本日は松下村塾塾生。
現在の独協大学とかを創立した人物。
品川弥二郎。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
品川弥二郎(しながわ やじろう)
生誕
1843年11月20日
死没
1900年2月26日
出身
長州藩
役職
第6代内務大臣
性格
師匠吉田松陰曰く、温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。心が広く奥深い人らしい。
ニックネーム
布施さんに似てると思ったんだけど、あんまり似てない・・・。

とりあえず『明じゃないほう』にしておこう。
逸話
弥二郎さんは萩藩の検断人(検死する人のことらしい)の父、品川弥市右衛門の子どもとして生まれたそうだ。
弥二郎さんはその後、順調に育ったようで、あの吉田松陰で有名な松下村塾に入塾。
しかし師匠吉田松陰は安政の大獄のせいで、この世を去ってしまったのである。
弥二郎さんはその師匠の思いを次いで、高杉晋作や久坂玄瑞とかと尊王攘夷活動に精を出すようになったそうだ。
そして英国公使館焼き討ち事件とかを起こしている。
またその頃は下駄に「薩賊会奸」(薩摩は賊、人を困らせるヤツら。会津は奸物、腹黒いヤツら。という意味らしい)と墨で書き、踏みつけて歩いたらしい。
くだらんことをやってるもんだ。
そして、禁門の変では八幡隊長として参戦。
そして惨敗。
絶体絶命のピンチだったみたいだが、囲みをやっとの思いで破って長州に帰ったのだった。
長州に帰ってからは山田顕義とかと御楯隊(御楯隊についてはまた今度・・・)というのを結成。
その後、桂小五郎と上京。
薩長同盟のために連絡係や情報収集係として頑張ったのである。
それなのに薩長同盟成立後は薩摩藩邸に、あろうことか
人質
として滞在。
災難だな。
その後、長州藩三十人通り(なんかそうゆう身分。武士の身分で世襲が許されたらしい)に昇格。
そして岩倉具視や久保利通と会見。
錦の御旗と倒幕の密勅を託されたのだ。
正直、この錦の御旗と密勅がなければ、戊辰戦争は薩摩、長州側は惨敗していたはずだ。
それだけ、重要な役割だったのである。
そしてその戊辰戦争では弥二郎さんは御楯隊を率いて出陣している。
奥羽鎮撫総督参謀や整武隊参謀としても活躍したそうだ。
時代が明治に変わるとヨーロッパに行って、普仏戦争を視察したり、ドイツやイギリスに留学。
帰国後は外務関係に尽力。
宮中顧問官・御料局長としても頑張ったらしく、皇室の財産形成に力を注いだらしい。
そして1884年には子爵という位を貰っている。
しかし弥二郎さんは、どんなに忙しく偉くなっても、師匠吉田松陰のことは尊敬し続けていたのだった。
そして、吉田松陰の意思を引き継ぎ1887年に尊攘堂というのを建てたそうだ。
その後、1891年には第一次松方内閣の内務大臣に就任。
その時に、警察を動員して選挙干渉を行って、民党議員の選出を阻止しようとしたのである。
それによって死傷者を出したらしく、国民から非難され、結局辞任。
それからはヨーロッパに行った時にお勉強したことを生かして、信用組合の設立や独協学園や京華学園の設立などに貢献したそうだ。
そして1900年に肺炎のため58歳でこの世を去る。
そんな、弥二郎さんは実は久坂玄瑞のお嫁さん、杉文(吉田松陰の妹)に恋をしていたらしい。
でも、杉文さんは久坂玄瑞と結婚したもんだから、弥二郎さんの恋は報われなかったわけである。
そんな弥二郎さんを横目に、久坂玄瑞は杉文さんのことを「あんなブス好きじゃない!」と、なんともヒドいことを言っていたそうだ。
それを聞いていた弥二郎さんの心境を思うと辛かったんだろうなと、勝手に思うのである。
現在の独協大学とかを創立した人物。
品川弥二郎。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
品川弥二郎(しながわ やじろう)
生誕
1843年11月20日
死没
1900年2月26日
出身
長州藩
役職
第6代内務大臣
性格
師匠吉田松陰曰く、温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。心が広く奥深い人らしい。
ニックネーム
布施さんに似てると思ったんだけど、あんまり似てない・・・。


とりあえず『明じゃないほう』にしておこう。
逸話
弥二郎さんは萩藩の検断人(検死する人のことらしい)の父、品川弥市右衛門の子どもとして生まれたそうだ。
弥二郎さんはその後、順調に育ったようで、あの吉田松陰で有名な松下村塾に入塾。
しかし師匠吉田松陰は安政の大獄のせいで、この世を去ってしまったのである。
弥二郎さんはその師匠の思いを次いで、高杉晋作や久坂玄瑞とかと尊王攘夷活動に精を出すようになったそうだ。
そして英国公使館焼き討ち事件とかを起こしている。
またその頃は下駄に「薩賊会奸」(薩摩は賊、人を困らせるヤツら。会津は奸物、腹黒いヤツら。という意味らしい)と墨で書き、踏みつけて歩いたらしい。
くだらんことをやってるもんだ。
そして、禁門の変では八幡隊長として参戦。
そして惨敗。
絶体絶命のピンチだったみたいだが、囲みをやっとの思いで破って長州に帰ったのだった。
長州に帰ってからは山田顕義とかと御楯隊(御楯隊についてはまた今度・・・)というのを結成。
その後、桂小五郎と上京。
薩長同盟のために連絡係や情報収集係として頑張ったのである。
それなのに薩長同盟成立後は薩摩藩邸に、あろうことか
人質
として滞在。
災難だな。
その後、長州藩三十人通り(なんかそうゆう身分。武士の身分で世襲が許されたらしい)に昇格。
そして岩倉具視や久保利通と会見。
錦の御旗と倒幕の密勅を託されたのだ。
正直、この錦の御旗と密勅がなければ、戊辰戦争は薩摩、長州側は惨敗していたはずだ。
それだけ、重要な役割だったのである。
そしてその戊辰戦争では弥二郎さんは御楯隊を率いて出陣している。
奥羽鎮撫総督参謀や整武隊参謀としても活躍したそうだ。
時代が明治に変わるとヨーロッパに行って、普仏戦争を視察したり、ドイツやイギリスに留学。
帰国後は外務関係に尽力。
宮中顧問官・御料局長としても頑張ったらしく、皇室の財産形成に力を注いだらしい。
そして1884年には子爵という位を貰っている。
しかし弥二郎さんは、どんなに忙しく偉くなっても、師匠吉田松陰のことは尊敬し続けていたのだった。
そして、吉田松陰の意思を引き継ぎ1887年に尊攘堂というのを建てたそうだ。
その後、1891年には第一次松方内閣の内務大臣に就任。
その時に、警察を動員して選挙干渉を行って、民党議員の選出を阻止しようとしたのである。
それによって死傷者を出したらしく、国民から非難され、結局辞任。
それからはヨーロッパに行った時にお勉強したことを生かして、信用組合の設立や独協学園や京華学園の設立などに貢献したそうだ。
そして1900年に肺炎のため58歳でこの世を去る。
そんな、弥二郎さんは実は久坂玄瑞のお嫁さん、杉文(吉田松陰の妹)に恋をしていたらしい。
でも、杉文さんは久坂玄瑞と結婚したもんだから、弥二郎さんの恋は報われなかったわけである。
そんな弥二郎さんを横目に、久坂玄瑞は杉文さんのことを「あんなブス好きじゃない!」と、なんともヒドいことを言っていたそうだ。
それを聞いていた弥二郎さんの心境を思うと辛かったんだろうなと、勝手に思うのである。
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