ONCC 8期 敗者から見た古代史

~古代史の通説を敗者の立場から読み解く~

源義朝の敗北(保元・平治の乱)

2021年02月24日 | 日記

源義朝の敗北(保元・平治の乱)

講師:狩野 直敏先生

2月22日(月)10時~12時

 

はじめに

①「武士の世へ」

 保元の乱(1129年)

 平治の乱(1159年)

 「都を舞台に」「天皇や摂関家」が直接関与した日本史の大きな転換点の一つ

A 清和源氏

②清和源氏

 清和天皇の孫 経基王が臣籍降下

 河内源氏が清和源氏の嫡流になる。

③河内源氏の東国進出

 平忠常の乱で関東武士の棟梁は「清和源氏」に移動

 前九年の役で東北地方の主導権は清原氏が掌握

 後三年の役で清原氏は滅亡。東北地方の主導権は奥州藤原氏が掌握した

 源義家の名声は高まり、義家と東国武士との結束はさらに強化した。

「天下第一武勇の士」と言われた。

④河内源氏の低迷と復活

 内紛と陰謀を経て、

 義朝(1123~1160年)の登場

  為義の長男。母は藤原忠清(白河法皇近臣)の娘

⑤桓武平氏

 桓武天皇の曾孫高望王が臣籍降下

  桓武天皇→葛原親王→高見王→平高望

 平清盛:高望の8代孫、母祇園女御は、白河法皇の愛妾 ・・・出生を巡る風潮がある。

  正盛→忠盛→清盛

B 保元の乱

⑦鳥羽院政

 白河法皇の崩御(1129年)

  白河法皇:父は後三条天皇、母は藤原茂子

 鳥羽院政の開始

  鳥羽上皇:父は堀河天皇、1103年生まれ、わずか4歳(1107年)で即位

 崇徳天皇:父は鳥羽天皇、母は待賢門院璋子

 近衛天皇:父は鳥羽天皇、母は美福門院(藤原得子)

 後白河天皇:父は鳥羽天皇、母は待賢院(藤原璋子)。崇徳天皇同母弟

鳥羽上皇と崇徳上皇

 風聞と確執:待門賢院×美福門院

⑧後白河天皇の即位

 近衛天皇の崩御(1155年)

 崇徳系の排除

  鳥羽と崇徳の対立が決定的なった。

⑨摂関家内の対立

 藤原忠実:摂政・関白(堀河・鳥羽)

  藤原忠通:忠実長男 摂政・関白(鳥羽・崇徳・近衛・後白河)

  藤原頼長:忠実次男。「悪左府」の異名がある。

 忠実・頼長VS忠通

  摂関家の後継者争い。

⑩保元の乱

鳥羽上皇の崩御(1156年)

朝廷内の対立関係が顕在化

 崇徳上皇と後白河天皇の対立

 摂関家内の対立関係

 両派に源氏・平氏の軍事力を動員

平清盛・源義朝らが崇徳上皇・藤原頼長の本拠「白河北殿」に先制攻撃した。

後白河方の勝利

結果

 後白河天皇の親政開始

 平清盛・源義朝の出世・・・武士自体の地位が上昇した。

敗者

 崇徳上皇は讃岐に」は配流

 摂関家の権威は失墜

  忠実は失脚

  頼長は事実上の戦死

 主要な武士は処刑

  源為義・義賢(義朝の父と兄)

  平忠正(清盛の叔父)

C 平治の乱

⑪二条天皇の即位

保元3年(1158年)

朝廷内の権力闘争

 後白河上皇と二条天皇の対立 

  院政か、親政か  

  側近同士の抗争

 後白河の側近信西入道の権勢

  後白河上皇近臣団でも内部対立

 源義朝と清盛・信西

三派形成

 院政(後白河)派主流ー信西

 院政派反主流    ー藤原信頼、源義朝

 親政(二条)派   ー藤原経宗

 平清盛は「中立的」

⑫平治の乱

源義朝、藤原信頼の挙兵(平治元年・1159年)

 信西の排除が第一の目的

  二条派と連合

 平清盛が熊野詣に出発した隙に院御所(三条殿)を襲撃、後白河上皇の身柄を確保した。

 二条天皇の身柄も確保した。

 信西を殺害(宇治田原の逃亡先で)

 論功行賞に夢中になる。

清盛の反撃

 上皇・天皇はそれぞれ脱出した。

 二条派も離反して、清盛方の圧勝となった。

義朝の抵抗

 平家の本拠地六波羅を攻めようとしたが、六条河原で敗退

敗者の行方

 信頼は出頭したが処刑

 義朝は逃亡中、尾張で横死

 捕縛された源頼朝は助命

信西も消え、信頼も消え、清盛の独り勝ち→平氏政権へ

 

※藤原信頼は何の技量もないと評されていた。

 

次回講義は

 3月1日(月)

 テーマは応天門の変と大伴氏の没落

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 



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