いままでいろいろやってきたが、幕末と言えば坂本龍馬だ。
その坂本龍馬の作った、亀山社中(後の海援隊)についてほとんど触れていなかった。
そんなわけで、本日は亀山社中の結成に加わり、その後は交渉人としても活躍した人物。
近藤長次郎。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
近藤長次郎(こんどう ちょうじろう)
別名
上杉宋次郎
生誕
1838年3月7日
死没
1866年1月14日
出身
土佐藩
性格
自惚れ屋だったみたいだ。
ニックネーム
これが長次郎くん。

『バランスが悪い人』とかにしよう。
逸話
長次郎くんは高知城下の饅頭屋『大里屋』の長男として生まれたそうだ。
江戸時代、庶民は苗字を持っていなかったので長次郎くんにも、名字が無かったようだ。(正確には家とかを識別するために苗字はあったんだと。だけど、庶民がその苗字を名乗ることが禁止されていたんだとか)
そして、長次郎くんは饅頭を売り歩いてたことがあったために、仲間たちからは『饅頭屋長次郎』と呼ばれていたそうだ。
そんな長次郎くんだが、小さい頃から頭脳明晰。
そうゆうわけで、土佐では河田小龍とかいう人、江戸では安積艮斎とかいうの下でお勉強をしている。
余談だが、安積艮斎からは、後の三菱財閥の創業者岩崎弥太郎とかもお勉強している。
そうゆう関係もあってが、長次郎くんと岩崎弥太郎は仲良しだったみたいだ。
そんな頭のいい長次郎くんを見た、土佐藩藩主の山内容堂に「君頭良いね」と認められ、名字帯刀を認めてもらって、正式に土佐藩士に認めてもらったそうだ。
そんなことをしている間に父親が他界して、土佐に戻ってきたりしている。
それでも、家督を妹に継がせて、江戸に戻っている。
そこで、同郷で仲の良かった坂本龍馬と再会。
坂本龍馬の誘いで勝海舟に弟子入り。
神戸海軍操練所が設立されると、そこで坂本龍馬とかと操船術を学んだそうだ。
この間に長次郎くんは運命の人と出会ったのである。
それが勝海舟の塾に出入りしていた大和屋の娘さん、お徳さんだ。
長次郎くんはお徳さんと結婚。
翌年には長男。百太郎くんが生まれたそうだ。
だけど、海軍操練所が閉鎖になると、お徳さんと百太郎くんを大和屋の実家に返してしまったのである。
そんな長次郎くんは坂本龍馬とかと長崎で亀山社中の設立に奔走。
亀山社中が出来ると、長次郎くんは諸藩との交渉を任せられたそうだ。
その頃坂本龍馬は薩長同盟締結に奔走していたのだが「長次郎くんがいれば何の問題も無い!」と安心して、長次郎くんに仕事を任せれるほど、長次郎くんは優秀だったようだ。
そして坂本龍馬は、経済封鎖を受けていた長州の武器購入の手助けをするように長次郎くんにお願い。(薩長同盟を締決するための作戦らしい)
長次郎くんは「わかったよー」と言って、伊藤博文、井上馨をイギリスの商人グラバーと会わせてあげたのである。
このおかげで、長州は汽船ユニオン号や最新洋式銃を手に入れることに成功して、第二次長州征伐にも勝つことが出来たのである。
そんなわけで、長州は長次郎くんに超感謝。
長次郎くんは長州にご招待され、手厚いおもてなしを受け、さらには藩主毛利敬親に「キミのおかげで助かったよ!サンキュー」とお礼を言われるという、予想以上の反響。
そんなわけで、自惚れ屋の長次郎くんは「これって全部オレのおかげ?やっぱオレって天才!」と協力してくれた仲間たちのことなんかすっかり忘れて、増長してしまったのだ。
そして長州から謝礼金(謝礼金というか仲介手数料に近い)が支払われる。
これは、亀山社中に支払われたものであり、亀山社中の運転資金や仲間たちに分配されるはずのものだ。
しかし、完全に増長しきった長次郎くんは「全部オレのおかげなんだ!これはオレのものだ!」とここまで自分勝手なことは言ってないと思うがそんな感じで、仲間たちに内緒でこのお金を使って海外留学を計画。
グラバーさんが用意した船に乗ってイギリスへ行く予定だったのだが、あろうことか
悪天候で船は出港せず。
そのせいで、仲間たちに計画がバレてしまい、社中盟約に違反したことを追求され責任をとって切腹。
この時坂本龍馬は長崎に不在だったようで「オレがいたら長次郎くんを切腹なんかしなかったのに・・・」と嘆いたそうだ。
それにしても悪天候とはついていない。
でも天気が悪かったんじゃしょうがないなと、勝手に思うのである。
その坂本龍馬の作った、亀山社中(後の海援隊)についてほとんど触れていなかった。
そんなわけで、本日は亀山社中の結成に加わり、その後は交渉人としても活躍した人物。
近藤長次郎。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
近藤長次郎(こんどう ちょうじろう)
別名
上杉宋次郎
生誕
1838年3月7日
死没
1866年1月14日
出身
土佐藩
性格
自惚れ屋だったみたいだ。
ニックネーム
これが長次郎くん。

『バランスが悪い人』とかにしよう。
逸話
長次郎くんは高知城下の饅頭屋『大里屋』の長男として生まれたそうだ。
江戸時代、庶民は苗字を持っていなかったので長次郎くんにも、名字が無かったようだ。(正確には家とかを識別するために苗字はあったんだと。だけど、庶民がその苗字を名乗ることが禁止されていたんだとか)
そして、長次郎くんは饅頭を売り歩いてたことがあったために、仲間たちからは『饅頭屋長次郎』と呼ばれていたそうだ。
そんな長次郎くんだが、小さい頃から頭脳明晰。
そうゆうわけで、土佐では河田小龍とかいう人、江戸では安積艮斎とかいうの下でお勉強をしている。
余談だが、安積艮斎からは、後の三菱財閥の創業者岩崎弥太郎とかもお勉強している。
そうゆう関係もあってが、長次郎くんと岩崎弥太郎は仲良しだったみたいだ。
そんな頭のいい長次郎くんを見た、土佐藩藩主の山内容堂に「君頭良いね」と認められ、名字帯刀を認めてもらって、正式に土佐藩士に認めてもらったそうだ。
そんなことをしている間に父親が他界して、土佐に戻ってきたりしている。
それでも、家督を妹に継がせて、江戸に戻っている。
そこで、同郷で仲の良かった坂本龍馬と再会。
坂本龍馬の誘いで勝海舟に弟子入り。
神戸海軍操練所が設立されると、そこで坂本龍馬とかと操船術を学んだそうだ。
この間に長次郎くんは運命の人と出会ったのである。
それが勝海舟の塾に出入りしていた大和屋の娘さん、お徳さんだ。
長次郎くんはお徳さんと結婚。
翌年には長男。百太郎くんが生まれたそうだ。
だけど、海軍操練所が閉鎖になると、お徳さんと百太郎くんを大和屋の実家に返してしまったのである。
そんな長次郎くんは坂本龍馬とかと長崎で亀山社中の設立に奔走。
亀山社中が出来ると、長次郎くんは諸藩との交渉を任せられたそうだ。
その頃坂本龍馬は薩長同盟締結に奔走していたのだが「長次郎くんがいれば何の問題も無い!」と安心して、長次郎くんに仕事を任せれるほど、長次郎くんは優秀だったようだ。
そして坂本龍馬は、経済封鎖を受けていた長州の武器購入の手助けをするように長次郎くんにお願い。(薩長同盟を締決するための作戦らしい)
長次郎くんは「わかったよー」と言って、伊藤博文、井上馨をイギリスの商人グラバーと会わせてあげたのである。
このおかげで、長州は汽船ユニオン号や最新洋式銃を手に入れることに成功して、第二次長州征伐にも勝つことが出来たのである。
そんなわけで、長州は長次郎くんに超感謝。
長次郎くんは長州にご招待され、手厚いおもてなしを受け、さらには藩主毛利敬親に「キミのおかげで助かったよ!サンキュー」とお礼を言われるという、予想以上の反響。
そんなわけで、自惚れ屋の長次郎くんは「これって全部オレのおかげ?やっぱオレって天才!」と協力してくれた仲間たちのことなんかすっかり忘れて、増長してしまったのだ。
そして長州から謝礼金(謝礼金というか仲介手数料に近い)が支払われる。
これは、亀山社中に支払われたものであり、亀山社中の運転資金や仲間たちに分配されるはずのものだ。
しかし、完全に増長しきった長次郎くんは「全部オレのおかげなんだ!これはオレのものだ!」とここまで自分勝手なことは言ってないと思うがそんな感じで、仲間たちに内緒でこのお金を使って海外留学を計画。
グラバーさんが用意した船に乗ってイギリスへ行く予定だったのだが、あろうことか
悪天候で船は出港せず。
そのせいで、仲間たちに計画がバレてしまい、社中盟約に違反したことを追求され責任をとって切腹。
この時坂本龍馬は長崎に不在だったようで「オレがいたら長次郎くんを切腹なんかしなかったのに・・・」と嘆いたそうだ。
それにしても悪天候とはついていない。
でも天気が悪かったんじゃしょうがないなと、勝手に思うのである。
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