明日はおそらく七転八倒!

勝手に新選組。
自分は新選組が好きなので、勝手に新選組を始めます。
あくまで、勝手にってのがミソです。

黒田清隆

2015-05-29 21:58:10 | 勝手に明治維新
本日は2代目内閣総理大臣。

北海道開拓に情熱を注いだ人物。

黒田清隆。

そんなわけで、勝手に明治維新。

名前
黒田清隆(くろだ きよたか)

生誕
1840年11月9日

死没
1900年8月23日

出身
薩摩藩

流派
薩摩示現流

性格
一本気で、男気があったらしい。
ただ詳しくは後ほど書くが、そうでもないような気がする・・・

ニックネーム
『貴族』にしよう。
   

逸話
黒田くんは家禄4石という下級武士の家に生まれたらしい。

そんな黒田くんは1862年に生麦事件が起こると、事件の現場に居たらしい。(黒田くんは刀を抜いた人を必死に止めていたらしい)

その翌年は、薩英戦争で戦ったりしている。

薩英戦争後は江戸へ行って、砲術のお勉強。

そして、1866年に当時の日本を揺るがす出来事、薩長同盟が結ばれるワケである。

黒田くんは、薩摩の使者として長州に行って「同盟組みましょうよー」とか言ったり、大坂で西郷吉之助(西郷隆盛)と桂小五郎の対面を実現させたりして、薩長同盟のために奔走したようだ。

戊辰戦争でも、黒田くんは大活躍。

各地で連戦連勝したようで、西南戦争のときも黒田くんが育て上げた屯田兵が大活躍。

そんなわけで、黒田くんは根っからの武人と評価されることもあるようだ。

他には、北海道開拓に力を注いで、箱館戦争で敵だった人を積極的に起用して実務能力を発揮させたりしたようだ。

あとは雇われ外国人を積極的に招いて、次世代の人材育成にも力を注いだらしい。

「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」で有名なクラーク博士を教頭に招いて、札幌農学校(現北海道大学)を創立したりもしている。

ちなみに、まめ知識としては現在の雪印メグミルクやらサッポロビールを創業したのも黒田くんだ。

そして、2代目内閣総理大臣になったのである。

と、まあ経歴を見ると凄い人のようにも思える。

しかし、この人には大きな欠点があったのである。

それは、

酒乱

だということだ。

1876年のことである。

ある日、クラーク博士と口論になったそうだ。

黒田くんは怒り心頭。

怒った黒田くんは酔った勢いで、小樽市にある赤岩山という所に向かって、突然大砲をぶっ放したのである。

あろうことか、これが民家直撃。

死者を出す大参事になったそうだ。

怒ったからといって、それはやり過ぎだ。

それで、少しは反省したのか、流石に大砲をぶっ放すということをしなくなったものの、相変わらず酒癖の悪さは続いたようだ。

あるときは、桂小五郎に酔った勢いで何発か殴ったことがあるらしい。

桂小五郎も最初は我慢してたそうだが、流石に我慢できなくなり黒田くんを毛布に包んでひもで縛り、自宅に送り返したということもあったそうだ。

それから、桂小五郎にはビビっていたらしい。

あとは、あまりにも酒癖が悪かったせいで、奥さんが死んだときに「黒田くんが酔った勢いで殺したんだ!」とまで言われる始末。

実際は病気だったみたいだけど。

他にも、初代総理大臣伊藤博文が黒田くんの政治家としての才能を評価してくれて、内閣顧問に就任したそうなんだが、会議で気に入らないことが起こると会議をボイコット。

控え室で酒を飲むという、傍若無人ぶり。

そんなわけで、伊藤博文も「とりあえず会議にはでてくれ」と黒田くんに使者を送ったのだけど、「イヤだ」と拒否。

それどころか鉄砲をその使者に向けて追い返すという、まさかの行動。

こんなヤツの才能を良く評価したな。

あとは、伊藤博文の親友でもある井上馨のことを「あいつ生意気なんだよう!」と言って刀を持って井上家に押しかけるという、奇行。

そのときは奥さんのたきさんが対応したようで「こっちは刺し違える覚悟だ!」という捨て台詞を吐いただけで、幸い死傷者は出なかったようだ。

そんな人だったからか、総理大臣もたった1年半で辞任。

それでも黒田くんはその後も、重要な役職についたりしているので、酒癖の悪さをなんとかすれば、本当に凄い人だったのかもしれない。

ただ、酔った勢いで民家に大砲をぶっ放してる時点で完全にアウトだ。

なぜ、犯罪者扱いではなく、偉人扱いになっているのか不思議だ。と、勝手に思うのである。

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