きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー12「ぼんやり」

2019年08月10日 | その他
ぼんやり          大森静佳


 
一冊の本と、一杯の珈琲。シンプルでありきたりだけど、そういう時間が春の光のように自分を静かに支えてくれている気がする。
 
京都の街には、居心地のいい喫茶店やカフェがたくさんある。数年前に火事でなくなってしまった「ほんやら洞」には一度だけ行ったことがあるけれど、「夜の窓」「みゅーず」などいくつかの伝説的な喫茶店が、私が京都に住みはじめた頃にはすでに閉店していたのが残念だった。
 
席につき、上着を脱いで、珈琲を前に鞄からそっと一冊の本をとりだす。本を読むこと自体ももちろん楽しいのだけれど、本をひらかずに、表紙や装丁をじっと眺めるひとときも大好きだ。
 
その本に書かれている物語や文字を血や骨や肉とするならば、装丁は、顔であり、表情だと思う。「表情」を見ただけで一目惚れする本もあるし、あるいは中身を味わい尽くしたあとで「顔」の奥ゆきが変化してくる本もある。いい本は、外側と内側が溶けあったような味わいを持っている。
 
子どもの頃、図書館でくりかえし借りたのが『はてしない物語』をはじめミヒャエル・エンデの本だった。いかにも書物という感じの重厚な装丁は、どこか秘密めいた匂いもして、布団のなかで夜遅くまで撫でまわしていた記憶がある。何度も読んだあとで、ついには「読む」ためではなく「眺める」「触れる」ために借りてくるようになったほど。
 
短歌の世界には「歌会」という文化がある。匿名で持ち寄った一首ずつの歌を、皆で丁寧に批評してゆくのだ。
 
歌会は歌会でも、最近知人が「何もしない歌会」というのを企画したらしい。そこでは、批評や議論はいっさいなし。一首につき十分なら十分と時間を決めて、印刷された短歌をひとりひとりが見つめ続けるだけ。ぼーっと見つめ続けていると、次第にその一首全体が、あるいは一部の言葉が3Dのように浮きあがって見えてくるそうだ。それはつまり一首の佇まいと対峙する体験で、そこには意味や論理以前の、貴重なぬかるみがある気がする。
 
何もしない、ということが難しい時代だが、ときどきはぼんやりもいいかもしれない。ぼんやりしていると、かわりに体感で何かを受け取ることができる。今日も喫茶店に出かけて、ぼんやりと本の表紙を撫でてみよう。


「京都新聞」朝刊2019年4月16日

コメントを投稿