性たちは皆、眼も唇も半開きで、ぞくっとするほどに力が抜けている。かといって無表情というわけではなく、時代や国を超越した不思議な普遍性を持ち、透明なのに、豊かにこちらに語りかけてくる。
 
一見すると魂が抜けたような表情こそが、大きな祈りに通じる気がする。長い睫毛をしばたたかせながら彼女がそう言ったとき、私はなぜか梅の花のあのぽかんとした咲き方を思い出した。祈りたいことはたくさんある。明日もまた、梅を見に行こう。


「京都新聞」朝刊2019年3月11日

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