きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー10「声の重さ」

2019年08月10日 | その他
声の重さ           大森静佳


 
先日、凍てつくような冷たい雨が降るなか、はじめて西芳寺を訪れた。言わずとしれた通称「苔寺」だが、苔がいちばん美しいのは初夏から夏にかけて。真冬の今はあまり人気がないのか、集合時間になって本堂に案内されたのはたったの十数人だった。    
 
お庭に行く前に、全員で読経をする。本来は写経もしなければならないそうだが、冬の間は寒すぎるので省略される。
 
そう、寒い。がらんと広い本堂は、思い出すのもぞっとするほどの寒さだった。もちろん暖房などはなく、冷たい畳に座布団が敷いてあるだけ。私も、周りのひとたちも、コートを着たまま震えていた。
 
そんななかで三回通り唱えた般若心経。これが、なぜか私の心に強い印象を残した。パンフレットの経文を目で追いながら唱和するのだが、読経のスピードが思っていたよりも速い。ぐっと集中して必死でついていく。
 
最初はおずおずしていた皆の声が、二回目くらいになるとだんだん力強くなってきた。般若心経は、声に出してみるととても重たい感じがする。底知れぬ感じがする。たぶん、濁音の多さも関係しているのだろう。かんじーざいぼーさつぎょうじん、云々。
 
三回目に突入すると、口だけが勝手に動いているような、ちょっとしたトランス状態になる。手足も顔もきんきんに冷えながら、前のめりになって、だんだん頭が沸騰してくる。私は普段まったく信心深くないので、読経に夢中になる自分が滑稽に思えたが、滑稽だけとも言い切れない、不思議に混沌とした厳かさがそこにはあった。
 
そういえばずっと昔に一度だけ、真剣に般若心経を唱えたことがある。
 
あれは誰にもらったのだったか、私の部屋に立派な市松人形があったのを、幼い弟たちが怖がるからといって、ある日、父が焚き火のなかに投げ入れて燃やしてしまったのだった。人間の子どもほどの大きさの人形が、火のなかで崩れて焦げてゆくさまは、なまなましく凄惨な感じがして、私は思わずお仏壇に走り、小さな経本を借りてきた。ひらがなをひとつずつ追うように般若心経を唱えながら、私はいつもよりずっと低い自分の声に驚いた。これは一体、誰の声なのだ。そばで、焚き火がめらめら燃えていた。
 
その火の赤さがはっきりと胸に蘇る。読経を終えて庭に出ると、雨に濡れた苔がいちめんに光っていた。


「京都新聞」朝刊2019年2月11日

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