きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー6「ほくろの話」

2019年08月08日 | その他
ほくろの話           大森静佳

私の両腕には、ほくろがある。身体のほかの場所にはほとんどないのに、なぜか腕と手にだけたくさんある。丁寧に数えてみると、左腕に十六個、右腕に三十五個あった。色も大きさもひとつずつ微妙に違うほくろが星座のように散らばった、その模様をときどきひとりで眺めている。お風呂で、布団のなかで、あるいは地下鉄のホームで。
 
今でもそうかもしれないけれど、私は心をさらけだすのがあまり得意ではない、強情な子どもだったので、例えば誰かに「何か悩みごとはない?」と訊かれても、心底悩んでいることはなかなか言えず、かわりに「ほくろが多いのが嫌」と冗談めかして答えていた。本当はそんなこと、どうだっていいのに。
 
あるひとが「彫刻の肉体にはほくろが一つもない」と言った。奇妙な慰め方だと思ったが、夏の陽射しに光るその鼻梁があまりにきれいだったので、私はすっかり嬉しくなって、そのひとに左腕のほくろを一つあげた。左腕にあるなかで、一番大きいやつを。月や火星の土地を売るように、一粒のほくろは私の腕にあるまま、そのひとのものとなった。
 
六月、横浜美術館の特別展でロダンの大理石像「接吻」を見たときも、抱き合う二人の肌に本当にほくろがないのかどうか、彫刻の周囲をぐるぐるまわって確かめた。やっぱり、なかった。
 
ダンテの『神曲』で、許されぬ愛の恍惚のただなかに殺される二人。男はおずおずと女の腰に手をあて、女のほうはもっと能動的に、両腕で激しく男の首を引き寄せている。二人とも、手がとても大きい。腕が太い。人体のバランスから言って妥当なサイズを明らかに超えた、その両腕の濃密な迫力が、まっすぐに感情の動きを伝えてくる。筋肉がふるえ、血があたたかく流れている。しかし、その血を覆う大理石の肌は傷ひとつなく、どこまでも白くなめらかに澄んでいるのだった。
 
今年の夏はとことん暑かった。日焼け止めをさぼりがちだから、両腕はすこし陽に灼けている。紫外線を浴びて、ごく小さなほくろがまた新たに何個かできてしまった。平成元年生まれの私たちにとっては、平成最後のこの夏が、同時に二十代最後の夏でもある。次にどんな時代が来るのかはわからないけれど、ともかく今日も、彫刻ではない生身の私が半袖の腕をさらして街を歩く。



「京都新聞」朝刊2018年9月3日

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