きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー7「左耳から海」

2019年08月08日 | その他
左耳から海           大森静佳


ここ一ヶ月半ほど左耳の違和感が続いたため、人生ではじめて耳鼻科を訪れた。いかめしい顔の先生が、私の耳の奥を覗きこんだとたん「わっ」と声をあげた。何やら特別な器具で吸ったりピンセットを突っ込んだりしたあげく、出てきたのは十個ほどの砂つぶ。大きいものでは直径五ミリ以上ある。

八月のはじめに、三島由紀夫『潮騒』の舞台として知られる神島の海で泳いだ。勢いよく波をかぶったから、たぶんそのとき海水と一緒に砂も流れこんでしまったのだろう。あくびやしゃっくりをするたび、あるいは朝、起き抜けの耳にかすかに響いていたざらざらという音の正体はこれだったのか。そっとハンカチに包んで病院から持ち帰った砂つぶを、小さなガラス瓶に入れてみる。何の変哲もない砂だけれど、夏の間に私が聴いた声や音の、その鼓膜の震えを一番近くで感じていたのだと思うと妙に愛おしく思えてくる。
 
耳は、人間の身体のなかでももっとも受動的な場所かもしれない、とふと思う。口のように喋ることも笑うことも、眼のように泣くこともできず、そもそも自分の意思で動かせもしない。音を受けとめるだけだ。
 
般若や尉面などを除けば、能面には耳のないものが多い。圧倒的に多い。私は実は五年ほど前から能面を打っていて、月に何度かは教室のある草津市へ電車で通っている。彫刻刀など道具一式を入れた大きな鞄が、いつも膝の上にずしりと重たいのだが、車窓に薄青く光る琵琶湖が見えてくると、心がすっと明るく引き締まる。
 
いま取り組んでいるのは、宇治川の橋姫伝説に由来する「橋姫」という女面で、嫉妬と妄執のあまり赤く燃えさかる頬に、かっと見開いた瞳や眉間の皺が鮮やかにうつくしい。水からあがった姿なので、髪の毛は濡れて額に張りついている。耳は、ない。深い苦しみや悲しみに打ちのめされているとき、人はもはや受動の余裕を持たないのかもしれない。他のものの声を聴く耳を持たず、ただまっしぐらに自分の感情にのしかかる。
 
耳がないかわりに能面には、きちんと頭に結わえるための「面紐」を通す穴がある。橋姫の、ちょうど本来なら左右の耳があるはずのあたりを火箸でつらぬいて穴を開けながら、何か痛ましい気持ちになった。もうそろそろ、窓の外は秋である。


「京都新聞」朝刊2018年10月8日

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