ONCC 8期 敗者から見た古代史

~古代史の通説を敗者の立場から読み解く~

藤原広嗣の乱と藤原仲麻呂の乱

2020年11月18日 | 日記

講義テーマ:藤原広嗣の乱と藤原仲麻呂の乱

講師:若井 敏明先生

11月16日(月)13時~15時

 

①天平9年の疫病の影響

「続日本紀」に4月~6月の疫病の影響について記述されている。

天平8年の議政官

 右大臣 藤原武智麻呂

 中納言 多治比県守

 参議  藤原房前 藤原宇合 藤原麻呂 鈴鹿王 橘諸兄 大伴道足

天平9年の議政官

 知太政官事 鈴鹿王

 大納言   橘諸兄(翌年正月右大臣に)

 中納言   多治比広成

 参議     大伴道足 藤原豊成

②藤原広嗣の乱

 藤原広嗣(宇合の子)

  天平10年(739)、太宰少弐に転出。

  天平12年8月29日、玄昉と吉備真備を朝廷から除くことを主張した上表文を提出。

   これが国を転覆させようと企んでいるとして、

  天平12年9月3日、朝廷は大野東人を大将軍として兵を派遣。

  天平12年10月に逮捕され11月初めに処刑された。

③藤原仲麻呂の台頭

 藤原仲麻呂(武智麻呂の次男 706~764)

  天平11年(739)従五位上、12年 正五位上、13年 従四位下・民部卿、15年 従四位上

  天平18年 式部卿、従三位、20年 正三位に昇進

  天平勝宝元年(749)聖武天皇の譲位と孝徳天皇の即位とともに大納言、中衛大将となり、翌年に従二位に昇進

 光明皇太后を背景にした権力掌握

 孝謙天皇の信頼

 橘奈良麻呂の変

  橘諸兄の子の橘奈良麻呂が大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる安宿王・道祖王や黄文王を

  擁立する反乱を企てる。

  変は露見して、反仲麻呂派の一斉検挙と粛清の実施。大伴古麻呂、道祖王も逮捕され拷問死。

  仲麻呂の兄 右大臣・豊成も左遷→藤原仲麻呂の独裁体制の確立

④孝謙太上天皇と道鏡

 光明皇太后の死去と道鏡の登場

 道鏡が病を患った孝謙上皇の傍に侍して看病。以来、その寵を受ける。

淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は悪化。

 天平宝字6年5月

  孝謙上皇、保良宮から帰還して法華寺に、淳仁天皇は平城宮中宮院に入る。

⑤藤原仲麻呂(恵美押勝)のクーデター計画

 道鏡が常に宮中にはべって孝謙天皇)に特別寵愛されるようになった。押勝はこれを妬んで、心が安らかでなかった。

 仲麻呂の上皇への諫言内容

 「道鏡が昼夜朝廷を護り仕える様子を見ていると、道鏡の先祖が大臣として地位と名を受け継ごうと思っている野心のある人物である」といって、「退けられますように」と奏上したけれども、道鏡を大臣禅師に任命された。「続日本紀」天平宝8年9月

⑥藤原仲麻呂の乱

9月11日

 度重なる密告通知をうけた孝謙上皇は少納言山村王を淳仁天皇のいる中宮院(内裏)に派遣して、鈴印を回収(淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたか)。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出。

9月12日

   淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は中納言氷上塩焼(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の子息たちには親王の位階である三品を与えた。奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。

9月18日

 討伐軍の海陸からの攻めでつい仲麻呂軍は敗北した。仲麻呂は湖上に船を出して妻子とともに逃げようとするが、斬られる。その一族も皆殺しにされ、塩焼王も殺された。

⑦淳仁天皇の廃位

 10月、孝謙上皇の軍による中宮院包囲、淳仁天皇は上皇から「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、親王の待遇を持って淡路島に流される。

 

次々週11月30日の講義テーマは、「道鏡と孝謙・称徳天皇」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


藤原氏に敗れた長屋王

2020年11月18日 | 日記

講義テーマ:藤原氏に敗れた長屋王

講師:若井 敏明先生

11月16日(月)10時~12時

 

①長屋王の変

 「続日本紀」神亀6年(729)

  2月10日~2月21日について学ぶ

②長屋王の出自と業績

 父は天武天皇の長男、高市王子

 母は天智天皇の皇女、御名郡皇女(元明天皇の同母姉)

耕地開発の推進

 「続日本紀」養老6年(722年)

三世一身の法

 「続日本紀」養老7年(723年)

③密告者の末路と事件の真相

 「続日本紀」天平10年7月10日

④事変の余波(天平改元)

 

⑤光明立后 

 「続日本紀」天平元年8月10日

  天皇は詔して正三位の藤原夫人(光明子・安宿媛)を皇后に立てた。

⑥立后の背景

 神亀元年(724)2月4日

  聖武天皇(701~755)の即位 同日、長屋王 左大臣となる。

 神亀4年(727)皇子誕生

 神亀5年(728)皇太子の死去

  その年 安積親王の誕生 母は県犬養広刀自

⑦長屋王の変と立后の関係

 藤原宮子、尊号事件  神亀元年2月に夫人宮子を大夫人とする。

「続日本紀」神亀元年3月

 左大臣長屋王ら言く、伏して2月4日の勅を見るに、藤原夫人を天下みな大夫人と称せと。臣ら謹みて公式令を検するに、

 皇太夫人と云り。勅号に依らんと欲すれば皇の字を失い、令文をもちいんと欲せば、恐らくは違勅とならん。云々・・。

⑧事件の伝説化

 「日本霊異紀」中巻

  長屋王の死(自殺)と子供達の自害についての顛末が記述されている。

長屋王邸宅の発掘と木簡

 

 

午後の講義テーマは、「藤原広嗣の乱と藤原仲麻呂の乱」

 

 

 

 


班活動

2020年11月15日 | 日記

3班校外学習:まぼろしの都「長岡京」の探訪

11月6日(金)10:00~15:00

 

「敗者から見た古代史」 3班は秋の一日を「まぼろしの都 長岡京」の探訪を楽しみました。

<古代史の都の場所>

古代は、天皇の地位をめぐっての激しい権力闘争もあり、都も天皇が変わるたびに遷都されました。

長岡京は、784年に「桓武天皇」により、大和(奈良)の「平城京」から山背国乙訓郡(京都)「長岡京」に遷都されました。

山背の名称は、平安京遷都から「山城」となる。

<長岡京>

長岡京の建設は、唐の長安を手本としました。

しかし「長岡京」は10年という短命で終わり、多くの謎が残されました。

 ○なぜ長岡京の地へ遷都したのか

 ○なぜ長岡京は短命だったのか

等々の謎が多く、「まぼろしの都 長岡京」と言われています。

探訪スタート

<東向日駅にて>

 東向日駅でガイドの斎藤・益田両氏と待ち合わせて探訪をスタートしました。

<向日市文化資料館>

 向日市文化資料館で長岡京の全体像を学習する

水陸交通の要所・・・長岡

 長岡は、古くは淀川を中心とした水運や西国街道・物集女街道(山陽)への物資が行き交う交通の要所として栄えました。

道路元標

<須田家住宅>

 西国街道と愛宕道(物集女街道)の分岐点にあり、明治時代まで醤油の製造販売を営んでいました。

長岡の古墳群

<元稲荷古墳>

 乙訓地区には、多くの古墳が残されています。

 元稲荷古墳(前方後円墳)は、全長92mあり地域最古(3世紀末)の古墳です。

向日神社

 718年創建と伝えられます。本殿は「三間社流造」という建築様式で国の重要文化財に指定されています。

史跡長岡宮跡

 長岡京は、長い間「まぼろしの都」といわれ歴史から忘れられていましたが、発掘調査が進められて「現(うつつ)の都」として整備が進められています。

<長岡京 大極殿跡>

<長岡宮 朝堂院西第4堂跡>

紅葉には少し早かったが、楽しい秋の長岡京探訪でした。

                                                                                  記事:3班 浮田秀昭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ルーム講座

2020年11月10日 | 日記

午後のルーム講座

講義テーマ:知ればもっと楽しくなる! 能のお話いろいろ

講師:大阪音楽大学講師 北見 真智子先生

11月9日(月)13時~15時

 

能とは

能楽堂ー能が演じられる空間

 

能を上演する人々ー能楽師、演者

シテ方

 シテ:一曲の主役のこと

 地謡:能の斉唱を担当する役 本舞台右側の地謡座に座る

 後見:演能中は舞台後方に座り、常に全体を見守り、舞台進行を助ける役

ワキ方

 シテと対応し、シテの演技を引き出す相手役

狂言方

 アイ・・狂言の演技を担当する狂言方が能の中で受け持つ役およびその演技のこと

囃子方  笛方/小鼓方/大鼓方/太鼓方

能の音楽・・・謡

 コトバ:演劇におけるセリフに近いもの  フシ:音楽的な抑揚をもつ

 旋律やリズムなどの音楽的な魅力を発揮すればいいだけでなく、そこにドラマを表すことが大切

ノリ

※「ノリが良い」とか「ノリが悪い」という表現は、能の囃子のリズムから出た言葉です。

古典的題材:現行曲数は約240番ある。

(例)伊勢物語より「井筒」 源氏物語より「葵上」 平家物語より「忠度」

   神話より「玉井」 中国故事伝説より「楊貴妃」 伝承・説話より「船弁慶」など

  人間の運命や情念を描く                       

能面いろいろ

構成による分類

 

能「鵺」を鑑賞する。

 先生から「鵺」のあらすじ,前後半の解説を受けながら鑑賞

 敗れ去った鵺を人間の心を持っているもののごとく描く→魂の救済を求める孤独な心情

 平家物語のままに作りあげながらも、能の構成や形式に添わせて飛躍、転換させる。

幽玄美

 もうろうとした中から浮かび上がる美しさ。

 想像力をかき立てる何か、得体の知れない深さ。

 

講義を終えて

 敗者からの古代史を学ぶ我々、能の主役は敗者!

 

 

 

 

 

 


天智天皇に敗れた大友皇子

2020年11月10日 | 日記

講義テーマ:天武天皇に敗れた大友皇子

講師:狩野 直敏先生

11月9日(月)10時~12時

 

はじめに

壬申の乱

西暦672年、天智天皇の跡目を巡り、大友皇子と大海人皇子が争った政変で、政治的勝者と歴史的勝者

A 近江大津宮

①近江遷都 天智6年(667年)

 国防上の理由:白村江の敗戦→唐・新羅軍侵攻の可能性

②大津宮

 詳細は不明、短期間のみの存在

B 天智天皇の後継者

③大海人皇子と大友皇子

天智天皇の健康問題:後継者問題が浮上

 2人の有力候補

  大海人皇子ー父 舒明天皇、母 皇極天皇 天智天皇の同母弟で政治上でも片腕的存在

  大友皇子 ー父 天智天皇、母 伊賀采女宅子娘(地方豪族の出身)天智天皇の長男 太政大臣就任(天智10年)

 天智天皇・大海人皇子兄弟の確執

  後継者問題 

  額田王を巡る三角関係?

④天智天皇の崩御

 天智天皇8年(669)藤原鎌足死去

    10年10月 大海人皇子出家 天智天皇の後継指名を辞退

         皇后(倭姫王)の後継(即位)と大友皇子の立太子を進言

      12月 天智天皇崩御

⑤近江朝廷の政治

 天智天皇崩御後の政権:大友皇子自害までの約半年

C 壬申の乱

⑥大海人皇子の挙兵

 天武天皇元年5月(672)自らへの攻撃準備を口実

開戦を巡る論争

 先に仕掛けたのはどちらか?

 大友皇子説と大海人皇子説の対比

⑦乱の展開

 伊賀→伊勢→美濃

 近江と大和へ兵を展開

 大海人皇子の勝利

  大友皇子、山前で縊死

 天武天皇の即位

  飛鳥浄御原宮

⑧天武天皇にとっての「壬申の乱」

日本書紀での扱い

  天武天皇のみ「2巻」を構成

 発端はどうであれ、即位へ必ず通らなければならなかった道、自ら皇位を勝ち得たことで、カリスマ的指導者へ

 「天皇神格化」へ

D 弘文天皇と大友皇子

 天智天皇10年正月(671) 大政大臣就任

      11年6月(672)「壬申の乱」敗北

大友皇子=弘文天皇

  「日本書紀」では 天智→天武

   現行の皇統譜では 天智→弘文→天武

⑩大友皇子は即位されたのか?

 天智天皇崩御(12月)後、「壬申の乱発生(翌年6月)」迄の近江朝廷

 首班が「大友皇子」であったことは間違いない。 問題は「即位」の有無

  非即位説ー日本書紀の公式見解

  即位説 ー情況証拠

「歴史学」としては、結論を出すのは困難

⑪水戸学と弘文天皇

大日本史

 江戸時代、水戸徳川家第2代藩主徳川光圀によって編集事業が始められた「日本の通史」

 現在では観念的なイメージが強いが、全国で史料を収集するなど「実践的」

水戸学と明治維新

 尊皇攘夷思想

 倒幕→明治維新の思想的根拠

 明治新政府へも影響力

 

午後は、ルーム講座②