源義朝の敗北(保元・平治の乱)
講師:狩野 直敏先生
2月22日(月)10時~12時
はじめに
①「武士の世へ」
保元の乱(1129年)
平治の乱(1159年)
「都を舞台に」「天皇や摂関家」が直接関与した日本史の大きな転換点の一つ
A 清和源氏
②清和源氏
清和天皇の孫 経基王が臣籍降下
河内源氏が清和源氏の嫡流になる。
③河内源氏の東国進出
平忠常の乱で関東武士の棟梁は「清和源氏」に移動
前九年の役で東北地方の主導権は清原氏が掌握
後三年の役で清原氏は滅亡。東北地方の主導権は奥州藤原氏が掌握した。
源義家の名声は高まり、義家と東国武士との結束はさらに強化した。
「天下第一武勇の士」と言われた。
④河内源氏の低迷と復活
内紛と陰謀を経て、
義朝(1123~1160年)の登場
為義の長男。母は藤原忠清(白河法皇近臣)の娘
⑤桓武平氏
桓武天皇の曾孫高望王が臣籍降下
桓武天皇→葛原親王→高見王→平高望
平清盛:高望の8代孫、母祇園女御は、白河法皇の愛妾 ・・・出生を巡る風潮がある。
正盛→忠盛→清盛
B 保元の乱
⑦鳥羽院政
白河法皇の崩御(1129年)
白河法皇:父は後三条天皇、母は藤原茂子
鳥羽院政の開始
鳥羽上皇:父は堀河天皇、1103年生まれ、わずか4歳(1107年)で即位
崇徳天皇:父は鳥羽天皇、母は待賢門院璋子
近衛天皇:父は鳥羽天皇、母は美福門院(藤原得子)
後白河天皇:父は鳥羽天皇、母は待門賢院(藤原璋子)。崇徳天皇同母弟
鳥羽上皇と崇徳上皇
風聞と確執:待門賢院×美福門院
⑧後白河天皇の即位
近衛天皇の崩御(1155年)
崇徳系の排除
鳥羽と崇徳の対立が決定的なった。
⑨摂関家内の対立
藤原忠実:摂政・関白(堀河・鳥羽)
藤原忠通:忠実長男 摂政・関白(鳥羽・崇徳・近衛・後白河)
藤原頼長:忠実次男。「悪左府」の異名がある。
忠実・頼長VS忠通
摂関家の後継者争い。
⑩保元の乱
鳥羽上皇の崩御(1156年)
朝廷内の対立関係が顕在化
崇徳上皇と後白河天皇の対立
摂関家内の対立関係
両派に源氏・平氏の軍事力を動員
平清盛・源義朝らが崇徳上皇・藤原頼長の本拠「白河北殿」に先制攻撃した。
後白河方の勝利
結果
後白河天皇の親政開始
平清盛・源義朝の出世・・・武士自体の地位が上昇した。
敗者
崇徳上皇は讃岐に」は配流
摂関家の権威は失墜
忠実は失脚
頼長は事実上の戦死
主要な武士は処刑
源為義・義賢(義朝の父と兄)
平忠正(清盛の叔父)
C 平治の乱
⑪二条天皇の即位
保元3年(1158年)
朝廷内の権力闘争
後白河上皇と二条天皇の対立
院政か、親政か
側近同士の抗争
後白河の側近信西入道の権勢
後白河上皇近臣団でも内部対立
源義朝と清盛・信西
三派形成
院政(後白河)派主流ー信西
院政派反主流 ー藤原信頼、源義朝
親政(二条)派 ー藤原経宗
平清盛は「中立的」
⑫平治の乱
源義朝、藤原信頼の挙兵(平治元年・1159年)
信西の排除が第一の目的
二条派と連合
平清盛が熊野詣に出発した隙に院御所(三条殿)を襲撃、後白河上皇の身柄を確保した。
二条天皇の身柄も確保した。
信西を殺害(宇治田原の逃亡先で)
論功行賞に夢中になる。
清盛の反撃
上皇・天皇はそれぞれ脱出した。
二条派も離反して、清盛方の圧勝となった。
義朝の抵抗
平家の本拠地六波羅を攻めようとしたが、六条河原で敗退
敗者の行方
信頼は出頭したが処刑
義朝は逃亡中、尾張で横死
捕縛された源頼朝は助命
信西も消え、信頼も消え、清盛の独り勝ち→平氏政権へ
※藤原信頼は何の技量もないと評されていた。
次回講義は
3月1日(月)
テーマは応天門の変と大伴氏の没落