土佐藩には土佐四天王と言われる人物がいる。
言わずと知れた、坂本龍馬と中岡慎太郎。
土佐勤王党の盟主、武市瑞山(半平太とも言う)
本日は、そんな土佐四天王の一人。
吉村虎太郎。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
吉村虎太郎、もしくは寅太郎(よしむら とらたろう)
生誕
1837年4月18日
死没
1863年9月27日
出身
土佐藩
性格
愛嬌のある人だったそうだ。
ニックネーム
『森三中大島』にしよう。

逸話
吉村くんは、庄屋の吉村太平の長男として生まれたそうだ。
そして12歳で父の跡を継いで北川村庄屋となったそうだ。
その後結婚したりして、間崎哲馬からお勉強を習って、武市瑞山からは剣術を教えてもらったそうだ。
そうこうしているうちに、吉村くんは尊攘思想を持つようになったそうだ。
そんなわけで、武市瑞山が土佐勤王党を結成すると、吉村くんもこれに参加。
しかし、武市瑞山の「土佐藩、一丸となって勤王活動をしよう!」との考えに、吉村くんは「土佐藩が一丸になれるわけないじゃん!」と反対。
そんなとき、薩摩藩が幕府に尊王攘夷を迫るという情報を入手したそうだ。
そんなわけで、吉村くんも「よし!オレも仲間に入れてもらおう!」ということで脱藩。
京都へ向かったのである。
そして、薩摩藩の人たちとかと「倒幕するぜ!」と気合い十分の吉村くん。
この時、関白の九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を襲撃とかを計画したそうだ。
だけど、島津久光が「なんてけしからん奴らだ!」と尊王派の有馬新七らを静粛。
世に言う寺田屋事件である。(坂本龍馬襲撃では無い方の寺田屋事件)
この事件に関与した疑いで、吉村くんは土佐藩に送り返されてしまったそうだ。
そして8ヶ月の投獄生活を送ったのである。
8ヶ月の投獄生活が終わり、晴れて釈放された吉村くんは、懲りずに京都へ向かったのである。
そして、中山忠光(この人は明治天皇の母方の叔父だそうだ)を大将にした天誅組を結成。
1863年8月13日に孝明天皇が大和(現在の奈良)にある初代・神武天皇の陵に参拝して天皇自ら攘夷を行う、攘夷親征を誓うという情報を入手。
そんなわけで次の日、14日に、吉村くんたちは「天皇が攘夷を行うと言っている。僕たちはその先駆者になろう!今こそ倒幕だ!」と天誅組は倒幕の兵を率いて京都を出陣。
そして、大和国五条代官所を襲撃。
代官、鈴木源内とか5人を殺したのだ。
そして桜井寺に本陣を置き、「代官が支配していた土地を天皇直轄の領地とする!」と発表したのである。
世に言う、天誅組の変だ。
これが、京都を出陣して3日後、1863年8月17日の出来事だ。
そして翌日の1863年8月18日に、新選組も『お花畑』を守ったあの出来事。
八月十八日の政変が起こったのである。
そもそも、孝明天皇が天皇自ら攘夷を行うと誓ったはいいが、孝明天皇に攘夷を行うなんて意思はなかったのである。
しかも孝明天皇は「俺が攘夷するって話だったけど、本当のこと言うとあれは延期だし」と言い出したのだ。
さらに、長州が朝廷を利用しているんだという話も浮上したもんで、中川宮に「長州を京都から追い出せ!」という勅命が下ったのである。
そんなことだから、八月十八日の政変で長州は京都を追われてしまったのである。
そして困ったのが、長州を後ろ盾として活動していた天誅組である。
後ろ盾を失った、天誅組は孤立してしまうのだ。
そんなわけで、天誅組は尊王攘夷派の人間が多い十津川村に一旦逃げ、ここで1000人ほどの兵をかき集めたのである。
そして、対立する大和高取城を攻めたのである。
しかし、戦に関してはほとんど素人の寄せ集めの1000人だ。
当然、大敗。
吉村くんはこの戦いで、重傷を負ってしまったので吉野郡鷲家口(現在の奈良県東吉野)へと逃れたのである。
しかし9月に入ると、天皇が「天誅組の大将、中山忠光は天皇の敵だ!」と発表。
天誅組が朝敵になった瞬間である。
そして1863年9月27日、吉村さんたちが隠れている所を天誅組討伐の命を受けた紀州・彦根・津藩の兵に見つかってしまったのだ。
吉村くんたちは激しく抵抗。
しかし抵抗も虚しく、吉村くんは「もう無理!」と思ったようで中山忠光だけを何とか逃亡させ、自分は自刃。
享年27歳だったそうだ。
土佐四天王と呼ばれているようだが、正直死ぬのが早い気がする。
それだけの人物なんだから、もうちょっと長生きすれば凄いことをやってのけれたかもしれないのにと、勝手に思うのである。
言わずと知れた、坂本龍馬と中岡慎太郎。
土佐勤王党の盟主、武市瑞山(半平太とも言う)
本日は、そんな土佐四天王の一人。
吉村虎太郎。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
吉村虎太郎、もしくは寅太郎(よしむら とらたろう)
生誕
1837年4月18日
死没
1863年9月27日
出身
土佐藩
性格
愛嬌のある人だったそうだ。
ニックネーム
『森三中大島』にしよう。


逸話
吉村くんは、庄屋の吉村太平の長男として生まれたそうだ。
そして12歳で父の跡を継いで北川村庄屋となったそうだ。
その後結婚したりして、間崎哲馬からお勉強を習って、武市瑞山からは剣術を教えてもらったそうだ。
そうこうしているうちに、吉村くんは尊攘思想を持つようになったそうだ。
そんなわけで、武市瑞山が土佐勤王党を結成すると、吉村くんもこれに参加。
しかし、武市瑞山の「土佐藩、一丸となって勤王活動をしよう!」との考えに、吉村くんは「土佐藩が一丸になれるわけないじゃん!」と反対。
そんなとき、薩摩藩が幕府に尊王攘夷を迫るという情報を入手したそうだ。
そんなわけで、吉村くんも「よし!オレも仲間に入れてもらおう!」ということで脱藩。
京都へ向かったのである。
そして、薩摩藩の人たちとかと「倒幕するぜ!」と気合い十分の吉村くん。
この時、関白の九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を襲撃とかを計画したそうだ。
だけど、島津久光が「なんてけしからん奴らだ!」と尊王派の有馬新七らを静粛。
世に言う寺田屋事件である。(坂本龍馬襲撃では無い方の寺田屋事件)
この事件に関与した疑いで、吉村くんは土佐藩に送り返されてしまったそうだ。
そして8ヶ月の投獄生活を送ったのである。
8ヶ月の投獄生活が終わり、晴れて釈放された吉村くんは、懲りずに京都へ向かったのである。
そして、中山忠光(この人は明治天皇の母方の叔父だそうだ)を大将にした天誅組を結成。
1863年8月13日に孝明天皇が大和(現在の奈良)にある初代・神武天皇の陵に参拝して天皇自ら攘夷を行う、攘夷親征を誓うという情報を入手。
そんなわけで次の日、14日に、吉村くんたちは「天皇が攘夷を行うと言っている。僕たちはその先駆者になろう!今こそ倒幕だ!」と天誅組は倒幕の兵を率いて京都を出陣。
そして、大和国五条代官所を襲撃。
代官、鈴木源内とか5人を殺したのだ。
そして桜井寺に本陣を置き、「代官が支配していた土地を天皇直轄の領地とする!」と発表したのである。
世に言う、天誅組の変だ。
これが、京都を出陣して3日後、1863年8月17日の出来事だ。
そして翌日の1863年8月18日に、新選組も『お花畑』を守ったあの出来事。
八月十八日の政変が起こったのである。
そもそも、孝明天皇が天皇自ら攘夷を行うと誓ったはいいが、孝明天皇に攘夷を行うなんて意思はなかったのである。
しかも孝明天皇は「俺が攘夷するって話だったけど、本当のこと言うとあれは延期だし」と言い出したのだ。
さらに、長州が朝廷を利用しているんだという話も浮上したもんで、中川宮に「長州を京都から追い出せ!」という勅命が下ったのである。
そんなことだから、八月十八日の政変で長州は京都を追われてしまったのである。
そして困ったのが、長州を後ろ盾として活動していた天誅組である。
後ろ盾を失った、天誅組は孤立してしまうのだ。
そんなわけで、天誅組は尊王攘夷派の人間が多い十津川村に一旦逃げ、ここで1000人ほどの兵をかき集めたのである。
そして、対立する大和高取城を攻めたのである。
しかし、戦に関してはほとんど素人の寄せ集めの1000人だ。
当然、大敗。
吉村くんはこの戦いで、重傷を負ってしまったので吉野郡鷲家口(現在の奈良県東吉野)へと逃れたのである。
しかし9月に入ると、天皇が「天誅組の大将、中山忠光は天皇の敵だ!」と発表。
天誅組が朝敵になった瞬間である。
そして1863年9月27日、吉村さんたちが隠れている所を天誅組討伐の命を受けた紀州・彦根・津藩の兵に見つかってしまったのだ。
吉村くんたちは激しく抵抗。
しかし抵抗も虚しく、吉村くんは「もう無理!」と思ったようで中山忠光だけを何とか逃亡させ、自分は自刃。
享年27歳だったそうだ。
土佐四天王と呼ばれているようだが、正直死ぬのが早い気がする。
それだけの人物なんだから、もうちょっと長生きすれば凄いことをやってのけれたかもしれないのにと、勝手に思うのである。
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