歯科技術専門学校の生徒さんたちも、国家試験が目の前で最後の追い込み。
校長先生であるうちの主人も、補講のための勉強に躍起!!でした。
で、国家試験が終われば卒業。そして謝恩会。
その謝恩会の余興で使うので、主人の小さいころの写真を出してくださいとのこと。
主人は4人男兄弟の2番目(と言っても、実質、腹違いの叔父さん3人と、兄弟みたいにして育ったから、7人男兄弟の5番目ともいえる)。
主人の実家の子育て期は大変だったろうな。何せ男の子7人だもの。それにおじいさんに、おばあさん。
ひえ~~~~~~っ!!すごいよね。
で、そんな中、写真なんてほとんどないし、ましてや宮崎にもってきているものはほんの数枚。
でも、あることはある。主人がお祭りで稚児さんの格好をしたもの。
ははは・・・かわいいね!!
あとは、若いころの写真。
探しました。
あるあるある・・・
その中に、私たちの結婚写真を見つけました。
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複雑な思いが沸き上がります。
というのは、私たち、当時、大学病院に勤めていたので、福岡で結婚式と披露宴をしました。
そして・・・
宮崎でもまた披露宴をしたのです。ええ、私の両親のたっての願いでした。
私は、小さいころから両親の期待を一身に背負って?自慢の娘でした。
両親は自分のお友達や知り合いに、娘の結婚披露宴をみてほしかったのでしょう。
私は内心、とても嫌でした。
でも、両親のためにやりましたとも。
宮崎での結婚披露宴の写真には、私には笑顔があまりありません。
そんなことを思い出しながら、他に写真を探していると、
今度は開業披露パーティの写真が出てきました。
結婚から数年。今度は宮崎で歯科医院を開業することになりました。
その時、両親は開業披露パーティーを開こうといいました。
これまた、そんなことしなくてもいい!!と、反発しましたが、両親のために、ほんと、仕方なしなし開きました。
その写真を見るだけで不快な思いになります。
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はい。
ここでいろんな問題があることに気づきますね。
①宮崎での結婚披露宴や、開業披露パーティが、いやだったら、断固拒否すればよかったのに!!なぜ?
②肝心の主人の意向はどうだったの?・・・・・・・・・・うちの親に無理して合わせてくれたのです。
そうなんです。
私が親離れしてなくて、親の言うとおりに生きてきた・・・という、大問題がありますね。
特に母娘間に問題がありました。
母は自分では気づいていなかったと思いますが、強烈な個性の持ち主でした。
自分の夢を私に託して、私を思い通りにコントロールしようとしていた節があります。
私はいろんなことを通して、最終的には自分の意見が通らないのを小さいころから経験していたので、
「自分では考えまい。親の言うとおりにしていれば大丈夫なんだ」・・・
心理学でいう「自分で考えてはいけない」という、
強烈な「禁止令」を 子供のころ、受け取っていたんだと思います。
人は育てられたように子育てをする・・・
私も子供たちを無意識に思い通りにコントロールしようとしてきたわけです。
だから、うちの子供たちが3人とも、母親である私との間に強固な境界線を、自分で、さっさと、ひいていったときにはびっくりして言葉が出なかった。
でも、それはとても健全だったんですね。
私が、母親との間にしっかりと境界線を引いたのは母親が亡くなる前でした。
50代後半の反抗期でした。
母ががんになって倒れ、手術後、うちで療養していた時、母はものすごい負のオーラで我が家を覆いました。
主人も私も、だんだん気が吸い取られるような?とにかく元気がなくなっていきました。
そんな中。母が肋骨にひびが入っていることがわかり、再入院することになりました。
我が家から母が出て行って、ホっとしたのをおぼえています。
入院してからも毎日私は母の元へ行きました。
そこで母が言いました。何かで機嫌を損ねた時です。
「あんたは、おかあさんと主人と一体どっちが大事ね!!!」
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言葉がありませんでした。
だって、手術したあと、自分の家ではなく、娘である私の家で一か月ほど療養していたんですよ。
主人がやさしいので、快く引き受けてくれたのに。
私は、母のわがままに対し、いつもやさしく接してくれる主人に、とても申し訳なく思っていました。
それなのに・・・
母の言葉は病気が言わせたものかもしれません。
でも、私の心の中で何かがプッツ~ン!と切れました。
そしてまた、退院の時期が迫った時、
私は意を決して母に言いに行きました。
「今度退院したら、うちでは面倒見きれない。施設を探すから、そこに行って!」
(結局、退院できないまま亡くなってしまったのですが)
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何という冷たい娘!!
母も「自分の分身」と思っていた娘がそんなことを言うなんて・・・青天の霹靂だったことでしょう。
私も悩みに悩んでの言葉でした。
このまま母が帰ってきたら、我が家は3人ともだめになる。
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今、思います。
この時、私は初めて母との間にしっかりと境界線を引いたんだな。
おそかったな・・・50代後半の反抗期!
私も苦しかった。
弱った母には酷な言葉ではあったけれど、自然の摂理?母娘、親子のあるべき姿?を、この世で知ることができたわけです。
苦しかったでしょうが、それを経験し、理解して、この世を全うしてよかったと思うのです。
このことがわからないまま、この世を終えたとしたら、次の人生で、また初めから周りを巻き込んで同じあやまちを繰り返してしまった事でしょう。
そんな母でしたが、亡くなる数日前。
突然、入れ歯をなくしたのです!!
その頃は、もう、立てなかったので、あちこち動けない。なくなるはずのない入れ歯。
病院のスタッフ総出で探してくれましたがどうしてもないのです。
弱っていたけれど、母はどうしても入れ歯がいるといいます。
私は必死で一日に何度も母のもとに行って、徹夜をして入れ歯を仕上げました。
母はその入れ歯ができた次の日になくなりました。
お葬式の時もその入れ歯を入れて、きれいな姿で皆さんと最期のお別れすることができました。
とってもおしゃれさんだったので、母も満足したことと思います。
私は思います。
あの宣言をしたまま、母がなくなってしまっていたら、私は自分は親不孝な娘だと一生自分を責めたことと思います。
でも、母は、私に最期の親孝行のチャンスをくれました。
母がそれを意識して、わざと入れ歯を失くしたかというとそうではないと思います。
でも、大いなる意識!?力?が働いて、私にチャンスをくださったんだと理解してます。
このことは、私も母も大きな「学び」でした。
色々あったけど、私は母が大好きです。
今、亡き母に言います。
本当にありがとう!!
また、いろんな難題を、淡々とこなし、流してくれた主人に心から感謝です。
私、主人への御恩、一生忘れない!!
ツルの恩返し。心ひそかに決心しています。
写真探しから、こんなことまでいろいろ思い出したり、考えたりしてしまいました。
これも意味あることなんでしょう。(笑)