きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー8「秋の窓」

2019年08月10日 | その他
秋の窓         大森静佳

あれは高校一年か二年の授業だったと思うのだが、あるとき古文の先生が生徒たちにこう訊ねた。皆さんは春と秋、どっちが好きですか? たぶんちょうど『源氏物語』を読んでいたのだろう。「薄雲」の巻で、春と秋のどちらが好きかという光源氏の問いに「秋」と答えたのが、その名も秋好中宮。一方で、春をこよなく愛した紫の上。二人はそれぞれ六条院の秋の町、春の町の主人となって、のちには和歌を贈りあいながら春の魅力と秋の魅力をあらそうことになる。
 
私は、春が好きというほうに手を挙げた。四十人ほどのクラスで、そのとき春のほうに手を挙げたのは、私を含めてたったの三人だった。秋を好きなひとが圧倒的多数だった。どうしてこんなに差がつくのか不思議に思ったのを、よく覚えている。
 
学生にとっての春というのは、進学やクラス替えなどでなにかと落ち着かない季節だから、それで人気がなかった部分もあるかもしれない。今だったらどうだろうか。クラスメイトに、もう一度訊いてみたい気がする。私はというと、春のあの眩しい新緑や湧きたつような空気はどうしようもなく好きなまま、でも、歳を重ねるごとに秋のことも好きになってきた。
 
「進々堂」北山店は、ときどき原稿を書いたり本を読んだりするために訪れる場所のひとつなのだが、二階の窓際の席からは、北山通の往来がひろびろと見おろせてとても気持ちがいい。
 
熱いコーヒーをすすりながら、お気に入りの鶯豆のパンを齧り、窓からの風景を眺める。北山通の街路樹は、欅と銀杏。一本一本大きくて、とても存在感がある。この窓から見える一本の欅を、私は勝手に自分の木と決めて日々眺めている。
 
上半分くらいがすでに赤く染まったその木を、しばらく無心に眺めていると、不思議なことに赤い面積がじんわり広がってゆく。見つめているうちに、ごく少しずつだけれど紅葉が進むのがわかるのだ。その葉っぱたちの火照りに、心より先にまず自分の目が感動する。「見る」ってすごいことだ、と。
 
もちろん、それは目の錯覚か思い込みにすぎないのだけれども、秋という季節には、錯覚もふさわしいような気がしてくる。


「京都新聞」朝刊2018年11月13日

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