きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー9「巻き戻すこと」

2019年08月10日 | その他
巻き戻すこと          大森静佳

 
クリスマスが近づいてくると、別に何をするというわけでもないのだが何となく心が浮き立つ。街角で流れる賛美歌やクリスマスソング、きらきら光るツリーや電飾、きれいにデコレーションされたケーキ。
 
父が年中行事やお祭りごとをあまり好まなかったので、子ども時代のクリスマスの思い出はごくささやかなもので、だからこそ、大人になってから胸に蘇ってくるたびに、ひとつひとつの光景が鈍い光を放って、ますます忘れがたく思えてくる。たぶんキリスト教徒ではない多くの日本人にとって、クリスマスはそういうものかもしれない。
 
たとえば、骨付きチキンの持ち手に巻く銀箔の飾りを作ったこと。あの飾りに「マンシェット」あるいは「チャップ花」といった呼び名があることを、子どもの頃はちっとも知らなかったのだけれど。まだ明るいうちからいそいそと弟たちとテーブルに陣取り、折り紙やアルミ箔、リボンなどを広げる。やがてチキンの焼ける香ばしい匂いに満たされる部屋のなか、私たちは神妙な面持ちで飾りを作り続けた。はりきりすぎて、その飾りは毎年たくさん余ってしまうのだった。
 
クリスマスの朝、枕元に置かれていたのはたいていアニメや映画のビデオテープだった。ある年は、私には『もののけ姫』、上の弟には『ピーターパン』、下の弟には『ダンボ』といったぐあいに。たぶん私たちが、あの黒くて本のように分厚いビデオテープに触れた最後の世代かもしれない。
 
『もののけ姫』も『ピーターパン』も『ダンボ』も、三人で飽きもせず繰り返し観た。次のクリスマスが来てまた新しいビデオがもらえるまで、本当に何度も。ついには台詞まですっかり覚えて、キャラクターと声を合わせて言えるようになる。
 
子どものころ、時間というのは永遠にたっぷりあると思っていた。今では、時間に追われて、本や映画を繰り返し味わうという贅沢はなかなかできないし、映像はボタンひとつで好きなところから再生できる。
 
今年も残すところあと少し。日々はせわしなく流れ去っていくけれど、記憶というものの静かな輝きを意識していたい。今日から昨日へ、昨日からはるか過去へ。記憶に向き合うときだけは、巻き戻すことや繰り返すことの贅沢が、明るく許されているのだから



「京都新聞」朝刊2018年12月17日

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