大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 14:38:00 | Weblog
仏智が満入したのが帰入功徳大宝海だ、開入本願大智海だ、
真実功徳大宝海の名号と一体になったときが大信心海だ、
大信心海から流出する称名には、つきることがないのだ。
それを「憶念の心常にして仏恩報ずる思いあり、
信に信功なく行に行功なし」だから、みな願海にかえる。
名号が私の耳から腹を通り、口に溢れて願海にかえる、
信ずる心も念ずる心もみな阿弥陀仏の独りばたらきとなり、
私はそれに動かされているだけです。 (p.107)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 14:25:38 | Weblog
山の上の宗教を山の下の宗教にされたこと、これは『紫雲殿縁起』にあります。
それによると、二十六歳のとき京都より叡山に帰られるとき、
赤山明神の側で美しい女性が顕われ、
「善信房さま、私はこの山に登りたいのですが、
お伴させてはいただけないでしょうか。」という。
そこで善信房は、
「ご承知ないのですか、この山は結界の地と申しまして、五障三従の女人は
登ることは禁止されてあるのです。」
「伝教大師ほどの大学者が『涅槃経』のなかの「一切衆生悉有仏性」の
文字が読めなかったのでしょうか。この山の上には、鳥も獣も牝はいませんか。
鳥や獣の牝がいるのに、なぜ人間の女人が登ってはいけないのでしょうか。
それが規則なら登ることは諦めますが、あなたは末代の智者でございます、
この道理をよく弁えておいて下さいませ。いくら山の上の池に水を湛えていましても、
谷川を流れて田地を潤さなかったら、池の水も役に立ちません。
山の上で僧侶が修行して、証を開かれても、家庭に流れて、家庭の男女が
救われなければ、宗教の価値も有り難さも、一般に伝えることができないでしょう。
これは記念に差し上げます」 (p.100-101)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 14:04:12 | Weblog
三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、
と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、
その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、
必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、
明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、
この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。
飛び上がったも飛び上がった、三千世界の者はみな堕ちても、
私が助かったのが証拠だ、信前信後の水際の鮮やかさ、
よくも口が裂けなかったことだ、よくも大地が割れなかったことだ、
この逆謗闡提の悪性が無条件とは、何たる不思議 (p.78-79)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 13:45:02 | Weblog
どうしたら心の迷いを晴らすことができるのかと、
霊仏霊社に詣でて観念を凝らし、心想を練り、
心を追求すればするほど無明の闇は深まるばかり、
狂乱の心に苦しめられているとき、聖覚法印に出遇い、
「善信房、顔色が悪いが、ご病気ではありませんか。」
「ありがとうございます、身体の病気ではなく、心の病気でございます。」
「よいところに気がつきました、身体の病気を苦にする人はいても、
信仰の煩悶をする人はいません。法然上人は生死の苦海を渡す舟人でございます、
おいでませんか。」
「智慧第一のお方と誉れは高いが、一度もお逢いしたことがありません。」
「私がお伴をしましょう。」(p.66)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 13:21:41 | Weblog
大岡越前守は偉い。ある人が名判官たる所以を尋ねたら
「独楽と達磨を見分けて裁判する」と言われた。
その理由は
「奉行所に引き出されたとき、嘘をついている人間は弁にまかせて嘘を
隠そうと独楽のようにきりきり廻っているけれども、三度五度言わして
みれば、接目が合わなくなって転ぶ。愚直の人間が奉行所にくれば、
おどおどして前後が合わないようであるけれども、三度も四度も言わして
みれば、ぶらぶらしているようでも、最後には腹が据わって達磨のように
坐るから、それを見て判断する」
といわれた。
「しかし・・・」と言って、小判を取り出し
「達磨の頭に結びつけて転がしたら、ぐらりぐらりしているけれども、
小判の方に傾く、賄賂を貰ったらおしまいだ」
と言われたそうです。(p.34-35)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 13:09:41 | Weblog
ちょっと境界が違う鰻と人間の関係でも、ウナギにしてみれば、
こういう感慨を深くしているかもしれない。
「われわれは何で、こんな狭い生簀の中でもみ合っていなければならないのだ。」
「何でも、人間の仕業らしいぞ。土用丑の日とかで、われわれを食べれば健康に
なるとか言って、高く売っているのだそうな。」
「何で、われわれが人間に食べられなければならないのだ。」
「そんな理屈を知るものかい。」
「そら捕まったぞ、料理して食べられるのだそうな。」
「誰も見たものもなければ、行って帰ったものもいないではないか。」
「そのときには、頭を錐に刺されて七転八倒の苦しみだ。鋭い刃物で背中を
割かれ、骨を抜いてから三つに切られ、串に刺され炎の上に乗っているのだ、
報告に帰れる筈がないではないか。」
ウナギから見れば、料理しているものも鬼なら、食べているものも鬼ではないか。
この怨みと呪いの報復は、誰が受けると思いますか。(p.32-33)